恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「あるべきはずのニルヴァーナ」

2018年10月20日 | 日記
 私は今までに何度か書評をする機会を与えられたことがありました。
 以下は、茂木健一郎氏の『生命と偶有性』という著書についてのものですが、いま読むと、自分の仏教観がわりと素直に、かつシンプルに出ているので、畏れながら紹介させていただきます。



「あるべきはずのニルヴァーナ」

存在すること自体は取るに足りないことだろう。しかし、「なぜ」と問うなら、それは厄災となる。
不治の病に侵された者が、最愛の子供を奪われた者が、天災ですべてを失った者が発する、「なぜ」。
この言葉は理由を問うているのではない。そうではなくて、存在を問うている。彼らがそのように存在していることの無根拠さを露わにしているのだ。そこに、問う存在たる「人間」の絶対的な孤独がある。絶対的とはどういうことか。人は人であるかぎり、たとえやめたくても、「なぜ」と問うことをやめられない、ということである。我々は「なぜ、なぜと問うのか」とさえ問いうる。それこそが根源的な欲望、「無明」なのだ。

存在するものには根拠が欠けている。私が仏教から読み取った「諸行無常」の意味はそれである。このとき、なぜ「諸行無常」なのかを問い、「理由」を探そうとするなら、まさに厄災を招く「無明」となる。
仏教が私に示したのは、「なぜ」と問うことを断念せよ、ということだった。「なぜ私は存在するのか」と問うな。「どのように存在するのか」を問え。「すべては無常である。なぜか」ではなく、「すべては無常である。ならば、どうする」と問い続けよ。
それは無常であることに覚悟をきめながら、あえて自己であり続けるという困難を受け容れる意志である。

人間が「自己」という形式でしか存在し得ない業を背負うなら、いかなる自己であろうとするかを問い続け、「自己」を作り続けなければならない。
ならば「自己」とは、偶然の怒濤をあえて渡ろうとして、数々の難破の果てに、ついに彼の岸に乗り上げた必然という名の小舟である。渡り終わったとき、小舟は思い残すことなく捨てられる。ブッダの説くニルヴァーナを、私はそういうものだと思ってきた。

私が「無常」と言い続けてきたことを、本書で茂木健一郎氏は「偶有性」と言う。私が「厄災」と言っていることを、茂木氏は「奇跡」と言うだろう。つまり、私にとって存在は「苦」であっても、彼にとっては「美しい躍動」なのだ。
私は心底羨ましい。同じようなことを前提として考えながら、彼は存在を、生命を、享受し祝福しようとしている。
「クオリア」として開かれた彼の道程は、リアルとバーチャルの対立を無効にする、「あわい」としての「仮想」に至り、いま「リアル」を真に「リアル」として現成する条件たる、「偶有性」に届こうとしている。

 私はこれまで、彼が次々に提唱する刺激的な言葉に接するたび、自分が学んだ限りでの仏教の考え方に引き寄せてみた。
たとえば、「空」や「縁起」を説く中観思想、認識の構造を明かそうとする唯識思想などとの関係に思いをめぐらすと、その底に茂木氏のアイデアに共通する水脈を感じざるを得なかった。
そればかりではない。私には及びもつかない茂木氏のずば抜けた知性が、客観的対象の単なる科学的理解ではなく、常に具体的な「一人称の生」、つまり「自己」をどう担っていくかに向けられていることを見れば、それが道元禅師の言う「自己をならう」修行、禅家が標榜する「己事究明」の姿勢と同じであることは、一目瞭然であった。

 しかもそうすることで、彼は、私が打ち捨てられるべきだと思っている小舟を、慈しんでいるのだ。そこにはおそらく、私がまだ味わったことがない、求道の悦楽があるかもしれない。彼は言う。
「偶有性の本質を見失わない限り、私たちは戦慄し続けることができる。この一瞬は過ぎ去る。そして、何も死ぬことはないのだ」
だとするなら、その求道の果てにも、私が想像もできない、もうひとつのニルヴァーナがあるはずなのだ。茂木氏はそれを「無私を得る道」と呼ぶ。
「私秘的な体験に誠実に寄り添うことの中にこそ、巨大な宇宙につながる術がある。この認識こそが、これからの困難な時代に私たちの未来を照らす希望でなければならない」
この希望が「恩寵」でなくてなんであろう。


『波』(新潮社 2015年6月号より)

最新の画像もっと見る

199 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (波打ち際)
2018-10-20 01:21:30
なぜ生きる、ではなく
どう生きる、か
返信する
「在る」 (榮久)
2018-10-20 03:03:05
「在る」ということを組み変えようとする努力とは、
したがって、それらを「無い」ものとしようとすることである。
が、 ━━ 無いものはどこに在るか。
これは不可能である。

意識の事実としても、単に形式論理学の命題としてでさえも。
私たちは絶対に在るものしか考えることはできないだろう。

「私は私だ」と誰も言う。
じじつそうである。しかし「私」はどこに在るか。
「私」は実体ではない、存在の一形式、もしくは言葉である。
それは、「私とは何か」と問われて、これと答え得るような、どのような何ものでもない。

私たちの精神史に欠けていたものは、存在論である。
自己について、宇宙について、
それらが「在る」と信じることを疑い抜くための徹底的な存在論である。
存在論こそが必須である、私たちが宇宙に置かれたこの位置を正確に知るために。
そしてそれは間違いなく私たちを、とてつもない絶望につきおとす、
人類永遠の理想は宇宙大に霧散する。

「にもかかわらず、しかし!」と呟く
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-10-20 03:55:10
記事に言及されている出版社のHPから
2015年6月号を探してみたかったのでしたが、
過去記事に遡る検索機能は無かったので、
http://kangaeruhito.jp/search?fulltext=%E8%8C%82%E6%9C%A8%E5%81%A5%E4%B8%80%E9%83%8E%E6%B0%8F

上記のURLは茂木さんに関する記事です。
なお、『波』に関する記事も探してみましたが、
無かったので誰かさんが探せたら
コピペ―お願いします。

2015年5月号を探せる人がいましたら
コピペも兼ねてお願いしたいです。

先ずは全文を読んでみて
この記事との合体してみたいですね。

今回の記事は
私にとって
胸が躍るような
文字を打つ指が震えるような
活き活きした記事ですね。

皆様ももう古びたお新香のような
コメントは控えて
今回だけは
新鮮になりましょう。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-10-20 04:20:13
『波』は記事でなく
メールマガジンだったです。
院代による記、
『空海が現代人ならと想像させる書』のURLは
https://www.shinchosha.co.jp/book/378408/#b_review

以下は本文コピー

>自慢話めいた言い草になって恐縮だが、以前、私は著者の大作小説のモデルだと思われていた時期がある。『新リア王』『太陽を曳く馬』の主人公の禅僧の様子が私にソックリだと、多くの人たちから言われたのだ。
 それはそれで驚いたが、しかし、作品が私に与えた衝撃は、モデル云々などというレベルのものではない。そこに開陳されていた、我が曹洞宗の祖、道元禅師の主著『正法眼蔵』に対する読みの深さと強度だった。
 いつかまたお目にかかって、さらに突っ込んだ話を伺いたいものだと思っていたら、著者が空海上人について書くのだという。これにまた驚いた。実は、私にも空海上人に思い入れがあったからである。
 私は、日本の仏教史上、その思想の構造的独自性とインパクトにおいて、空海、法然、親鸞、道元の四祖師に過ぐるはない、と考えている。とりわけ、空海上人と道元禅師はまさに好対照である。
 超越的な理念や絶対神的存在を現実世界の根拠に置いて、その世界に存在するものの構造全体を説明する思想を形而上学というなら、日本において初めて形而上学を持ち込み、それを理論的に体系化したのが空海上人だと、私は考える。そして、その影響は彼以後の様々な思想的言説に対して抜群かつ絶大であった(今なおである)。
 彼が導入した密教は、大日如来という超越者が人間たる修行僧と修行の果てに合一するというパラダイムを持つ。空海上人はこれを「即身成仏」として理論化した。
 この理論は、根底にアニミズム的心性を保持している日本の思想風土に極めて馴染みがよかったのである(「現人神」の存在と「ありのままの世界がそのまま仏の世界である」的言説の大量発生)。
 おそらく、法然、親鸞、道元、日蓮など、鎌倉時代の仏教革新運動の担い手たちは、淵源が空海上人である思想(天台本覚思想)への挑戦者として、その強力無比な縛りを断ったのだ。
 特に道元禅師は、仏教の核心である「観無常」の立場を決してゆずらず、さらに形而上学を持たない日本的心性を背景に、あらゆる形而上学的言説を拒否して、いわば形而「外」的な視点を確保しながら、独自の体系を構築した。その思想的態度は、まさに空海上人の対角線上にあるだろう。
 このような筋書きの読みは浅薄かもしれないが、本書に見る捌きも鮮やかな空海上人の思想解説は、私の読みも満更的外れでもないと思わせてくれた。
 今回著者の描き出す空海上人の全体像に触れて、私が特に感慨深く思ったのは、空海上人が現代人だったら、あるいは出家しなかったのではないかということだ。
 法然、親鸞、道元などの祖師は、現代にあっても出家しただろうと思える。彼らにはどこかに実存の「苦」に対する痛覚がある。それが彼らを遂には出家に導くような気がする。
 しかし、空海上人の場合、「苦」によって出家したようには、どうしても思えない。熱烈な「絶対的真理」への情熱と、それに到達する方法への渇望を胸に秘める、空前絶後の「万能の天才」が、それを実現する場を当時にあっては仏教以外に見出しえなかった結果の行為、それが彼の出家に見える。羽目を外して言えば、もし彼が現代人なら、桁違いの「天才マルチクリエイター」などと言われるような人物になったのではないか。
「お大師様」として、歴史上の人物がこれほど広汎に信仰されてきた事実からして、私は彼のカリスマが、単に仏教僧侶の範疇に納まるものとは思われない。
 最後にあえて蛇足を言わせていただければ、その空海上人を観る作者の眼は、当の空海上人の、さらにその向こうを観ている気がする。真理の、仏教の、あらゆる言説の彼方。強引な我田引水をお許しいただきたい。私は、著者の観る彼方に、釈尊も道元禅師も観たに違いない、「実存」の無常があると思うのだ。

(みなみ・じきさい 禅僧)<

今回の記事につなげるパズルのピースかもです。
返信する
探究という姿勢 (朝寝坊)
2018-10-20 04:34:06
『「真理はこうだ」などと言い切らない。言い切らないで、余りを出し続けるという作業が必要になるでしょう』院代発言に通低する信条でしょうか。問い続ける、信仰ではない思索の旅。
何かを崇め、それを元にしかコメント出来ない諸氏は「真理はこうだ」と言い続ける。○○長老はこう言ったとか、引用文がいかにも自己の代弁者のごとき稚拙なコメントだと気付かない。
私も反省し、問う事から始めることとします。
返信する
Unknown (Z)
2018-10-20 04:46:49
新潮社の「波」は最近は百円で書店の片隅に置いてある書評やら宣伝やらの小冊子です。ついでに、以前は無料でした。
返信する
ナルヘソ (早起き君)
2018-10-20 04:55:26
茂木さんも脳と何とか本で、小林何とか賞を受賞されていたんですね。

喜ばすべきはずの新○社への恩義でしょうかね。


茂木さんと受賞を分かち合われましたか。
返信する
手抜き記事ですかね (Unknown)
2018-10-20 05:10:11
「生命と偶有性」 新!潮!社!
https://www.shinchosha.co.jp/sp/book/603771/

こちらの書評マルゴトですね。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-10-20 05:16:00
手抜き記事ですかね (Unknown)
2018-10-20 05:10:11
「生命と偶有性」 を添付して下さった方に

ありがとうございます。
私は探せなかったのに、

読んでみたら
手抜き感無くは無いですね。

張り切っていた私の風船に
ピーッシーと空気穴が????
返信する
無明と妙 (御坊哲)
2018-10-20 05:25:06
無常とはこの世界の偶然性のことでしょう。その無根拠性にわれわれの実存的な不安がある。しかし、その奇蹟性に気づけばこの生の意義を見出せるということでしょうか。
返信する