最近、ある県のお坊さんの研修会で、般若心経の講義をしてきました。お聞きいただいた方々、ありがとうございました。
その講義の後のディスカッションの席で、司会者の方が、「般若心経に出てくる『空』は、一言で言うなら、どういうことだと思いますか」と質問したのです。
それが一言で言えたら、面倒な講義は不要だろうなと内心苦笑しましたが、私は「思い込みで物を言うな、ということだと思います」と答えておきました。
我々は時々、「事実を語る」とか、「本当のことを言う」と称して何事かを他人に言葉で伝えますが、人間は「事実」や「本当のこと」そのものを語ることはできません。「事実」や「本当のこと」は、実際には語り手が「事実だと思ったこと」「本当だと思ったこと」にすぎません。
この「事実だと思ったこと」「本当だと思ったこと」を「事実」や「本当のこと」それ自体だと言うなら、これこそ妄想です。この根拠なき妄想を否定する一面が、「空」の考え方にはあると思います。
したがって、人間が「事実」や「本当のこと」に対して採用しうる最もまともな態度は、「どうしてそう思ったか」「どのような方法でその結論に達したのか」を説明できるようにしておくことでしょう。つまり、「事実」や「本当のこと」を語る方法に自覚的であり、その方法の限界内での「事実」や「本当のこと」しか言えないことを、十分わきまえていなければならないと思うのです。
これは単なる相対主義の考え(結局人の見方はそれぞれで、「真理」などというのは妄想に過ぎない)とは違う立場です。私に言わせれば、これは、「真理」の主体化、自己責任において「真理」を表明する決意のことなのです。私は、「空」の立場に「信仰」が成り立つとするなら、この意味においてでしかありえないのではないかと、常々考えています。
・・・・ということからすると、テレビの「情報」番組がタレ流す「情報」が「事実」「真実」だと簡単に思い込むのは危険でしょうね。それは「テレビ番組制作者が事実だと思っている」に過ぎず、常に「テレビ番組」的思惑の中で語られるのであり、その前提で参考にするしか使い道がない「情報」でしょう。おしまいに蛇足の一言でした。