恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

一言で言うと

2007年02月24日 | インポート

 最近、ある県のお坊さんの研修会で、般若心経の講義をしてきました。お聞きいただいた方々、ありがとうございました。

 その講義の後のディスカッションの席で、司会者の方が、「般若心経に出てくる『空』は、一言で言うなら、どういうことだと思いますか」と質問したのです。

 それが一言で言えたら、面倒な講義は不要だろうなと内心苦笑しましたが、私は「思い込みで物を言うな、ということだと思います」と答えておきました。

 我々は時々、「事実を語る」とか、「本当のことを言う」と称して何事かを他人に言葉で伝えますが、人間は「事実」や「本当のこと」そのものを語ることはできません。「事実」や「本当のこと」は、実際には語り手が「事実だと思ったこと」「本当だと思ったこと」にすぎません。

 この「事実だと思ったこと」「本当だと思ったこと」を「事実」や「本当のこと」それ自体だと言うなら、これこそ妄想です。この根拠なき妄想を否定する一面が、「空」の考え方にはあると思います。

 したがって、人間が「事実」や「本当のこと」に対して採用しうる最もまともな態度は、「どうしてそう思ったか」「どのような方法でその結論に達したのか」を説明できるようにしておくことでしょう。つまり、「事実」や「本当のこと」を語る方法に自覚的であり、その方法の限界内での「事実」や「本当のこと」しか言えないことを、十分わきまえていなければならないと思うのです。

 これは単なる相対主義の考え(結局人の見方はそれぞれで、「真理」などというのは妄想に過ぎない)とは違う立場です。私に言わせれば、これは、「真理」の主体化、自己責任において「真理」を表明する決意のことなのです。私は、「空」の立場に「信仰」が成り立つとするなら、この意味においてでしかありえないのではないかと、常々考えています。

・・・・ということからすると、テレビの「情報」番組がタレ流す「情報」が「事実」「真実」だと簡単に思い込むのは危険でしょうね。それは「テレビ番組制作者が事実だと思っている」に過ぎず、常に「テレビ番組」的思惑の中で語られるのであり、その前提で参考にするしか使い道がない「情報」でしょう。おしまいに蛇足の一言でした。


作者の困惑

2007年02月15日 | インポート

「私だけ・・・」という女性お笑い芸人のギャグがありますが、こんなことは私だけなんでしょうか。

 私はすでに何冊か本を出しているのですが、出すたびに、しばしば「ご本、読みました!」とニコニコしながら言ってくださる方と、出会うことになります。このとき、私はいっぺんに血が逆流するように、恥ずかしくなるのです。本当に背中に汗が出てきたりします。そして、一刻もはやく話題を変えようとするので、おそらく相手には不審な感じさえ、与えているかもしれません。

 自分でも理由がわかりません。読んでほしくて出版しているわけで、読んでもらえることは嬉しいに決まっているのに、なぜ、面と向かって「読みました」と言われると、これほど恥ずかしいのか。

 尾篭な話で恐縮ですが、あの恥ずかしさは、喩えるならば、自分の排泄物について話をされている感じに近いのです。

 まあ、普通に考えれば、作品の欠陥と未熟は自分なりによく知っているわけで、けっこう痛い反省と後悔とともに、すでに過去のこととして一段落つけようとしている当の物を、思わぬときに真っ向から持ち出されて、いまさらながら困惑しているのかもしれません。それにしても、汗がでることはないでしょうに。

 文章での感想や批評では起こりません。直接対面しているときに限るのです。本当に不思議です。他にもそういう方はいるのでしょうか。また、どうしてこんなに恥ずかしいのでしょうか?

 


他覚の自覚

2007年02月06日 | インポート

Photo_49  恐山総門の南には小高い丘があります。ここには、古くから「林崎大明神」がお祀りされています。かつては女人禁制の場所といわれたところで(今は違います)、その理由というのが、恐山を開かれた慈覚大師のお袈裟が埋められたところという言い伝えがあるからなのです。

 お袈裟というのは、言ってみればお坊さんのユニフォームのようなものです。もとはといえば「汚れた布」という意味で、最初期の修行僧が、捨て去られたような粗末な布を縫い合わせて衣服としていたことに由来します。それが次第に信者から寄進を受けて清浄な布を用いるようになり、仏教が中国など寒冷な地方に伝わると、それぞれの民族の衣装に象徴的・装飾的に重ね着するようになっていきます。しかし、形は違えど、これはお坊さんであることを示すユニフォームであることに変わりはありません。

 永平寺を開いた道元禅師は、お袈裟を心から尊んだ方です。主著『正法眼蔵』には、特に「袈裟功徳」という一章が設けられていて、お袈裟の持つ意義を言葉を尽くして語っておられます。なぜ、これほど強調したのでしょうか。

 私が出家するとき、師匠がこう言いました。「世間で着ていた服を焼け。それだけが出家の条件だ」。

 私はずいぶん長いこと師匠の言葉の意味がわからなかったのですが、入門から2年ぶりに禅道場から外出の機会を得たとき、ラーメン屋に入った瞬間に、身にしみてわかりました。その店のお客の全員が一斉に私を見たのです。麺が口に入ったままの人もいました。その、強烈な光を浴びせるような視線の意味。

 思うに、自分の在りようを独力で自覚すること、自覚し続けることは、それほど簡単なことではないのです。むしろ他者の視線こそが、己の自覚を支えてくれる大きな力なのではないでしょうか。いつどこにいてもお坊さんであると一目瞭然にわかるようにしておくことは、自覚し続けることの厳しさをよく知っていた先人の知恵だったのでしょう。だから、かつてお袈裟は「教えの鎧」に喩えられたのです。

 右の写真は、丘の上にある林崎大明神のお堂です。Photo_51