恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「唯識」私流

2019年01月30日 | 日記
 これまで私は、龍樹祖師の『中論』について再三言及し、その中観思想を支持し続けてきました。以前、ブッダの言葉は自分の救いだったし、『中論』は味方なのだ、などと言ったこともあります。

 それにくらべて、大乗仏教思想のもう一つの雄、唯識思想については、さほど発言していません。最近、知人に「それは何故だ」と突っ込まれてしまいました。

 私は唯識思想を軽視しているわけではありません。というよりも、中観思想に従って、それ自体で存在する「実体」を認めないまま、にもかかわらず「○○が存在する」と我々が認識する事態を説明しようとするとき、そのメカニズムの分析として、唯識思想はとてもよく出来ていると思います。

 ただ、私が縁起の思想を言語の問題として捉え説明するとき、それはすでに唯識のパラダイムに近い方法を使っているので、今までことあらためて唯識思想を強調してこなかったのです。

 それともう一つ。私は唯識思想を自分なりにカスタマイズして使っています。素直に唯識の論理に乗っているのではありません。

 まず第一に、私は唯識思想を「深層心理学」のようには考えません。徹頭徹尾、認識論として考えています。つまり、我々の認識の構造を説明し批判する方法として利用しています。

 第二に、すべての存在の発生元のように考えられる「阿頼耶識」(「根本識」「蔵識」の意訳もあり)を、私は言語のことだと考えています。

 実際、阿頼耶識が内蔵するとされる「名言種子」は、事実上阿頼耶識の機能そのものですから、端的に阿頼耶識は言語なのだと言ったほうがよいと、私は思います。そうでないと、阿頼耶識が「万物の根源」のごとき形而上学的概念に転化する恐れが高いでしょう。

 それに対して、唯識の「三性」思想は私の考え方そのもので、初めてこのアイデアを知った時には驚きもし、新しい援軍を得たようで嬉しかったことを覚えています。

 実際には関係において存在するものを、「実体」と錯視して執着することを「遍計所執性」と言いますが、これぞ言語の機能です。関係性において存在する事態は「依他起性」、さらに「遍計所執性」的認識を脱して、存在の「依他起性」を確実に認識することを「円成実性」と説明するわけですが、この整理の仕方は実に見事です。

 つまり、唯識思想は、我々が物事を認識する構造を説明するモデルとして、また縁起的実存を「実体」と錯視するメカニズムを説明する方法として、極めて使い勝手がよい仕上がりになっています。その場合、「阿頼耶識」はあくまで言語のことだと考えるのが、私の流儀というわけです。

申し訳ございません。

2019年01月20日 | 日記
不覚にもインフルエンザに罹患してしまいました。予防接種は受けていたのですが。

おととい夜に急に発熱。昨日病院に行ったのですが、39度超えの熱が下がりませんでした。

今朝、ようやく37度台に下がったところです。

誠に恐縮ではございますが、かような次第で、今回は面目ないご報告のみにさせていただきます。

合掌

君の名は

2019年01月10日 | 日記
遅ればせながら、新年あけましておめでとうございます。

年の初めの思いつき禅問答シリーズ。

仰山慧寂禅師が三聖慧然禅師に尋ねました。

「君の名は何ていうの?」

「慧寂です」

「慧寂は私だよ」

すると三聖禅師は言いました。

「私の名は慧然です」

それを聞いた仰山禅師は大笑いしました。


この話、私はこう思います。

名前を訊かれた三聖禅師が、いきなり相手の仰山禅師の名前(慧寂)で答えたのは、所詮、言葉と言葉によって意味されるものとの間には、必然的な関係がないことを示唆するためです。つまり、言葉はものの「本質」を補足しているわけではないのです。これは、「近代言語学の父」とも称されるソシュールの言う、言語(記号)の恣意性のことでしょう。

ということはすなわち、ただある言葉を自称したところで、それがそのまま自分の名前として通用するわけではないのです。自称する言葉が他者に承認され、共同化されて初めて、「自分の名前」になるわけです。

そもそも、名前の始まりが他者からの付与であることは、名前の根源的な恣意性を示すでしょうし、それは同時に「自己」存在の無根拠性(無本質性)を暴露するものです(すなわち、「自己」は共同体における人間関係の結節点であり、名前はその位置のメルクマールにすぎない)。

そこで、仰山禅師は「慧寂」が共同化しているのは自分においてなのだと、「慧寂は私だよ」と言ったのです。

これに対して、三聖禅師が「私は慧然です」と言わずに「私の名前は慧然です」と言ったのは、仰山禅師が言語の恣意性を自覚するように促すためです。

その見事な切り返しに、仰山禅師は大笑いしたわけです。


皆様の本年のご健康とご多幸を切に祈念申し上げます。