goo blog サービス終了のお知らせ 

恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

GOOブログへの投稿は終了しました。

2025年07月01日 | 日記
 長らく読んでいただいたGOOブログの「恐山あれこれ日記」は、投稿を終了しました。

 本日付の記事より、はてなブログ(https://kitijyozan.hatenablog.com)に投稿します。引き続きよろしくお願い致します。

 追記:恐山「坐禅と講話の会」は、本日午前9時より、参加申し込みを受け付けます(0175-22-3826)。

追記:霊場恐山の公式サイトを開設しております。恐山山主の監督の下、院代(住職代理)が管理する唯一の公式サイトです。恐山が責任を持って発信する情報は、この公式サイトに掲載される記事のみですので、よろしくお願い致します。以下、アドレスです。

「霊場恐山(公式)」サイト https://reijyo-osorezan.jp


お知らせ2件

2025年06月15日 | 日記
 お知らせを2つ、させていただきます。

一、恐山「坐禅と講話の会」再開について。

 コロナ禍などで休止していた、恐山で院代が主催する「坐禅と講話の会」を、今年9月に再開します。詳細は恐山の公式ホームページ「霊場恐山(公式)」をご覧ください。ご関心のある方、どうぞご参加願います。

一、ブログの移転について。

 「gooブログ」のサービス終了に伴い、当ブログは「はてなブログ」(https://kitijyozan.hatenablog.com)に移転します。7月1日以降の記事は、そちらでご覧ください。なお、11月の「gooブログ」終了までは、「恐山あれこれ日記」が2つ並存することになりますので、よろしくお願いします。

 

面目ないご報告

2025年06月01日 | 日記
恐縮ながら、5月1日、記事の掲載を見送りました。今回はその事情を申し上げます。

 実は、その2日前の4月29日、肋骨を2本、折ってしまったのです。面目ありません。

 29日の前1週間は、福井の大本山永平寺にいました。年間で最も大きな法要が営まれている時期で、期間中に連続説教をするように命ぜられ、受けた以上責任を果たすべく、それなりに頑張ったのです。

 ただ、連日午前午後の2回、90分弱の説教は、いささか「前期高齢者」には堪えました。さらに問題なのは(本当は喜ぶべきことで、「問題」などと言ってはいけないのですが)、本山修行が長かった私には、先輩・同輩・後輩に知人が多いことです。その人たちが、「この度はお役目お疲れ様です」とか「めでとうございます」とか、ご丁寧に挨拶に来てくれるのです。これが、私には結構「堪える」わけです。

 まず、「先輩」に合うと、修行僧時代の上下関係が瞬時によみがえり、先方に「南老師、お務めご苦労様」などと丁寧に挨拶されると、かえって昔の面影がフラッシュバックして、背中の筋肉が緊張します。

 もっとまずいのは後輩で、「老師、あの時はお世話になりました」などと言われようものなら、「いったいオレは彼に何をしたんだろう」と、当時の「ダースベーダー」は内心戦々恐々状態になるわけです。

 それやこれやで、私はかなり草臥れて、29日の昼までお役を務め、午後下山して自分の住職寺にもどりました。ここで最低限の片づけをして、その日の夜には東京まで出ないと、5月1日の恐山開山の日に間に合いません。院代として、その日そこにいることが責務です。いないわけにいきません。

 この焦りがいけませんでした。持ち帰った鞄から出した法衣三着を両手に持って、寺の急で狭い階段を半分上ったところで、いきなり足が滑って、左胸から落ちたのです。息ができないほどの激痛に、折れたとすぐにわかりました。

 5分ぐらい身まったく身動きできませんでしたが、ようやく息が吐けて、立てたのです。立ってみると、なんとか歩けました。試しに5キロ前後はある鞄を持つと、右手では大丈夫(左は取っ手を握るだけで痛い)。若干の躊躇はあったものの、新幹線は寝ているだけだと思って、私はこのまま帰る決断をしました。

 駅まで連れて行ってくれた馴染みのタクシーの運転手は、普段は口数が少ないのに、「帰るのはやめましょうよ、このまま病院に行きましょう」と、非常に心配して何度も説得を試みてくれました。その親身な言葉を振りきって、新幹線に乗り込み、痛みに耐えつつ、その日の夜には、なんとか東京にたどり着きました。

 ようやく部屋に入ったものの、痛みと疲労で、食事も着替えもできず、そのまま倒れるように眠ってしまいました。翌朝、眼が覚めてみると、恐れていた発熱も無く、昨日より状態が悪化したようにも思えません。もう一度くらい、新幹線に乗れそうです。

 そこで、東京駅まで行こうと電車に乗ったのですが、これが最悪でした。もうゴールデンウィーク入りしているのだから、平日といえども空いていると思いきや、混んでいるのです。ほぼ満員。立っている他ありません。それはいいのですが、私の周りが、どういうわけか全員、80歳前後かというお年寄りなのです。しかも、ちょうど私の肩よりやや下、くらいの身長なのです。

 この方々の頭が、電車が揺れるたび、私の胸のあたりにぶつかるわけです。激痛も激痛! 声が出そうになるのを無理やり堪えると、それがまた痛い!! 左胸付近に当たった時には、絶叫して悶絶しそうになりました。

 ところが、お年寄りをはじめ、誰も眼の前の坊さんが骨折しているとは知りません。彼らには、電車が揺れるたび、坊さんが溜息を吐きながら、顔をしかめているようにしか見えないわけです。だから、揺れるたびに、近くのお年寄りが、私を見て、いぶかしげな表情をするのです。

 そこへ再び左胸に一撃、私は、眼の前で坐っている若い連中に叫びそうになりました。

「お前たち! 席を譲れ!!」

 これは「私に席を譲れ」という意味ではありません。あの瞬間思ったのは、「このじいさん、ばあさんたちを坐らせろ!!」ということだったのです。本当に痛いと、意識はその原因の直接除去に集中するのでしょうか。

 この試練を乗り越えて、私は5月1日、恐山の本尊の前に立ちました。そして、ゴールデンウィークの間、ほとんど「特攻」精神で法要と説教を乗り切りました。

 現在、痛みがのこるものの、ほぼ以前の日常に復帰しております。ご心配とご迷惑をおかけした皆さま、誠に申し訳ありませんでした。


追記1:
 前回記事(5月30日付)の通り、恐山の公式サイトを開設しました。何卒よろしくお願い致します。

追記2:
 拙著『正法眼蔵 全 新講』第2巻(春秋社)が刊行されました。ご関心のある方々、よろしくお願い致します。

雪解けの恐山

2025年04月01日 | 日記
 さる3月22日、閉山中の恐山に様子を見に行きました。開山前の準備に向け、境内の状態を確認するためです。(写真は拡大できます。)

 この時期、恐山には雪上車かスノーモービル以外では行けません。

  恐山街道に入りました。雪上車からの写真。最近の暖冬と雪解けで積雪は少な目、1メートルほどです。

 宇曽利湖です。厳寒期は完全に結氷していますが、この日はすでに一部の湖面が現れていました。

 境内中央部分です。地熱があるので、例年ここに雪は無いのですが、今年はさらに雪が少なく、広範囲に溶けていました。

 極楽浜に続く岩場の方は、まだ1メートルほどの積雪がありました。やはり少ないです。7,8年前なら普通に2メートル、多い年で3メートルを超えていました。(写真右下、年月日が更新されていませんでした。失礼。)

 4月中旬以降、開山準備が始まります。今年も無事5月1日の開山を迎えられることを願っています。その節はどうぞご参拝下さい。お待ち申し上げます。


「知らない」を知る

2025年03月01日 | 日記
 久々に禅問答の話を。
 
 ある老師が門下の修行僧に問うた、
「君、どこに行くのかね?」。
 修行僧は答えた、
「ここを出て、あちこちの道場を尋ねて修行の旅をしようと思います」。
 老師は重ねて問うた、
「その修行の旅というものを、君はどう考えているのだね?」。
 修行僧は言った、
「知りません(不知)」。
 すかさず老師は言った、
「知らないという境地に至って、はじめて最も仏法に切実に取り組んでいること(親切)になるのだよ」。

 この話は多くの場合、修行の旅の何たるかを思慮分別で考えてもダメで、その分別を捨てて、旅の実践の中で仏法を会得すべきことを説いている、と解釈されます。

 したがって、修行僧の言う「不知(知りません)」は、何もわかっていないこと「無知」ではなく、それなりの境地に達しているからこそ言えた言葉で、老師は、それがわかっているからこそ、最後の一言で結んだというわけです。

 この解釈は、それはそれで結構だと思うのですが、私は敢えて修行僧の「知りません」を文字通りに解釈したいと思います。彼はその時、ただ修行の旅に出て、研鑽を積もうとしていただけで、自分の修行の意味を考えてはいなかったのです。

 老師が言いたかったのは、彼が自らの修行の意味を考えていないことに気がつくべきだ、と言っているのです。気がついたうえで、さらに、なぜ自分は旅をするのか、どのように旅を続ければよいのか、旅の途上で考え続けるべきであり、それこそ仏法に切実に取り組む修行なのだと説いている、と私は考えたいのです。だからこそ、老師は「不知」を確認するかのように繰り返したのではないでしょうか。

 人が悩み苦しんでいる時、しばしば彼は自分が何に苦しみ・悩んでいるのかがわからないどころか、苦しんでいること・悩んでいること自体に気がついていないことさえあります。それではどうしようもない。まずは、気がついていないことに気がつくことから、「意味ある」ことは始まるのです。

 では、この時、「意味」とは何か。それは人の生き方を変えるものです。