goo blog サービス終了のお知らせ 

恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「『正法眼蔵』私流」第14回のお知らせ

2025年04月22日 | 日記
東京赤坂・豊川稲荷別院様での講義「『正法眼蔵』私流」第14回は、

5月9日午後6時より行います。

なお、別院様の開場時刻は午後5時30分です。

その他の参加要領については、2024年1月18日付けの本ブログ記事をご覧ください。

雪解けの恐山

2025年04月01日 | 日記
 さる3月22日、閉山中の恐山に様子を見に行きました。開山前の準備に向け、境内の状態を確認するためです。(写真は拡大できます。)

 この時期、恐山には雪上車かスノーモービル以外では行けません。

  恐山街道に入りました。雪上車からの写真。最近の暖冬と雪解けで積雪は少な目、1メートルほどです。

 宇曽利湖です。厳寒期は完全に結氷していますが、この日はすでに一部の湖面が現れていました。

 境内中央部分です。地熱があるので、例年ここに雪は無いのですが、今年はさらに雪が少なく、広範囲に溶けていました。

 極楽浜に続く岩場の方は、まだ1メートルほどの積雪がありました。やはり少ないです。7,8年前なら普通に2メートル、多い年で3メートルを超えていました。(写真右下、年月日が更新されていませんでした。失礼。)

 4月中旬以降、開山準備が始まります。今年も無事5月1日の開山を迎えられることを願っています。その節はどうぞご参拝下さい。お待ち申し上げます。


「知らない」を知る

2025年03月01日 | 日記
 久々に禅問答の話を。
 
 ある老師が門下の修行僧に問うた、
「君、どこに行くのかね?」。
 修行僧は答えた、
「ここを出て、あちこちの道場を尋ねて修行の旅をしようと思います」。
 老師は重ねて問うた、
「その修行の旅というものを、君はどう考えているのだね?」。
 修行僧は言った、
「知りません(不知)」。
 すかさず老師は言った、
「知らないという境地に至って、はじめて最も仏法に切実に取り組んでいること(親切)になるのだよ」。

 この話は多くの場合、修行の旅の何たるかを思慮分別で考えてもダメで、その分別を捨てて、旅の実践の中で仏法を会得すべきことを説いている、と解釈されます。

 したがって、修行僧の言う「不知(知りません)」は、何もわかっていないこと「無知」ではなく、それなりの境地に達しているからこそ言えた言葉で、老師は、それがわかっているからこそ、最後の一言で結んだというわけです。

 この解釈は、それはそれで結構だと思うのですが、私は敢えて修行僧の「知りません」を文字通りに解釈したいと思います。彼はその時、ただ修行の旅に出て、研鑽を積もうとしていただけで、自分の修行の意味を考えてはいなかったのです。

 老師が言いたかったのは、彼が自らの修行の意味を考えていないことに気がつくべきだ、と言っているのです。気がついたうえで、さらに、なぜ自分は旅をするのか、どのように旅を続ければよいのか、旅の途上で考え続けるべきであり、それこそ仏法に切実に取り組む修行なのだと説いている、と私は考えたいのです。だからこそ、老師は「不知」を確認するかのように繰り返したのではないでしょうか。

 人が悩み苦しんでいる時、しばしば彼は自分が何に苦しみ・悩んでいるのかがわからないどころか、苦しんでいること・悩んでいること自体に気がついていないことさえあります。それではどうしようもない。まずは、気がついていないことに気がつくことから、「意味ある」ことは始まるのです。

 では、この時、「意味」とは何か。それは人の生き方を変えるものです。

 

800年前の「ジェンダー」論

2025年02月01日 | 日記
 我が曹洞宗の祖、道元禅師の主著として有名な『正法眼蔵』には、「礼拝得随」という巻があり、ここに極めてユニークな教えが説かれています。それは、今時で言うなら、ジェンダー平等論に当たるものです。

 ここで禅師は、仏の教えを学び、修行し、それを体得するのに、出自、年齢、性別、地位など、一切の属性は無意味だと主張しています。中でも、教えを学んだり修行するに際して、性差による優劣、つまり「男尊女卑」的意識を持ち込むことの愚を、強力に主張しているのです。

 もちろん、現代のジェンダー論や人権的観点に立つ議論と比較すれば、仏教の修学という極めて限られた範囲のアイデアですが、およそ800年前、鎌倉時代の日本で、性差の問題についてこれだけの発言をしていることは、特筆に値するのではないでしょうか。

 修行に打ち込んで教えを体得した女性僧侶(尼僧)に対して、師弟の礼をとって教えを請うことは、中国禅宗においても当然のことだと、具体例を挙げて詳述しています。そして、それができない者は、要するに仏法の何たるかを弁えていない愚物なのだと、厳しく批判するわけです。

 私がさらに注目するのは、日本にある性差別的な考え方への嘲笑まじりの非難です。拙訳で以下に紹介します。

「また、日本国には一つの笑い事がある。所謂、あるいは結界と称し、あるいは大乗(仏教)の道場と称して、女性僧侶・女性などが来ても入れようとしない。(このような)間違った慣習(邪風)が長く伝わっていて、人は(これを間違っていると)弁えていない。長く修行している者も改めようとせず、博学の人が考え直すこともない。」

 これは、いわば自分の「業界」内部の不合理に対する舌鋒鋭い苦言です。それなりの覚悟が無いと、できることではないでしょう。その証拠に、この一節のある文章は、後に「75巻本」として編集する際に割愛されているのです。当時編集に当たった者に何らかの忖度があったか?

 この割愛が禅師自らの判断か、弟子の考慮かは不明ですが、現在の「75巻本」にある文章の調子からして、著者自身が特にここを削除する要を感じたとは、私には思えません。因みに、江戸時代に編集された永平寺版(本山版)『正法眼蔵』には収録されています。改めて禅師の意志を慮ったのかもしれません。

 禅師の法孫として現代を生きる我々には、この教えを今一度学び直し、足元の状況を反省・改正した上で、さらに広く世に問う責務があるはずです。


「『正法眼蔵』私流」第11回、『眼蔵 全 新講』第2巻刊行のお知らせ

2025年01月25日 | 日記
東京赤坂・豊川稲荷別院様での講義「『正法眼蔵』私流」第11回は、

2月12日午後6時より行います。

なお、別院様の開場時刻は午後5時30分です。

その他の参加要領については、2024年1月18日付けの本ブログ記事をご覧ください。


また、数件の問い合わせをいただいたので、申し上げます。

『正法眼蔵 全 新講』第2巻は、5月中の刊行を予定してると、

出版社から連絡がありました。

ご関心をお持ちの方、よろしくお願い致します。

フェイク考

2025年01月01日 | 日記
 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

 昨年は、やたら「フェイク」という言葉が巷に飛び交いました。偽物、まがい物を意味する言葉です。これがSNS上の情報やニュースをめぐって、何度も話題になったのです。国内外で大きな選挙があったことも、大きな要因でしょう。

 この「フェイク」について考える前に、まず「情報」とは何か。

「情報」というのは、誰かが知らせる(知らせたい)事柄であり、誰かが知る(知りたい)事柄であって、この「知る」の交換・流通において成立するものです。したがって、交換され・流通する情報それ自体に、真偽も善悪もありません。そのような価値判断は、知らせる誰か、知る誰か、即ち人間が行うのであり、情報自体に内在しません。当たり前です。ただ、この事実は重要です。

 情報自体に真偽も善悪も無いなら、情報伝達技術がますます進歩して、どんなに多くの情報がどれほど速く伝達されようと、それで情報の真実性が高まったり、質的に向上するわけではありません。あくまでも、情報自体には価値は無く、価値を生じさせるのは、人間がどう情報を扱うかによります。

 おそらく、世の中の情報の99.99パーセント以上は、我々にとって「クズ」でしょう。これに対して、我々が自分の必要に応じて抽出した0.01パーセントの情報を、「知識」と言います。

 では、「知識」の抽出は、何によって可能なのでしょう。それは彼の生き方や生活スタイルに由来する選択です。この生き方や生活スタイルに組み込まれた知識を、私は「知恵」と呼んでいます。

「生き方」や「生活スタイル」を規定するのは、他者との関係です。他者とどのように関わるかで、生き方や生活スタイルは形成されていくのです。この時、他者との関わりを作り出すのに有意義な「知恵」が、「教養」なのです。

 この他者との関わりを導く「教養」の総体を、私は「世界観」として定義しています。とすると、ある情報が意味や価値を帯びるのは、所詮は、ある人間の「世界観」による選択に由来することになります。

 問題は、この「世界観」が、「現実」を構成していることです。「現実」それ自体は存在しません。それは「世界観」が製作するイメージです。したがって、イメージである点において、「夢」と同じです。違いは、イメージがどれほどの規模で、どのくらいの強度で共有されるか、ということにあります。

 たとえ「現実」でも強度が弱ければ、「錯覚」と呼ばれます。たとえある程度他者と共有されても、それは「取るに足りぬこと」になり、無視されるでしょう。

 他方「夢」は、「夢」を見て冷や汗をかくこともあるくらいですから、十分な強度を備える場合があり、「現実」に引けは取りません。ただ、誰にも共有されることがありません。だから「夢」なのです。

 したがって、「現実」とは、大規模に共有される、強度の高いイメージのことなのです。「夢」は強度が高くても、他者と共有されないイメージです。

 ですから、「現実」を構成する「世界観」が激変するような事態(たとえば大災害)が起きると、「まるで悪い夢を見ているようだ」と言えるのです。

 だとすると、いよいよ次に出てくるのは、真偽の問題、つまり何が「真実」で何が「フェイク」と言う問題です。もし、「現実」も「夢」もイメージであることにおいて違いは無いとすれば、「真実」と「フェイク」を区別する確実な基準が、それ自体としては存在しない、ということにならないか。なるでしょう。

 ある「世界観」が「現実」を作り出すなら、ある「現実」において「真実」であっても、別の「世界観」に基づく「現実」においては「フェイク」になるかもしれません。ドナルドトランプの支持者の中では、しかるべき規模で「移民がペットを食べている」ことは「現実」で「真実」です。

 大事なのは、「現実」は「世界観」の数だけあり、イメージである以上、それを構成する条件が変われば、「現実」も変容するということです。ここをわきまえず「現実」そのものがあると考えれば、それは大きな誤解にしかんりません。

 その上で言うなら、一方の「現実」に生きる者が、他方の「現実」を無条件に否定することはできません。と言うよりも、無意味です。それは「世界観」の違いだからです。ある「世界観」がそれ自体として正しく、別の「世界観」が全くの間違いであると判断する根拠はありません。もしあるとするなら、あらゆる「世界観」を離れた視点から判断せざるを得ず、それは人間には不可能なのです。

 我々はまず、「世界観」が複数あること、即ち「現実」が複数あること、ということは「真実」が複数あることに耐えねばなりません。

 この忍耐を拒否して、現時点で、「現実」と「夢」、「真実」と「フェイク」をある程度区別する基準を設定しようとすれば、人間の身体的な直接経験で実証・検証できることを、「正しい世界観」「確かな現実」「真実」として認定する他ないでしょう。あるいは、身体的経験に基づいて伝えられたと信じ得る情報(誰かが現場で見聞したはずの情報)を、「正しい情報」とすることです。なぜなら、人間において、最も基本的で、構造的に共通すると言えるメディアが身体だからです。

 ですが、これだけ膨大な情報が流通する時代に、それが誰の身体的経験に基づくのか、確実に知ることは困難です。また、「直接経験」の範囲をどう定義するかも、問題です。たとえば、望遠鏡で見る物は「直接見た」ことになるのか? こう考えてくると、ある「世界観」「現実」について、正しいか間違っているかを論争することは、エネルギーの無駄だと言えるでしょう。
 
 思うに、これは、どちらを肯定し、どちらを否定するかという問題にしてはいけません。まずは、そこにある自分とは異なる「世界観」「現実」を否定しない。肯定しないまでも、存在することを認める。正邪を問わない。

 大事なのは、異なる「世界観」「現実」の間にも、共通の問題が存在することを認識することです。そして、その共通の問題に、それぞれの「世界観」から、各々の「現実」において、共に取り組めばよいのです。問題を解決することができれば、真偽などは問題ではありません。問われるべきは解決方法の適否だけです。

 ならば、「世界観」は、常に「問い」に向って開かれていなければなりません。ある「世界観」がそれ自体で完結していると考えてはなりません。あらゆる「世界観」は不確かであり、あらゆる「現実」は脆く、どちらも暫定的にしかあり得ないことを知るべきです。その外に、決して回収しきれない「何か」が残るのです。

 結局、我々の「世界観」や「現実」を導くのは、「真実」ではありません。それは「問い」です。



双方向?

2024年12月01日 | 日記
 以前、精神科医の人と面談したことがあります。

「我々の場合、悩みがあっても、なかなか相談できる相手がいないんですよ~~」

 私がつい爆笑したら、彼もつられて大笑い。しかし、思えば精神科医が相談する相手というと、同業者にはしにくいでしょうし、先方も受けにくいでしょう。ではそれ以外に誰かいるか、そう考えるとむずかしいのかもしれません。

 この会話を皮切りに、彼とは色々な話をしましたが、特に興味深かったのは、彼には精神医学界の現状に思うところがあり、従来の精神医学の考え方や方法を「仏教の視点から解釈し直してみたい」、と言ったことでした。

 まさにこの逆を、私は、学生時代から永平寺の最初の数年にわたって、やっていたのです。

 当時から私は、仏教の無常無我の教えを、「あらゆるものには、そのものとしてある根拠が欠けている」ことだと、解釈していました。そして、何よりも「自己」なる存在がそうであると。

 西洋思想は違います。まず、人間を含めあらゆる存在は神に創造されたのですから、その被創造性において、神という確実な根拠があります。時代を下って、その神のリアリティが落ちると、「(われ)思う、ゆえに(われ)あり」と言い出す者が現れ、人間について、神に保証された「思う理性」を根拠の座に着けました。

 私は、この考え方を知った最初から、賛成できませんでした。「思う」からには、常に「〇〇を思う」のであり、ならば、「思う」は自己完結できずに、「思う」こととは別の〇〇(対象)に依存し、それ自体として成立しないからです。

「思う理性」は透明ではない。確実でもない。このことをさらに理論的に考える道具として、私が非常に感銘したのが、精神分析の創始者、ジークムント・フロイトの思想であり、ソシュールの言語学であり、マルクスの著作でした。これらは、人間の在り方が、言語により、経済の構造により、無意識をはじめとする身体からの作用によって、強く規定されていることを、驚くべき規模と鋭さで説いていました。

 さらに、ソシュールのアイデアとフロイトの無意識を結びつけた、ジャック・ラカンの主張を読んだ時には、唯識論の「阿頼耶識」という概念を思い出しました。無意識は言語によって構造化されているとラカンがいう時、私は唯識論の「言葉による熏習の種子」というアイデアを想起したのです。

 あの頃の私は、仏教を語る僧侶の言葉の、詰めの甘さに辟易していて、異なるジャンルの言説に可能性を見つけ、仏典や『正法眼蔵』の解釈に応用しようとしていました。まさに、精神科医の彼がしようとしていることの真逆です。

 彼との対話は、私の「邪道時代」を懐かしく思い出させるものでした。その功罪も。