恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

試験とスポーツ

2019年12月10日 | 日記
学校嫌いで虚弱児童だった者の偏見を二つ。

今まで本ブログで何度か、学校教育とオリンピックについて言及してきました。私は、世間はこの二つに妙な思い入れをしすぎるような気がするのです。

 だいたい、教育は試行錯誤を繰り返しながらしていくもので、この世に普遍的なモデルになるような「理想的人間」などいるはずもない(いたらそれは「神」でしょう)のですから、それをつくり出す一律のマニュアル的方法など、あるはずもありません。

 したがって、「道徳」を教科にして評価するなどという馬鹿げたことを考えるのは、自省する能力が欠如している人間だとしか思えませんでした。

 学校教育は、政治家と役人が「改革」名目で介入すればするほど、おかしくなっていきます。なぜなら、目の前に生徒がいないところで「教育」を論じるのですから、宿命的に「机上の空論」以外になりようがないのです。

 思うに、学校教育は、まずは教師と児童・生徒・学生と保護者に、何をどうするかについて極力任せて、裁量の自由を与え、彼らは当事者として考え、自分たちのやり方を決めるべきです。

 公教育なら、その時の国家の基本法である憲法の枠組みに納まる条件で、この三者は何をしてもさせてもよいと思います。政治の役割は、教育に相応の人員と資金を配分するだけで十分です。

 今回の入試改革のお粗末さも、そもそも大学入試程度のことなら、現在の高卒認定(旧大検)を全受験者に義務化して、いわば資格試験化し、あとは各大学が自由に試験をすればいいだけです。

「考える力」だの「個性」だの「使える英語」だの、これらを一日二日の試験で一斉に判定しようなどということは、根本的に妄想です。

「使える英語」を言うなら、それを入試で判定する以前に、本気なら、当事者が学校教育における英語を全体として見直し、国が人と資金を投入する以外に、学校における「英語力の向上」など、あり得ません。

 必ずしも道徳的ではない人間が道徳教育を操作し、「偏差値」至上主義の入試を通過した連中が、今更「考える力」や「使える英語」を主導できると思うことなど、まさに倒錯としか言えないでしょう。

 邪な大義(「復興五輪」)と虚偽の勧誘(「温暖でアスリートに最適な気候」)で呼び込んだオリンピックに、無様な不手際が続くのは実に当然でしょうが、私はその背景に、世間の度の過ぎたスポーツ礼讃があると思うのです。

 同好の士が集まってすることなら誠に結構ですが、国家や自治体の資金を大々的に費やして入れ込むようなことではないと思います。

かつてのヒトラーのやり口に乗せられて、所詮は運動会に過ぎぬ興行でナショナリズムを煽り煽られるなど、子供じみている上、時代錯誤的です。

 テレビのニュース番組には必ずスポーツコーナーが確保され、新聞は国際面が多くて2面しかないのに、スポーツ面は少なくて3面、日によっては4面あります。どう見てもおかしいでしょう。「グローバル時代」と連呼しながら、メディアのこの扱いは、見識に欠けています。見識よりも売り上げなのでしょうが。

「健康増進」の宣伝は結構ですが、何をどうするかは個人の選択であり、その度に一緒くたにスポーツを持ち上げる必要はありません。

「健全な身体に健全な精神が宿る」というのは、世を見渡せば世迷言だとすぐわかることで、「スポーツはすばらしい」というご託宣は、何でもそうなように、そう思う人が思えばよいことで、誰もがそう思うべき「普遍的前提」のように語るのは、僭越な思い上がりでしょう(スポーツでは「勇気」を与えたりもらったりできるらしいですが、その程度のやり取り可能な「勇気」は、およそ無くても大丈夫です)。

 スポーツの根本には「闘争」があり、その過度の礼讃は結局、闘争と闘争精神、そして闘争のためのシステムを肯定し強化することに通じます。そこにコマーシャリズムが参入すれば、利害損得が根本の「闘争」を刺激し加速して、ついには個人と社会を蝕んでいくでしょう(「ドーピング問題」、「施設の維持費問題」、「体罰・ハラスメント問題」)

 良かれと思ってすることと、誰も文句は言えないだろうと思ってすることは、多くの場合は思慮が浅いか、勘違いです。反対意見を言う人間との十分な議論を通じて、頭を冷やしてからもう一度考えることが大切だと、ボランティア団体の指導者を長く務めた私の恩師が、その頃生意気な修行者だった私に教えてくれました。
 
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メディアとしての身体

2019年11月30日 | 日記
 自己が他者との関係から生起するとすれば、その関係を具体的に担うものが何であるかによって関係の仕方が変わるわけですから、それは我々の実存に直接的な影響を与えるでしょう。とすれば、他者との具体的なコミュニケーションがどう行われるかは、特に重要な問題です。

 もともと、原初のコミュニケーションは、声(鳴き声)とジェスチャー(指差しなどが典型)という、身体そのものが担っていました。このとき、何ものかが存在することのリアリティは、見る、聞く、触る、舐める、嗅ぐなどの身体感覚が直接保証していました。

ということは、コミュニケーションが可能な範囲は限られていて、基本的に小規模な地縁血縁共同体の内部か、広くてもその周辺の集団までということになるでしょう。

 その後、言語が発生して、コミュニケーションの範囲と深度が拡大したとしても、発話器官が声帯しかない状況では、身体が中心的なメディアである事情に大きな変化はなかったはずですし、ならば共同体の規模にも構造にも、根本的な変化は生じなかったと思います。

 ところが、文字が発明されると、様々なコミュニケーションの様態・形式が「情報」として大量に蓄積・伝達できるようになり、地縁血縁を基礎とする小共同体が拘束する身体中心のコミュニケーションから解放され、共同体は大規模化・複雑化して「文明」の時代が来ることになります。

 しかしながら、文字情報の使用には教育が必要ですし、文字を記す物体(石や紙など)は、当時物理的な量の確保とその取り扱いに制約があったはずですから、文字情報は共同体の一部集団・階層に独占されることになりました(たとえば中世教会による聖書の独占)。

 この状況が激変したのは、15世紀ヨーロッパにおける活版印刷技術の登場です。この技術によって、文字情報は爆発的に量産・拡散して、それまでとは比べものにならない数の人々が、多種多量の情報に簡便にアクセスし、これを共有することができるようになりました(たとえばグーテンベルグ版聖書の発刊)。

 それは結果として、生まれ落ちた共同体を超え、共同体が規定する様々な属性から距離をおいた視点で、人びとが自らの在り方を考えることを可能にしました。

 このことが、「みんな同じ人間じゃないか」などと言うときの「人間」、それはすなわち、フランス人権宣言が「人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する」と言うところの「人」、現代の我々の社会体制も前提とする「近代的個人」の観念の発明を可能にしたと言えるでしょう。その個人が「契約」で集団を作るところに、「市民社会」が成立するというわけです。

 20世紀に電信電話が発明・普及して、声をふくむ情報伝達が段違いに増大した後、さらにパラダイムを決定的に変えたのは、ラジオとテレビの登場です。声どころか視覚情報の伝達さえも無際限と言ってもよい規模で可能になったとき、そこに「大衆」が出現します。

「大衆」の特徴は、「人間」「個人」と違って、情報に対して中立的になりにくいことです。ラジオやテレビが担う情報は、視聴覚への訴求力の高さから、常にその受け手の欲望を喚起し刺激できます。それは要するに、少数の発信者が多数の受信者を支配しコントロールする時代の到来を意味しました(大衆の支持によって「独裁体制」が成立し得る時代。消費者の大量需要によって巨大独占企業が出現する時代)。

 しかしながら、「人間」と「大衆」の時代においては、その「情報」の質、すなわちリアリティの度合い(真偽)を、最終的に身体において確かめることができました(「百聞は一見にしかず」的意識)。また発信者もそこに最終的な保証をもとめていました(たとえば、メディアが言うところの「足で稼ぐ」「現場主義」)

 しかし、これが21世紀に入り、IT・AI技術の急激な発展が、これまでとは次元の違う大転換をもたらします。それは、受信オンリーだった「大衆」を一挙に「送信者」に変え、受信・発信の強力な相乗作用によって、個人どころか、個々の社会組織の処理能力さえ遥かに超える量の情報が「大衆」を断片化したのです。

 すなわち、限られた数の発信者の力で「大衆」に「共通の情報」を浸透させることが著しく困難になり、それが「大衆」を細分化するわけです。さらに、多様に発信される情報がそれぞれの吸引力にしたがって改めて「断片」をグループ化して、いわゆる「分衆」状態を出現させたのです。

 もう一つの劇的な変化は、とりわけAI技術の劇的な発達が、従来最終的にリアリティを保証していた身体の役割を、原理的に無効にしたことです。

 AI技術は、五感を含む身体能力や機能を、驚くべ精度で模倣したり、途方もない強度で拡張することを可能にしました。すると、もはや、情報のリアリティを最終的に保証する身体の役割は無効になります(ホログラフィックに創作された歌手のコンサートで聴衆が熱狂したり、すでに死んだ歌手を再現して「新曲」を歌わせたら、ファンが感動して泣いたり)。

 今後「分衆」的社会がどうなっていくのか、いま私は見通せません。しかし、その最中にあって、情報のリアリティを身体が担保しないなら、何が担保するのでしょうか。

 ひょっとすると、金本位制から変動相場制になっても通貨が変わりなく機能するように、身体の保証が失われてリアリティとバーチャルの区別が無意味になっても、情報を「分衆」ごとに共有し合意することで、複数の「現実」が構成されるかもしれません。さらには、その「分衆」をかけ持ちし「現実」を複数渡り歩くような、「超個人」が現れるのでしょうか。

 あるいは、情報を独占する巨大システムが開発され、そのシステムが「現実」を一元化することもあり得るでしょう。そのシステムの成立は、「分衆」を解体した上で「断片」を吸収統合することになります。そうなれば、「人間」「個人」は役割を終えて消滅して(ミシェル・フーコーの予言)、システムの一機能のごとき、新たな実存の様式が我々に与えられるかもしれません。

 いずれにしろそうなったとき、リアリティを担保するものがまだ一つ、あるような気がします。それは「苦」の感覚と認識です。

 技術は欲望を実現するものとして開発される以上、情報はすべからく効用と快楽を目的として生産されるでしょう。だとすれば、「苦」は技術が解消すべき対象です。

 ですが、仮に、効用と快楽の追求の果てに、苦しみさえも欲望される時代が来たとしても、それがどんな様態であれ(従来の身体の中に発生すかどうかに関わりなく)、欲望を裏切る実存の苦しみが残存するなら、それこそが情報に亀裂を生み、リアルとバーチャルの区別を要求するかもしれません。

 思うに、「一切皆苦」の思想は、究極的には、リアルとは何かを問うているのかもしれません。

 ただし、リアルが必要かどうか、バーチャルは虚偽で、すべからく危険かどうかは、まったく別の問題です。
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死と神

2019年11月20日 | 日記
「死と神は似ている」

「何のことだ?」

「どちらとも、それ自体が何なのか絶対にわからない。いかなる経験とも結びつかないという意味で、純粋観念だ」

「死は経験できないと、よく君は言うよな。神は?」

「神が永遠で普遍的で絶対的なものだと言うなら、それ自体は、永遠でなく普遍的でなく相対的な存在である我々の経験対象にならない。なるんだったら、絶対ではない。だから、わからない」

「それで?もう少し説明しないと」

「では、まず死について。自己は他者をコピーして構成されるから、死も他者からコピーされる」

「どういうことだ?」

「他者の身体の消滅を見て、それが『自分にも起こる』と確信することから、『死』の観念が発生する。この確信が可能なのは、最初から自己が他者のコピーで始まっているからだ」

「しかし、それが何であるかはわからない、というわけだな」

「そう。すると、自己の存在を決定的に変えてしまう、わけのわからない何事かがいつか起こると確信するなら、その時点で自己存在の根拠は失われるだろう。勝負の決まらないゲームはゲームではなく、ゴールが不明なのにレースをする意味はない」

「そういえば、逆に存在の始まりのほう、『自分がなぜ生まれてきたか』という問題にも絶対に答えは無いな」

「そう。我々が理由めいた話を聞かされるのは大概生まれてきた後だから、それが嘘か本当か判定する基準がない。嘘か本当かわからないことは、『根拠』とは言わない」

「そうか。自己の最初と最後が意味不明では、『存在理由』はハナから破綻していると言う他ないな」

「死についての言い分は、まあいい。神の話はどうなんだ?」

「けだし、神は死の影だ。自己存在の根拠を補填するアイデア、つまり、死があっての神なんだ」

「大胆な言い方だなあ」

「旧約聖書に、十戒で有名なモーセに神が自ら名乗る場面が出て来る。
 『私はある。私はあるという者だ』
 この言い方は、『死』の意味する自己の存在根拠の欠落を解消する。まさにあらゆるものが『ある』ことの最終保証だ。神自らが『ある』ことは、他によって創造されたものではなく、すなわち理由なく無根拠に、それ自体で『ある』。この『ある』こそ、神が創造したすべての『ある』ものの、根源的な『ある』なのだ。
 別の訳だとこう言う。
 『私はなる。私がなるものに』
 この言い方は自分の存在は自己決定によるということだろう。それは同時に、他の何ものにも依存しない、自己責任を貫徹する存在の主張になる」

「なるほど。この神にコミットできれば、自己に『ある』根拠を引き込めるわけだ」

「面白いアイデアだと思わないか?」

「バチ当たりめ!」

「え、誰が当てるの? 神?死?」
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閉山しました。

2019年11月10日 | 日記


 去る10月31日、恐山は令和元年のすべての活動を終え、閉山いたしました。ご参拝いただきました皆様、お疲れさまでした。ありがとうございました。

 写真は閉山3日前のもので、タイミング悪く日が陰ってしまい、その上素人の撮影で、私がこれまで見た中で最も色鮮やかな紅葉をお伝え出来ず、申し訳ない限りです。

 残すところ2か月足らずとなった今年は、大きな災害や事件が重なり、心重いところですが、幸いにも恐山は何とか恙なく本年度を終えることができ、一安心いたしております。

 2度行った坐禅と講話の会は、計30名のご参加をいただきました。告知が遅かったせいか、9月の会に参加の方が偏り、何件か参加をお断りせざるを得ず、相済みませんでした。

 来年は早々に会の日程を当ブログでご紹介したいと思います。今のところ来年度も6月と9月の土日を予定しております。その節はよろしくお願い致します。

 10月も下旬になると、午後には参拝の方々は少なくなり、日没も早まって、午後5時になると境内は足元がよく見えないほどに暗くなります。その直前、夕暮れの恐山は、風に冷たさがあるにもかかわらず、どこか暖かさのある寂寥感が満ちてきて、私はその風光に愛着があります。

 もし、来年に機会がおありの節は、そんな恐山にもお参りいただきたく存じます。
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しています、したいです。

2019年10月30日 | 日記
 昨日、青森県内有志の曹洞宗僧侶の方々と『正法眼蔵』の講読をしてきました。2回目です。前回がプロローグで、今回から「現成公案」の巻に取り掛かりました。お招きのある限り頑張りたいと思っています。

 始めて1年余り過ぎた、永平寺での修行僧とのワークショップ形式の月例講義は、「現成公案」の巻が終了し、次回から「摩訶般若波羅蜜」に入る予定です。

 これらとは別に、2、3年以内に一般公開の『眼蔵』講義ができないものかと思案中ですが、いまのところ予定は未定で、恐縮ながら、まだ確かなことは言える段階ではありません。

 ただ、私はこの講義をはじめとして、全巻講読することをライフワークにしたいと考えており、出版も希望していて、すでにある社に打診しています。

 この企画の狙いは、従来の『眼蔵』解釈のパターンを拙読で断ち切り、これまでとは違う読み方を提示することにあります。

 その場合の「違う」読み方とは、以下の2点についてです。

 一つは、自分自身の読み方、つまり『眼蔵』を読むために設定した観点を、予め明らかにしておくこと。この読み方・観点の事前開示を行っている『眼蔵』解釈本を、私は寡聞のせいか、いまだかって一つも知りません。

自分の読み方に無自覚である者は、本人が意識するかしないかにかかわらず、ある前提で読んでいます。すなわち、『眼蔵』の中には、「仏教の真理」や「道元禅師の思想」などがそのもの自体として埋まっていて、自分はそれをそのまま読み出せるという確信を、前提にしているのです。

 しかしながら、この前提は幻想です。読み出された「仏教の真理」「道元禅師の思想」なるものは、特定の方法で解釈された結果の「読み手なりの真理」「読み手なりの思想」にすぎません。「仏教の真理」そのものと「読み手なりの真理」の同一性を保証するいかなる根拠も基準もありません。さらに言えば、そもそも「真理そのもの」「思想そのもの」もただの虚構にすぎません。

 ならば、読み手が事前に読み方を開示する方が、『眼蔵』解釈としてより真っ当で誠実でしょう。

 私の場合は、以下の観点から『眼蔵』を読みます。これは以前出した『正法眼蔵を読む』(講談社選書メチエ)に提示した4項目です。

①常に変わらず同一で、それ自体で存在するものと定義されるもの、それは仏教では「我(アートマン)と言われるが、他に「実体」と呼ぼうと「本 質」と呼ぼうと、はたまた「神」「天」と呼ぼうと、こういうものの存在を一切認めない(設定しない=ブログ主補)。

②あるものの存在は、そのもの以外のものとの関係から生成される。これが本書における「縁起」の定義である。

③我々において、縁起を具体的に実現するのは、行為である。関係するとは行為することであり、行為とは関係することなのだ。

④「縁起」であるはずの事態を、「実体」に錯覚させるのは言語の機能である。と、同時に「自己」は言語内存在として構築される。

 以上四つの観点から行われる『眼蔵』解釈は、従来の本流・多数派の解釈パターンとは
断絶しています。

上述の「違う」読み方の二つ目は、まさにこれらの観点が行う解釈パターンにあります。

私が断ち切ろうとしているのは、「仏性」だろうが「法性」だろうが、「仏心」だろうが「真如」だろうが、「本覚」だろうが「悟り」だろうが、「絶対的な真理」と想定されるものがまずあって、それが修行なり諸縁の作用を受けると現れ出てくる、現実化してくるという、古今東西に蔓延する「本質―現象」の形而上学的二元論をパラダイムとする読み方です。

『眼蔵』においては、このパラダイムは「本証妙修」と呼ばれて、明治以後の解釈パターンの主流中の主流です。

 私がこの解釈パターンを受け容れ難いのは、無常・無我を基軸とする仏教の論理から外れると思うのと同時に、明治初期に大内青巒なる在家居士が、在家信者用の経典を編纂する枠組みとして案出した「本証妙修」を、いまなお『眼蔵』解釈に適用する必要性も妥当性も無いだろうと考えるからです。

 実は、昨今出版した『超越と実存』(新潮社)と『仏教入門』(講談社現代新書)は、いわば今後の全巻講読の基礎工事のつもりで書いたものです。

四観点を仏教史に適用したらどうなるか、四観点で仏教思想を総括したら何が言えるか、二書のテーマはそれでした。

 一応の基礎工事を終えた今、この後ご縁が続き微力が及ぶならば、四観点による方法で、できれば三つの『正法眼蔵』講読を行い、自分なりの解釈パターンを公表できればと願っています。
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新「天変地異」の時代

2019年10月20日 | 日記
 この度の台風19号、ならびに台風15号による災害の犠牲になられた方々に深く哀悼の意を表すると共に、被災された方々が1日も早く安らかな生活の戻られますよう、心より祈念申し上げます。

 今般の台風19号は恐山の秋季祭も直撃し、人的物的被害はなかったものの、3日間の祭中、丸々2日はほとんど境内に参拝の方々がおられないという異例の事態になりました(この期間にこれほどの台風に直接襲われたことが誰の記憶にも無いのです)。

 宿泊の方々もキャンセルが続きましたが、私どもとしては、それでもご来山下さった方が無事お帰りになることができるかどうか、それが一番の心配でした。幸い、予定よりも遅れが出た方もいらっしゃったものの、皆様ご無事お戻りになられました。

 顧みれば、過去にも天変地異が頻発する時代はあったでしょう。そしてそれは社会の混乱や変動としばしばリンクしました。日本の平安時代末期から鎌倉時代、つまり所謂「鎌倉仏教」勃興時代は、まさにそういう時代でしょう。

 その伝で言うと、1995年の日本、すなわち阪神淡路大震災、オウム真理教事件、ウインドウズ95発売があった年は、日本社会の根本的な地殻変動の始まりを告げる事件と言えるのではないでしょうか。

 ただ、昨今の大地震、あるいは火山の噴火などは従来型の天変地異としても、台風などの風水害は、従来といささか様相が異なります。それは、地球温暖化による気候変動が大いに疑われ、もしそうだとすれば、これには人災の側面があるということです。

 思うに、近代以前の天変地異においては、人びとは神仏にすがる以外にほとんど対処の仕様がなかったでしょう。また同時に、みずからの無力を悟り、自然への敬虔さと謙虚さを身につけたことでしょう。

 しかし、現代の天変地異に人災の側面があるとすれば、それは神仏にすがる災難というより、我々に課された問題と言うべきです。しかもその「我々」は、好むと好まざるとにかかわらず、「人類」を意味します。

 ITとAI技術、さらに生命操作技術の急激な発展が、これまでの社会構造と人間の実存を根本的に転換する可能性があることを以前に述べましたが、二つに地球規模の気候変動(というより気候危機)を加え、これら三つの事象は「人類」そのもの存立を問うことになるでしょう。

 ということは、ここにいたって初めて、「人種」や「民族」、そして「国家」を超えた、いわば「上位概念」としての「人類」が実質的な意味を持つ時代が来たということです(幸か不幸か「宇宙人の襲来」前に)。

 だとするなら、大きく言えば、合衆国の現大統領が気分次第で振り回す「自国第一主義」や、あちこちで噴出するナショナリズムや宗教原理主義は、最終的な問題を解決できるわけもなく、むしろそれらを克服しない限り、次の時代に希望はないでしょう。

 今後、巨大な変動と危機に際して、我々が真に「人類」という自覚を持ち得るならば、それは自らの立場や考えの正当性を絶対視せず、共通の問題に対して協働する作法を開発することを通じてです。そのために、仏教の提供する視点は一定の貢献ができるはずだと、私は考えています。
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仏教のプラグマティズム

2019年10月10日 | 日記
 我が宗の祖、道元禅師の家風(一門の指導者としての気風)は、よく「綿密」とか「厳格」と形容されます。

 実際、道場における修行の作法や儀式の手順は綿密極まりなく規定されていて、その実行はおそろしく峻厳なものでした。

 入門当初は、石が肉に見えるほど空腹なのに、食事作法の複雑さに圧倒されて、文字どおり「喉を通らない」思いをしたり、大掛かりな法要の練習をしていたら、集中のあまり脱水状態になって気絶する者が出た頃を思い出すと、ほとんど「カルト的」とでも言いたくなる日々でした。

 ところが、そのような日々の最中、時に禅師の著作を読んでいると、拍子抜けどころか、修行僧が愕然とするような文章に出会うことがありました。

 足の痛みに耐えて必死の坐禅をしているのに、「数ある修行法の中で何故坐禅ばかりを勧めるのか」という問いに、禅師は「お釈迦様以来、歴代の祖師方がみな坐禅で仏法を会得したからだ」などと、ほとんど理由にならない返事をします。要は、先輩がずっと成功しているんだから信用しろと言うだけなのです。

 初心者には味がまったくわからないまま食事が終わるような厳しい作法を強いておきながら、「今やインドでお釈迦様がなさっていた作法は誰も知らないから、とりあえず自分が学んできたこの作法でいこう」、みたいなことが書いてあるわけです。

 さらに驚いたのは、お釈迦様以来の「正伝の仏法」を学ぶべきことを何度も強調しながら、中国で創作された偽経である「円覚経」について、「これは偽経だけれど、立派な指導者が使えば、それなりに役に立つ」、めいたことを言うのです。

 なぜ禅師はこのようなことを言えるのか。思うに、禅師は、自分が設定した課題なりテーマにアプローチする手段として、仏法を考えているからでしょう。つまり、課題解決の手段として有効かどうかの問題で、何が絶対的「真理」で、どれが本当の「正解」かなどは、大した問題ではなかったのです。これは、釈尊の核心的な考え方と一致します。

 最も古くからの教説とされる「四諦八正道」の「四諦」とは、まず「この世の一切は苦である」(苦諦)という問題設定をした上で、それには必ず原因があるから、それを見極め(集諦)、相応の方法でその原因を取り除けば(道諦)、問題は解決できる(滅諦)という話で、考え方の枠組みは、どう見ても課題解決のための実用主義です。

 ブッダが「偏見にもとづいて考えるから、これが真理だ、これが虚妄だなどと言い出すのだ」と教え、道元禅師が「『見性』などを説く経典は、おそらく偽経だ」と言い切るとき、教主と宗祖の根底には、形而上学的思考とかけ離れた、問題解決のための純度の高いプラグマティズムがあるのだろうと、私は思います。
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垂直の孤独

2019年09月30日 | 日記
 単に一人でいることだけでは、孤独とは言えないでしょう。わかってほしいという思いがあっても、それを伝えられる相手がいないとき、わかってくれる人がいないと感じるときに、はじめて孤独になるのです。

 ですから、わかってくれる(わかってくれると思われる)相手が現れるなら、この孤独はほぼ解消するのでしょう。私に言わせれば、これは「横の孤独」です。

 これに対して、世の中には「縦の孤独」があります。それは、もはや他人に伝えたくても伝えようのない、隔絶した孤独です。死を前にした人間の孤独こそ、まさにそれ、「縦の孤独」でしょう。

 死が何であるか、原理的にわからない以上、それを「伝える」ことも原理的にできません。「死」を前に「自己」と呼ばれる実存は完全な単独者となるのであり、その孤独は誰にも共有できません。

 この「縦の孤独」に耐えられないなら、「わからない死」をわかる物語に仕立て直して「横の孤独」に変え、物語を共有することで孤独を解消するしかありません。東西の宗教的言説が果たしていた役割は、まさにこの物語の制作でしょう。

 しかし、「ニルヴァーナ」を標榜する仏教は、「わからない死」を「わかる物語」にしません。わからないままそれを受容することを、仏教は求めているのです。とすれば、我々は「縦の孤独」を自ら切開し、それまでの自己の実存の仕方を変更することで、その求めに応じなければならないでしょう。「修行」とはそのプロセスなのです。
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思うんですが。

2019年09月20日 | 日記
 時々相談者と面会するのですが、最近どうも増えていると思うのは、男女を問わず、30歳前後の世代で、何か過剰に他人の視線を気にするように見える人です。

 先日は、30歳の男性歯科医という人と面談しました。彼は歯科医として実際に診療するようになって今年で3年。にもかかわらず、もう辞めてしまおうかと言うのです。

 彼は大学を出て、某有名歯科医院に就職したのですが、1年目に患者に治療について、出来が悪いとかなり強い苦情を持ち込まれたのだそうです。さらに、この医院のオーナーで、業界では高名な院長からも叱責され、要するに自信喪失状態に陥ってしまいます。

 その結果、同僚との関係も気まずくなり、彼はその医院を辞め、今はアルバイト的立場で別の医院で働いて1年経ったところだそうでいるのだそうです。

「あなた、今のクリニックで苦情は?」

「ありません」

「院長から何か怒られた?」

「全然」

「じゃ、なぜ辞めなくちゃいけないの?」

「なんというか、自信が・・・」

「自分のテクニックに自信が無いの?」

「あまり器用じゃないし・・・。皆が僕を見ているようで・・・」

「あなたねえ、腕さえ良ければ、誰が見ていようと構わないでしょ。それに1年無事でやってるなら、基礎的なテクニックはあるんでしょう」

「かもしれません」

「だったらねえ、要は経験と勉強と練習でしょう。あなた自分の能力と時間のすべてを勉強と練習に注ぎ込んだことがあるの?」

「そのつもりだったんですが・・・」

「違うよ。本当にそうしてみてダメだと言うなら、もう自分で見切りをつけて、とっくに辞めてるよ。あなたね、今後3年すべてをつぎ込んで勉強し、寝る間も惜しんで練習しなさいよ。辞めるのは、それからだよ」

「あなた、父上のお仕事は?」

「歯医者なんです」

「なんだ、後継ぎか」

「違います。父は継ぐのに反対でした。この地方でこの業界は今後厳しいと。でも、僕は自分の意志で、この道を選んだんです」

「だったら、お父さんの医院を滑り止めにしなよ。最後にオヤジにお前の腕ではダメだと引導を渡してもらってから、見切りをつけて辞めればいい。実際、君は恵まれている。それまでは、自分が不器用だと言うなら、四の五の言わず、人の10倍努力して腕を鍛えなよ。そういう寿司職人知ってるよ。親方から見込みがないと言われながら、必死の努力で一人前になった人」

「あと・・・・、学会に行くと前の医院の院長や同僚と会うんですが、どうすれば・・・」

「あのねえ、そんなの挨拶して終わり! あなた、勉強に行ってるんで、付き合いに行ってるんじゃないでしょ。あとは無関係。もうどうでもいいの。学会で出世でもしたいの、あんたは?」

「いいえ・・」

「じゃ、彼らが今の君と何の関係があるの!」

 これは彼に限りません。4、5年前、私は、修行道場6年目の古参和尚で、当時29歳の修行僧から、相談があるんですがと言われたとき、その和尚曰く、

「ぼく、下の者(後輩の修行僧)が自分のことをどう思っているか気になって仕方がないんです」

 びっくり仰天!私が6年目と言えば、まさにダースベイダー時代。「下の者」なんぞ眼中に在りませんでした。

 どうしてこうも彼らはデリケートなのか。
 
 一つ思いつくのは、彼らは失敗を極端なまでに恐れているのではないか。ある集団や共同体の中で、自分が不協和音を出すことを、極端に気にしているのではないか。それは結局、その集団や共同体自体が、社会経済構造の変動と競争環境の激化にさらされて、余裕を失い、メンバー以上に組織自体が失敗を恐れているからではないか。

 だとすると、これは問題です。なぜなら、これからの社会は、前人未到の荒野を行くようなもので、これまでの手法は通用しません。次の世代のトライ・アンド・エラー、試行錯誤によって道を拓いてもらうしかないのです。

 それをこんなに委縮させてはいけない。私は、気の持ちようでどうにでもなる簡単な話に見えながら、何か深刻な問題に逢着した気がしました。
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三つの難題

2019年09月10日 | 日記
 今後の社会における決定的な問題は、環境問題、AIとバイオテクノロジーの劇的進展から生じるでしょう。この件に関しては、過去の記事でも何度か触れましたが、ここでもう一度整理して起きたいと思います。なお今回は、環境問題には触れず、AIとバイオテクノロジーの発達から想像される我々の「実存」の問題に絞ります。

1.AI・バイオテクノロジーと「労働」
 私がここで問題とするのは、AIの進化が「人間の労働を奪う、人間が無用化する」、という「失業」問題ではありません。そうではなくて、「職業」がアイデンティティーの核心を締めていた「近代人」の実存の仕方が、構造的に変わらざるを得ないということです。
 自分が何者であるかを、「職業」を拠りどころに意識していた実存は、次は何を拠りどころに「自己」を規定するのか。その規定のツールを誰がどう与えるのか。
 同じような事態は、バイオテクノロジーの発展による、寿命の極端な延長によってももたらされるでしょう。
 AIであれ人間であれ、この「拠りどころ」ツールを与える者が、次の時代の支配者となるはずです。

2.AI・バイオテクノロジーと「意識」の変容
 意識と脳の生理的過程の相互関係(または平行関係)を量子レベルにまで解析できれば、意識を電子チップにコピーするか、あるいは意識相互をダイレクトに接続したり、インターネットに接続して無限大に拡張することも可能でしょう。
 さらにバイオテクノロジーが肉体を改造するか機械と融合させ、拡張した意識を受容し得る身体を提供するなら、「自意識」はどのような変容を被るのでしょうか。それは「自意識」と呼びうるものなのでしょうか。

3.AI・バイオテクノロジーと「死」の消去
 2の状況は、意識の機械的身体へのコピーや、肉体の改造(脳移植)や製造(培養された肉体への意識の移植)を通じて、「死」を消去することに通じます。もし「死」が失われれば、「生」は意味と価値を失い(誰も死なないなら、「しなければならない」ことは無くなり、それはつまり「意味」も「価値」も無くなるということ)、実存の様式としての「自己」「人間」は無化する(「自意識には一つの身体」という従来の実存原則が失われる)ことでしょう。

 このとき、1は宗教に過大な負荷をかけることになるかもしれません。もし労働にかわるアイデンティティーの根拠を宗教に要求するなら、宗教は巨大な権力を手にすることになり、過酷なイデオロギー闘争の当事者になりかねません。
 
 2と3は、宗教、特に普遍宗教の存在意義を壊滅させるでしょう。最後にかろうじて残存するとすれば、人間が自然に組み込まれていた時代のアニミズムが、デジタルアニミズムやAIアニミズムに変貌して、生き延びた微弱な意識に「神」を提供するかもしれません。その「神」はもちろん、AIが生み出す巨大クラウドでしょう。

 では、この3つの問題に、仏教はどういうスタンスをとることができるでしょうか。いま私が漠然と考えているのは、以下のようなことです。

 一つは、「死の消去」は仏教の教えが肯定するものではないだろうということです。「ニルヴァーナ」を目指す仏教は、「死の受容」こそがテーマなのであり、そこに逆説的に「受容する自己」の存在意義がかかっています。
 
 他方、「自己」という実存様式(自意識をもつ実存)は、仏教にとって最終的な意味も価値も持ちません。そもそも仏教はヒューマニズムではないのです。
 ただし、仏教の狙いは、「自意識」を無化、あるいは無意味化することではありません(特定の意識状態・「境地」への到達を目的とするものではない)。そうではなくて、ニルヴァーナ(死の受容)に方向づけられた実存として、それ相応の自意識に改造することです。これが上述した逆説的な「自己」の存在意義なのです。

 いまだ十分な結論に至りませんが、これからも折に触れ、この問題を考えたいと思います。



 
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