学校嫌いで虚弱児童だった者の偏見を二つ。
今まで本ブログで何度か、学校教育とオリンピックについて言及してきました。私は、世間はこの二つに妙な思い入れをしすぎるような気がするのです。
だいたい、教育は試行錯誤を繰り返しながらしていくもので、この世に普遍的なモデルになるような「理想的人間」などいるはずもない(いたらそれは「神」でしょう)のですから、それをつくり出す一律のマニュアル的方法など、あるはずもありません。
したがって、「道徳」を教科にして評価するなどという馬鹿げたことを考えるのは、自省する能力が欠如している人間だとしか思えませんでした。
学校教育は、政治家と役人が「改革」名目で介入すればするほど、おかしくなっていきます。なぜなら、目の前に生徒がいないところで「教育」を論じるのですから、宿命的に「机上の空論」以外になりようがないのです。
思うに、学校教育は、まずは教師と児童・生徒・学生と保護者に、何をどうするかについて極力任せて、裁量の自由を与え、彼らは当事者として考え、自分たちのやり方を決めるべきです。
公教育なら、その時の国家の基本法である憲法の枠組みに納まる条件で、この三者は何をしてもさせてもよいと思います。政治の役割は、教育に相応の人員と資金を配分するだけで十分です。
今回の入試改革のお粗末さも、そもそも大学入試程度のことなら、現在の高卒認定(旧大検)を全受験者に義務化して、いわば資格試験化し、あとは各大学が自由に試験をすればいいだけです。
「考える力」だの「個性」だの「使える英語」だの、これらを一日二日の試験で一斉に判定しようなどということは、根本的に妄想です。
「使える英語」を言うなら、それを入試で判定する以前に、本気なら、当事者が学校教育における英語を全体として見直し、国が人と資金を投入する以外に、学校における「英語力の向上」など、あり得ません。
必ずしも道徳的ではない人間が道徳教育を操作し、「偏差値」至上主義の入試を通過した連中が、今更「考える力」や「使える英語」を主導できると思うことなど、まさに倒錯としか言えないでしょう。
邪な大義(「復興五輪」)と虚偽の勧誘(「温暖でアスリートに最適な気候」)で呼び込んだオリンピックに、無様な不手際が続くのは実に当然でしょうが、私はその背景に、世間の度の過ぎたスポーツ礼讃があると思うのです。
同好の士が集まってすることなら誠に結構ですが、国家や自治体の資金を大々的に費やして入れ込むようなことではないと思います。
かつてのヒトラーのやり口に乗せられて、所詮は運動会に過ぎぬ興行でナショナリズムを煽り煽られるなど、子供じみている上、時代錯誤的です。
テレビのニュース番組には必ずスポーツコーナーが確保され、新聞は国際面が多くて2面しかないのに、スポーツ面は少なくて3面、日によっては4面あります。どう見てもおかしいでしょう。「グローバル時代」と連呼しながら、メディアのこの扱いは、見識に欠けています。見識よりも売り上げなのでしょうが。
「健康増進」の宣伝は結構ですが、何をどうするかは個人の選択であり、その度に一緒くたにスポーツを持ち上げる必要はありません。
「健全な身体に健全な精神が宿る」というのは、世を見渡せば世迷言だとすぐわかることで、「スポーツはすばらしい」というご託宣は、何でもそうなように、そう思う人が思えばよいことで、誰もがそう思うべき「普遍的前提」のように語るのは、僭越な思い上がりでしょう(スポーツでは「勇気」を与えたりもらったりできるらしいですが、その程度のやり取り可能な「勇気」は、およそ無くても大丈夫です)。
スポーツの根本には「闘争」があり、その過度の礼讃は結局、闘争と闘争精神、そして闘争のためのシステムを肯定し強化することに通じます。そこにコマーシャリズムが参入すれば、利害損得が根本の「闘争」を刺激し加速して、ついには個人と社会を蝕んでいくでしょう(「ドーピング問題」、「施設の維持費問題」、「体罰・ハラスメント問題」)
良かれと思ってすることと、誰も文句は言えないだろうと思ってすることは、多くの場合は思慮が浅いか、勘違いです。反対意見を言う人間との十分な議論を通じて、頭を冷やしてからもう一度考えることが大切だと、ボランティア団体の指導者を長く務めた私の恩師が、その頃生意気な修行者だった私に教えてくれました。
今まで本ブログで何度か、学校教育とオリンピックについて言及してきました。私は、世間はこの二つに妙な思い入れをしすぎるような気がするのです。
だいたい、教育は試行錯誤を繰り返しながらしていくもので、この世に普遍的なモデルになるような「理想的人間」などいるはずもない(いたらそれは「神」でしょう)のですから、それをつくり出す一律のマニュアル的方法など、あるはずもありません。
したがって、「道徳」を教科にして評価するなどという馬鹿げたことを考えるのは、自省する能力が欠如している人間だとしか思えませんでした。
学校教育は、政治家と役人が「改革」名目で介入すればするほど、おかしくなっていきます。なぜなら、目の前に生徒がいないところで「教育」を論じるのですから、宿命的に「机上の空論」以外になりようがないのです。
思うに、学校教育は、まずは教師と児童・生徒・学生と保護者に、何をどうするかについて極力任せて、裁量の自由を与え、彼らは当事者として考え、自分たちのやり方を決めるべきです。
公教育なら、その時の国家の基本法である憲法の枠組みに納まる条件で、この三者は何をしてもさせてもよいと思います。政治の役割は、教育に相応の人員と資金を配分するだけで十分です。
今回の入試改革のお粗末さも、そもそも大学入試程度のことなら、現在の高卒認定(旧大検)を全受験者に義務化して、いわば資格試験化し、あとは各大学が自由に試験をすればいいだけです。
「考える力」だの「個性」だの「使える英語」だの、これらを一日二日の試験で一斉に判定しようなどということは、根本的に妄想です。
「使える英語」を言うなら、それを入試で判定する以前に、本気なら、当事者が学校教育における英語を全体として見直し、国が人と資金を投入する以外に、学校における「英語力の向上」など、あり得ません。
必ずしも道徳的ではない人間が道徳教育を操作し、「偏差値」至上主義の入試を通過した連中が、今更「考える力」や「使える英語」を主導できると思うことなど、まさに倒錯としか言えないでしょう。
邪な大義(「復興五輪」)と虚偽の勧誘(「温暖でアスリートに最適な気候」)で呼び込んだオリンピックに、無様な不手際が続くのは実に当然でしょうが、私はその背景に、世間の度の過ぎたスポーツ礼讃があると思うのです。
同好の士が集まってすることなら誠に結構ですが、国家や自治体の資金を大々的に費やして入れ込むようなことではないと思います。
かつてのヒトラーのやり口に乗せられて、所詮は運動会に過ぎぬ興行でナショナリズムを煽り煽られるなど、子供じみている上、時代錯誤的です。
テレビのニュース番組には必ずスポーツコーナーが確保され、新聞は国際面が多くて2面しかないのに、スポーツ面は少なくて3面、日によっては4面あります。どう見てもおかしいでしょう。「グローバル時代」と連呼しながら、メディアのこの扱いは、見識に欠けています。見識よりも売り上げなのでしょうが。
「健康増進」の宣伝は結構ですが、何をどうするかは個人の選択であり、その度に一緒くたにスポーツを持ち上げる必要はありません。
「健全な身体に健全な精神が宿る」というのは、世を見渡せば世迷言だとすぐわかることで、「スポーツはすばらしい」というご託宣は、何でもそうなように、そう思う人が思えばよいことで、誰もがそう思うべき「普遍的前提」のように語るのは、僭越な思い上がりでしょう(スポーツでは「勇気」を与えたりもらったりできるらしいですが、その程度のやり取り可能な「勇気」は、およそ無くても大丈夫です)。
スポーツの根本には「闘争」があり、その過度の礼讃は結局、闘争と闘争精神、そして闘争のためのシステムを肯定し強化することに通じます。そこにコマーシャリズムが参入すれば、利害損得が根本の「闘争」を刺激し加速して、ついには個人と社会を蝕んでいくでしょう(「ドーピング問題」、「施設の維持費問題」、「体罰・ハラスメント問題」)
良かれと思ってすることと、誰も文句は言えないだろうと思ってすることは、多くの場合は思慮が浅いか、勘違いです。反対意見を言う人間との十分な議論を通じて、頭を冷やしてからもう一度考えることが大切だと、ボランティア団体の指導者を長く務めた私の恩師が、その頃生意気な修行者だった私に教えてくれました。






