恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

僧の立ち位置

2009年07月24日 | インポート

 命は大切なものだ、と最初から決まった話ではないでしょう。最初から決まった話なら、それを大声で言いながら、人類始まって以来、こうも互いに殺し合いを続けるはずがありません。そうではなく、誰かが命を大切にするから、それが大切なものになるのでしょう。

 このとき、命とは生きていることと、死ぬことを意味します。つまり、命を大切にするとは、生きることと死ぬことを大切にすることなのです。

 さて、昨今、臓器移植法という法律が「改正」されて、「脳死」が「人の死」にされ、家族のみの同意で臓器が摘出され、その提供に年齢制限もなくなりました。

 私がここで言いたいことは、「脳死」を「人の死」と定めることや、そのほか、法律の内容の是非についてではありません。

 しょせん「人の死」の判定なんぞは、「大人」と「子供」の区別と同じで、時と場合によって、必要に応じて適当に判断する以外に方法はなく、だからこそ「法律」で決めるのです(確かな判断根拠がないから、法律が必要なのでしょう)。

 実際、人工呼吸器と臓器移植の技術が開発されなかったら、「脳死」など問題にされるはずもなく、ということは、今後、脳そのものの移植や、記憶をはじめ脳機能をコンピューター・チップにコピーする技術が開発されれば、現在の「人の死」の基準なぞ、あっという間にかわるでしょう。

 いま私が関心を持つのは、現在の脳死と臓器移植をめぐる切迫した状況下で、臓器提供の可能性を持ちながら「死につつある」人間と、臓器提供を受けて「生き続けようとする」人間の間に生じている、アンバランスな人間関係、その構造です。

 この場合、構造的かつ原則的に、医者も移植コーディネーターも、臓器提供を受けて「生き続けようする」人間の側に立つ人です。これは個々の医者やコーディネーターの思想・信条・人格・感性とは無関係で、そもそも人間関係の場における構造として、医者もコーディネーターも、移植手術を行うことにおいて、存在意義が生じる立場だということなのです。さらにまた、「生き続けようとする」側は、家族も大抵の場合、一致してそれを望むはずです。

 ところが、臓器を摘出される側は事情が違います。その場の構造として、「死につつある」側に立つ人が圧倒的に少数で、弱いのです。家族でさえ、臓器提供か否かをめぐって意見が対立する可能性があるでしょう。

 そこで、私は思います。宗教家、少なくとも仏教者は、法律の内容の是非にかかわらず、この人間関係のアンバランスな状況下において、弱い側の立場に寄り添うべきだと。そしてこの立場に立つことによって当然生じる社会的批判に、甘んじて耐えるべきだと。

 新しい心臓を熱望する本人と家族と、それを是とする医者とコーディネーターの前で、いま「脳死」状態になっている息子の、事前の意志がわからぬゆえに臓器提供への同意をためらう母親が目の前にいるなら、仏教者は、母親の気持ちに寄り添う立場に立つべきだろう、ということです。

 以前にも書いたことがありますが、「脳死」とセットになった臓器移植の技術には、科学技術が本質的に内包する「死への敵意」、つまり生産と消費とその効率を否定したり妨げるものに対する、根本的な敵意があるでしょう。「脳死」概念と移植技術の安直な拡大は、まさに根本的なところで、「命の大切さ」を侵害することになると、私は思います。


恐山参禅修行のご案内

2009年07月13日 | インポート

 恐山は昨年同様、今年も参禅修行への参加者を募集します。これは宿坊での通常の宿泊とことなり、曹洞宗の修行道場の作法に準じた日程で、修行体験をしていただくものです。

 1泊2日の日程で、坐禅、お勤め、写経、講話、作務(清掃など軽作業)などを中心とする修行になります。期間中は禁酒・禁煙。食事は参禅者メニューの精進料理です。

 前回、院代が突然参加できなくなり、皆様にご迷惑をおかけしましたが、今回は、大怪我、大病、または急死しないかぎり、かならず在山・参加いたしますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

 ご希望の方は、下記の要領にしたがって、お申し込み下さい。

◆申し込み要領

一、実施期日 2009年9月28日(月)午後より29日(火)午前まで

一、募集定員 20名 (満15歳以上に限ります)  

    ※ 定員に達し次第で締め切り、本ブログに告知します。

    ※ 高校生以下の方は保護者の署名・捺印を添えてください。

一、申し込み方法  

         次の事項をお書きの上、封書にて申し込んでください。

   〇氏名、住所、年齢、性別、電話番号(可能ならば、携帯電話)

   〇健康状態 特に足腰の故障、その他心配な点など

   〇坐禅経験の有無、恐山参拝経験の有無

    ※ 申し込みは郵送に限ります。

    ※ 電話、本ブログなどでは受け付けません。

一、費用 お一人様 15.000円

一、申し込みあて先

    〒035-0021 むつ市田名部宇曽利山3-2 恐山参禅係

    ※ 募集は9月15日まで。定員に達し次第で締め切り。

一、電話による問い合わせ  

    恐山寺務所(0175-22-3825) 担当:南/吉田   

一、参禅の許可 お申し込みの方に、「参禅許可証」を返送します。

    ※ 「許可証」送付まで、時間がかかる場合がございます。

 ちなみに、2007年11月10日の本ブログにて、前回の参禅修行の様子を紹介しています。ご参照下さい。

 皆様のご参加をお待ち申し上げます。

追記: 恐山への交通手段に関しましては、下記にご相談いただくと便利です。

     日本ツアーサービス(むつ市) 0175-23-2222


「無意味」な問答

2009年07月03日 | インポート

 某読書家「あなたは『真理』が嫌いだと公言したそうですね。どういうことですか?」

私「『真理』という観念、考え方、言葉が嫌いだという意味です。『真理』という以上、永久に変わらず、かつ普遍的でそれ自体で存在しえるもの、つまり絶対的なもののはずでしょう。そういう考え方が、もう生理的にダメなのです」

「生理的とは、いかにも『諸行無常』の一語に生き方を変えられたあなたらしいですな」

「だって、空間的にも時間的にもきわめて限定された条件の中で生きている我々に、永遠で絶対の存在を認識できるわけがないでしょう」

「しかしですね、『諸行無常』が認識できるということは、『無常』でない何かを我々が知っているからではないのですか。何かを否定できるのは、どんな形であれ、その何かの存在を認識しているからでしょう」

「さすがに鋭い。私もそう思います。ですが、私が『無常』でない何かとして考えているのは、『真理』ではありません。死です」

「死?」

「死は事実ではありません。観念です。にもかかわらず、いかなる内容も意味もありません。あるのは否定する機能です。死は、それが永遠か永遠でないか、絶対か絶対でないか、無常か無常でないか、なにひとつ『わからない』観念です。すべての観念や認識を否定し、それ自体は『問い』としてしか現前しません。すべてを無意味にすることが、死の唯一の『絶対的』な意味です。『意味ある死』などというのは、生きている人間が生きている間だけ考えているファンタジーです」

「あなたが言いたいのは、『無常』という観念さえ死で否定されるという、まさにそのときに、『無常』が認識されるということですか」

「というよりも、『わからない』死を『わからない』まま受容する認識が『無常』だということです。ということはつまり、生きることを無意味にするものを抱え込んだまま、人は生きるということになります。それが生きるということなのです」

「だとしたら、耐え難い以上に、馬鹿馬鹿しいですな」

「ですから人はみな『わからなさ』をすりかえて、わかったことにしたくなるでしょう。『生きがい』には道具がいるわけです。『真理』だの『絶対者』だのは、みなその類いだと思いますね。だって、そういう観念は、それを主張する人によくよく訊いてみると、死と同じように無内容で無意味で、最後には『わからない』話になりますからね」

「あなたはいつもそんなことを考えて生きているのですか」

「時々です」

「かなり苦しいでしょ」

「むかしは。今もちょっと。でも、生きているほうがよいです」

「どうして」

「理由はありません。そう信じているだけです」

「それでやっていけますか?」

「だって、生きていると、嬉しいこととか愉快なことが、たまにあるでしょ」

「ワハハハ・・・」

「アハハハ・・・」