恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「頼る」という方法

2020年05月30日 | 日記
「バブル」の錯覚や「アベノミクス」の空元気に乗せられていた時代、随分と大声で言い募られていた言葉に、「自己決定」と「自己責任」があります。このアイデアの浅はかさは、自分の誕生が自己決定や自己責任とは全く無縁であることは思えば、一目瞭然です。

 そもそも、我々の毎日の生活も、多くの人々に支えられていることは、当たり前の話でしょう。自己決定と自己責任だけですむような物事は、所詮些事です。なぜ、そんな自明なことさえ忘れて、この陳腐なアイデアが蔓延したのでしょう。

 近代以前の農村共同体などでは、日々助けあいの毎日だったでしょう。「困っときはお互いさま」という習慣が、道徳のレベルで生活の常識だったはずです。

 それが近代以後、農村共同体が急速に弱体化して都市集中が進み、市場経済が社会を全面的に規定するようになってからは、習慣であった「助け合い」は「サービス」として商品化され,売買されるようになりました。
 
 商品ですから、買う買わない、買える買えないは、すべて「自己決定」と「自己責任」なのは当たり前だと言うのでしょう。

 しかし、この「サービス」という商品は、公正でまともな取引になっているのでしょうか。

 たとえば、この疫病禍の中で、パソコンで株を右から左に移動させて巨富を得ている者と、医療現場で不眠不休で働いている人や、物資の輸送や販売で我々の生活を支える人の給料を比較して、その「労働」は公正に評価されているのでしょうか。その「報酬額」の正当性は、何が担保しているのでしょうか。

「自己決定」「自己責任」を声高に宣伝するなら、今述べたような「労働」と「報酬」の正当性を社会が公明正大に確保してからでしょう。

 胡散臭いことこの上ない「自己決定」「自己責任」のアイデアには、さらなる見過ごしがたい実害があると、私は思います。と言うのは、この考え方が、我々に「他人に頼る」ことを悪いことのように思わせるからです。

 繰り返しますが、本人に認識があろうとなかろうと、他人に一切頼らないで生きている者などいるはずがありませ。そして、他人に頼ることは、本人の落ち度などではありません。それを落ち度のように思ったり、思わせたりするのは、「自己決定」「自己責任」を喧伝する社会の在り方の問題です。

 この疫病禍、追い込まれて「もう死んでしまおう」と思い詰める人もいるかもしれない。そうまで思う無理からぬ事情もあることでしょう。

 ですが、そこまで思うなら、「死んだ気になって」できることもあるのではないでしょうか。死ぬのは今でなくてもよい。ならば、「命がけ」で何かしてからでも遅くない。

 このとき、大事なのは、何でも自分で背負い込まず、人に頼ることです。

 市場万能であるかのような今の時代、情けないことに、他人に頼るには勇気が要るようになってしまいました。それなら敢えて、勇気を出してほしいと思います。

 自分ではもう万策尽きたと言うなら、そのときは他人を頼る方法を考えるべきです。それはまったく恥ずべきことではない。

 あとは頼り方の問題です。自分の問題をはっきりさせ、プライベートな人の縁、公的機関との関係をよく考えた上で、最適な頼り方を見つけてみたらどうでしょう。

 自分の無力に直面したとき、それでも何かやるべきだと思えることがあるならば、できる行動を起こすべきです。他人に頼ることも、その行動の一つなのです。


 

小水の魚

2020年05月20日 | 日記
 私の在籍した修行道場では、3と8のつく日には、大掃除をします。毎日の掃除では手の届かないところまで、修行僧総出で、徹底的に磨き上げるわけです。その日の晩のお勤めでは、清浄となった僧堂(坐禅堂)に全員が集合して、「三八念誦(さんぱちねんじゅ)」という儀式を行います。

 今でも鮮明に覚えているのは、2年目の冬のとある月18日の念誦です。

 連日の雪の合間、ようやく晴れた夕暮れに、七堂伽藍を覆う雪囲いの竹の間から茜色の光が差し込み、合掌して立つ修行僧の顔は、切れ切れに照らされていました。

 導師の老僧が伽藍を焼香しながら一巡し、僧堂に入って来ると、古参の和尚が入り口正面に進み出ます。そして頃合いを見計らって、堂々たる声を響かせ、以下の言葉を独唱します。

「大衆(だいしゅ)に白(もう)す。如来大師入般涅槃、今令和2年に至って、已(すで)に二千四百九十四歳(いろいろな数え方あり)を得たり。是の日已に過ぎぬれば、命も亦た随って減ず。小水の魚の如し。斯(ここ)に何の楽しみか有らん。衆等、当に勤め精進して頭燃(ずねん)を救うが如くすべし。但だ無常を念じて慎んで放逸なること勿れ。伽藍土地、法を護って人を安んじ、十方の檀那、福を増し慧を増さん。如上の縁の為に念ず」

(修行僧諸君に申し上げる。釈迦牟尼如来が入滅して、いま令和2年に至って、既に2494年が過ぎた。この日が既に過ぎ去ったように、我々の命もまた縮まったのだ。まことに我々は、そこが小さい水たまりに過ぎないことを知らぬまま、安心してとどまっている魚のようなものである。それを思えば、この世に何の楽しみがあるというのだ。だからこそ諸君、まさに時を惜しんで努力し精進して、修行に励むこと、頭にかかる火の粉を払うが如くにせよ。ただ諸行無常なることを思って、慎んで身心を乱すようなことがあってはならない。この伽藍と境内、そして仏祖の教えを護持して、人々を平安にし、すべての信者の人々がさらに幸福となり、いっそう仏智慧を増すように、以上を願って、さあ仏の御名を唱えようではないか)

 この修行僧の独唱が終わると、間髪入れずに堂内の鐘が打たれます。それを合図に以下、修行僧全員が声を長く引きつつ、区切りの鐘の音に合せて、十の仏名を独特の漢音で唱えるのです。

 ちょっとした失敗か何かで、多少気落ちしている時などにこの念誦に立つと、本当に独唱の言葉と仏名が身に染みてきます。同時にまた皆と一緒にがんばろうという気持ちが湧いてきたものです。

 ソーシャルディスタンスを要求する今回の疫病を機に、労働・教育の現場をはじめ、様々な分野の人間関係にITが浸透してくるでしょうが、「早く学校に行って友達と遊びたいです」と訴える小学生や、「何とか早くお客様の前で演じたい」と願う芸能者の言葉を聞くにつけ、かつての修行時代を思い出すと、我々の意識が今のこの肉体に拘束される限り、生身の人間の深い関わり合いがどうしても必要だと、思わざるを得ません。

三つのわからなさ

2020年05月10日 | 日記
 私はこれまでしばしば、死と他者と自然は決してわからないと、あちこちで言ったり書いたりしてきました。これについてもっと説明しろと最近注文されたので、この際一通り書かせていただきます。

 死と他者と自然は、確かに「決してわからない」ことですが、「わからなさ」の質は違います。

 死は「絶対かつ原理的」にわかりません。わかる本人が消滅することが死である以上、わかるわけがないでしょう。
 
 死についての「わかったような話」は、すべて「生きている」人が、「生きている」間に、「生きている」経験として話しているのであり、かつ彼らが語っているのは、常に「死ぬまで」か「死んだ後」についての、妄想と区別する基準が何もない、お伽噺同然の代物です。彼らは決して「死ぬこと」それ自体について話しているのではありません。

 他人のわからなさは、死のような絶対的なわからなさではありません。それは、いわば「根源的な」わからなさです。

 他人が絶対的にわからないと決まってしまえば、それはそれなりに対処の仕方も決まるでしょう。問題なのは、他人にはわかるところもある、ということです。わかるところもあるが、わからないところもある。

 だが、わかっていたことが急にわからなくなったり、わからなかったことが突然わかったりする。もはや、わかることとわからないことの境目がわからない。他者のわからなさは、こういうわからなさであり、それが他者の他者たるゆえん、他者の他者性なのです。

 最近「コミュニケーション能力の高い人」というセリフをよく聞きますが、そう言われる人物が他者のわからなさに鈍感なら、彼の能力とは「他人を誤解して平気でいられる能力」と大差ないでしょう。

 自然のわからなさは、「無限の」わからなさです。様々な方法で自然は理解され、知識は集積され、「わかったこと」は増え続けてきたし、これからも増え続けるでしょう。しかし、すべてわかることはありません。自然の内部に生まれたものが、自然のすべてをわかることはあり得ないのです。

 自然に対するあらゆる「理解」と「予測」は、自然を一定の条件下における思考の「対象」として構成することによって、初めて可能になります。自然そのものに到達することは金輪際ありません。つまり、用いられた理解の方法によって限定された「一面」以外に、まるでわかりようがないのです。

 このような「絶対的」「根源的」、そして「無限」のわからなさを、当然ながら我々は解消することも、制御することも、支配することもできません。つまり徹頭徹尾、「思いどおりにならない」のです。ならば、そのわからなさに対してとるべき態度は「敬意」です。それが「わからない何か」を受容して生きる、おそらく唯一の作法なのです。

 わからないものをわかると錯覚して、あくまで支配し制御しようとするべきではありません。その錯覚は必ずや我々を自滅させるでしょう。なぜなら、死は生よりも、他者は自己よりも、自然は人間よりも、存在の強度がはるかに高いからです。