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恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

政治と宗教と暴力

2022年08月01日 | 日記
 もう先月のこととなりますが、極めて衝撃的な元首相射殺事件でした。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 とんでもない蛮行でしたが、一つだけ救いを感じたのは、今回、ほとんど国をあげてこの暴力を憤り、強く非難していることです。そして、多くの人々が、選挙中の暴挙で言論が委縮することを心配していました。私は、民主主義が我々国民に確かに根付いている証しに思われ、少しく安堵した次第です。

 その上で、私が特に気になったのは、狙撃者が政治的動機ではなく、自分の家庭を崩壊同然に追い込んだ宗教団体に恨みがあり、本当はその団体のトップを殺害したかったが、実行は無理そうだったので、その替わりに、この団体と元首相は関係が深いと思いこんで、彼を狙ったと供述しているらしいことです。

 すると、狙撃者は元首相の政治信条を理由にテロ行為を起こしたわけではないことになります。

 問題は、母親がのめり込んで、あるいは母親をのめり込ませて、結果的に家庭を崩壊させた、宗教の「暴力性」です。政治が暴力を動員できるように、宗教も暴力を動員できるのです(たとえば、心理的暴力としての「洗脳」、物理的暴力としての「十字軍」「ジハード」など)。

 もしそうなら、暴力は暴力を呼ぶでしょう。暴力にさらされたものは、暴力で対抗しようとします。

 私は、狙撃者の暴力を肯定するつもりは、まったくありません。しかし、「暴力に暴力で対抗する」という構造は、注意深く考えなければなりません。

 たとえば、ロシアの「侵略」はそれこそ「悪い」暴力で、ウクライナの「防衛」は「正しい」暴力になるでしょう。ですが、私がここでどうしても考えざるを得ないのは、世の中に「正しい」暴力、少なくとも「やむを得ない」暴力があるという、その考え方です。つまり、正当化し得る暴力があるということです。

 あの狙撃者が元首相ではなく、宗教団体トップを狙撃したら、あるいはそれに「理解」を示す人がいるのではないか。今、ロシアの大統領が誰かに暗殺されたら、喝さいを送る人は少なくないだろう。そこに「正義」を見る人が存在するはずなのです。

 私は、この「正義」を認めるべきでないと思うのです。そしてそのためには、「正義」の暴力を招く「最初の暴力」に、徹頭徹尾反対すべきだと思います。ということは、「最初の暴力」を正当化するあらゆる思想や言説に反対しなければなりません。

 政治であれ、宗教であれ、暴力を発動しようとする指導者たちは、自らの思想や言説への批判を認めません。暴力の正当性を毀損する批判的言説は徹底的に排除しようとします。

 もしそうだとすると、暴力を認めず、暴力に対抗する最大の抵抗は、思想信条の自由、言論表現の自由、結社集会の自由などを身を挺して守り抜く覚悟を決め、暴力と暴力を正当化する思想・言説を批判し続けることでしょう。それは、結局、民主主義による政治体制を護持することです。

 私は、今回の事件で、他でもない選挙の最中とはいえ、多くの日本人が民主主義の危機を感じ、それを護る行動として投票を呼び掛けていたことに、いま希望を持っています。