恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

よく言うよ

2016年08月30日 | 日記
「君はいつだったか、鈴木大拙に『正法眼蔵』はわからない、って言ってたよな」

「言った。だって、鈴木は自分の著作において、『眼蔵』はもちろん、道元禅師にもほとんどまったく言及していない。彼の思想的土台である中国禅のパラダイムで『眼蔵』は処理しきれないことを知っていたからだろ。わからないから黙っていた。当たり前だが、わからない以上余計なことを言わなかったのは、さすがに偉い」

「変なほめ方だな。要するに『見性』なんぞを持ち出すアイデアは『眼蔵』に通用しないということか?」

「通用しないのではなく、それを言えば間違える。時々、『身心脱落』や『非思量』を『見性』と同一視して語る輩がいるが、そもそも道元禅師本人が『禅宗』という言葉や『見性』という概念を否定しているんだから、話が無理筋だ」

「『即非の論理』は使えないと」

「そりゃそうだろうな。鈴木の『即非の論理』は、とどのつまり、主体と客体が未分の状態(Aと非Aの同一)、つまり『見性』的状態を理屈っぽく言い換えたものに過ぎない。『金剛般若経』中の該当する一句の解釈として適当かどうかも別だし」

「その未分状態が、彼らの言う『絶対無』か?」

「そうだ。話の出所は、禅や老荘思想で言う『無』だね。ちなみに、『即非の論理』は、論理の運動の結果として矛盾が止揚されるヘーゲル的弁証法ともまったく違う。同じように考えている坊さんの文章を読んだことがあるが、完全な誤解だ」

「とすると、君は西田幾多郎も『眼蔵』はわからないと言うわけだな?」

「当然だろうなあ。西田は大拙的『禅』はわかっただろうし利用しただろうが、『眼蔵』以前に、仏教がわからなかったろうなあ」

「そこまで言う?」

「だって、無常だの無我だの縁起だのと仏教は言っているのに、『純粋経験』だの『絶対矛盾的自己同一』などと言い出して、『真実在』の領域を設定したら、ダメでしょう。無常の立場から言えば、『同一』は言語が仮設する概念だぜ。無常かつ無我という『矛盾』的実存に対して言語が『同一』性を仮設していると言う意味で、『自己同一的絶対矛盾』とでも言うなら、まだわかるがね」

「君がよく言う、『結局、何かある』と言う話は仏教ではない、ということか?」

「まあそうだな。根本的には、鈴木の話も西田の説も、ものの言い回しはともかく、理屈の筋は老荘思想やブラフマ二ズムのパラダイムに回収できるだろうから、特に『日本的』とも思えないね」

「じゃ、君が『日本的』と思うのは?」

「それこそ道元禅師と親鸞聖人のアイデアは、形而上学的思考や超越的理念を持つ思想に対する態度の取り方として、極めてオリジナリティが高く、もとももと形而上学を持たなかった『日本』においてしか現れなかったのじゃないかと、考えているけどね」

水曜日

2016年08月20日 | 日記
 とある水曜日の昼下がり。バスに乗っていると、目の前の「優先席」に坐っていたご婦人ふたりが、

「この時間は空いてるわねえ」

「病院は混んでるのにねえ。私、明日病院なの。月曜だから大変よ、混んで」

「日曜の後はねえ・・・」

「今日ね、本当は午前に孫が来るって言ってたのよ。でも来なかったの。待ってたのに」

「ああ、で、午後に出てきたの」

「そう。日曜日に行くからねって言うから、待ってたのに」

「あらあら・・・」

「3、4日前に来たばかりだったんだけどね」
(その日が日曜でしょ!)

 私はどうしようかと思いました。今日は日曜日ではなく水曜日だと、彼女たちに言うべきであろうか。

 しかし、彼女たちの会話は穏やかに、問題なく続いています。それでも、言う必要があるとすれば、次のような場合でしょう。

一、会話の最中、時々不具合が生じて、二人が、どうも何か変だ、何かおかしいと感づいた様子が見えたとき。

二、このまま曜日の勘違いを放っておくと、かなりマズイ状況に至りそうだと予想できるとき。

 そのいずれでもなければ、特にいま口を挟む必要もなかろう、と私が思い始めたそのとき、右横にいたランドセルが背中より大きい小学生、いきなり、

「あのね、今日、水曜日!」

「え? 水曜、そうなの」

「あれ、やだ!」

 ご婦人ふたり、爆笑。小学生びっくり。住職苦笑い。

 さて。このとき、素直な小学生の親切と、ヒネクレ住職の手抜き態度と、どちらがより適当でしょうか? 言うまでもなく小学生だと、私も思いますが、私はさらにヒネクレて、こうも考えました。

 小学生は「正しい」ことを教えたのだが、「正しいこと」の正体は、当事者の間で「正しいと合意したこと」に過ぎない。特定の日を「水曜日」するのも、要するに決め事で、社会の便宜上そう合意してるだけで、「水曜日」それ自体が「正しく」存在するわけではない。

 だったら、ストレートかつ問答無用で「正しい」ことを教えるべき理由もあるまい。当事者に不都合が生じていなければ、どうしても「正しい」ことを教えなければいけないこともないだろう。

 実は、こんなことを考えたのは、バスを降りてから、ゴータマ・ブッダの「梵天勧請」の話を思い出したからです。

 ゴータマ・ブッダは「悟り」を得た後、それを他人に教える気はなかったと言います。要は、教えたところで、凡人にはわかるまいと、こう考えたのです。

 そこに神である梵天が現れて、是非とも教えを説くように三度にわたって懇願した結果、ブッダは語ることにした、と言うのです。

 要するにこの話は、高邁な「真理」を話す気がなかったブッダが、梵天に言われて、衆生への慈悲のゆえに仕方なく説法を始めた、と解釈されるわけです。

 ですが、私に言わせれば、それは違います。そもそも、他人に語ってみて、その他人が理解しない話は「正しいこと」にも「真理」にもなりません。つまり、言葉にした上での合意が不可欠なのです。

 ブッダひとりの胸の内に起こったことそれ自体などは、それが「妄想」でない保証はどこにもありません。また、誰にも語られなかった教えなどは、端的に「無い」のです。

 だいたい、梵天はその「神的能力」で、すでにブッダが「何かとても大事なこと」を悟ったと「わかった」から出てきたのでしょう。つまり彼の「歓請」は、アイデアが言語化され、共有され、合意されない限り「真理」は成立しないという事情を言っているのです。

 ブッダもあらかじめ「真理」とわかっていたことを、請われてイヤイヤながら言い出したわけではありません。凡人が「真理」を知らないのは気の毒だと同情したから、話したのでもありません。

 彼には「真理」か否かなど問題ではなく、自分がわかったことを知らないままでいると、とても苦しむ人が世の中にはいるはずだと確信したから、言う気になったのでしょう。

 あるいは、自分のアイデアをこのまま黙っていると、この世に起こらなくてよい難事が数多く起こると予想したから、話そうと決めたのだと思います。

 そこで、あるいは自分の「妄想」かもしれないことを敢えて口に出してみたら、「そのとおりだ!」と理解する他人が現れて、初めて彼のアイデアは「真理」になったわけです。つまり、合意が得られたということです。

 ブッダがブッダになったのは、この合意以後のことです。

事件の後で

2016年08月10日 | 日記
「生きていても仕方がない」かどうかは、生きている本人以外には決めようがありません。当人の生活条件の如何にかかわらず、第三者が口を挟む問題ではさらさらない話ですし、「仕方がない」かどうかを判断する「客観的な」基準など、妄想に過ぎません。

 障碍者であろうが健常者であろうが、大切にされ、受け容れられ、暖かい人間関係の中にいる人にとっては、生きていることはおそらく、「満更でもない」でしょう。

 障碍者であろうが健常者であろうが、邪慳にされ、排除され、孤立と不安の中にいる人にとっては、「生きていても仕方がない」という思いもあって当然でしょう。

 生きている「意味」や「価値」それ自体などは存在しません。我々は根拠も理由もなく生まれ、根拠も理由もなく死んでいきます。すでに生まれてきてしまってから考えたり、聞かされたりした「意味」や「価値」は、要するに後付の理屈に過ぎず、検証の仕様もありませんから、お伽噺とかわりません。つまり、ものは考えようということです。

 ということは、所詮、我々は誰もがみな「仕方なく」生まれ出て、その生を理由もなく受け容れ、とにかく生きていくのでしょう。「意味」や「価値」は、生きていく過程で、他者との縁を紡ぎつつ織り出していくものです。

 自己決定でも自己責任でもなく、理由もなく課せられた「自分であること」だったとしても、あえてそれを生きる。「意味」はそこから各々に創作されていくのだと、私は思います。

番外:再開します

2016年08月07日 | 日記
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