「君はいつだったか、鈴木大拙に『正法眼蔵』はわからない、って言ってたよな」
「言った。だって、鈴木は自分の著作において、『眼蔵』はもちろん、道元禅師にもほとんどまったく言及していない。彼の思想的土台である中国禅のパラダイムで『眼蔵』は処理しきれないことを知っていたからだろ。わからないから黙っていた。当たり前だが、わからない以上余計なことを言わなかったのは、さすがに偉い」
「変なほめ方だな。要するに『見性』なんぞを持ち出すアイデアは『眼蔵』に通用しないということか?」
「通用しないのではなく、それを言えば間違える。時々、『身心脱落』や『非思量』を『見性』と同一視して語る輩がいるが、そもそも道元禅師本人が『禅宗』という言葉や『見性』という概念を否定しているんだから、話が無理筋だ」
「『即非の論理』は使えないと」
「そりゃそうだろうな。鈴木の『即非の論理』は、とどのつまり、主体と客体が未分の状態(Aと非Aの同一)、つまり『見性』的状態を理屈っぽく言い換えたものに過ぎない。『金剛般若経』中の該当する一句の解釈として適当かどうかも別だし」
「その未分状態が、彼らの言う『絶対無』か?」
「そうだ。話の出所は、禅や老荘思想で言う『無』だね。ちなみに、『即非の論理』は、論理の運動の結果として矛盾が止揚されるヘーゲル的弁証法ともまったく違う。同じように考えている坊さんの文章を読んだことがあるが、完全な誤解だ」
「とすると、君は西田幾多郎も『眼蔵』はわからないと言うわけだな?」
「当然だろうなあ。西田は大拙的『禅』はわかっただろうし利用しただろうが、『眼蔵』以前に、仏教がわからなかったろうなあ」
「そこまで言う?」
「だって、無常だの無我だの縁起だのと仏教は言っているのに、『純粋経験』だの『絶対矛盾的自己同一』などと言い出して、『真実在』の領域を設定したら、ダメでしょう。無常の立場から言えば、『同一』は言語が仮設する概念だぜ。無常かつ無我という『矛盾』的実存に対して言語が『同一』性を仮設していると言う意味で、『自己同一的絶対矛盾』とでも言うなら、まだわかるがね」
「君がよく言う、『結局、何かある』と言う話は仏教ではない、ということか?」
「まあそうだな。根本的には、鈴木の話も西田の説も、ものの言い回しはともかく、理屈の筋は老荘思想やブラフマ二ズムのパラダイムに回収できるだろうから、特に『日本的』とも思えないね」
「じゃ、君が『日本的』と思うのは?」
「それこそ道元禅師と親鸞聖人のアイデアは、形而上学的思考や超越的理念を持つ思想に対する態度の取り方として、極めてオリジナリティが高く、もとももと形而上学を持たなかった『日本』においてしか現れなかったのじゃないかと、考えているけどね」
「言った。だって、鈴木は自分の著作において、『眼蔵』はもちろん、道元禅師にもほとんどまったく言及していない。彼の思想的土台である中国禅のパラダイムで『眼蔵』は処理しきれないことを知っていたからだろ。わからないから黙っていた。当たり前だが、わからない以上余計なことを言わなかったのは、さすがに偉い」
「変なほめ方だな。要するに『見性』なんぞを持ち出すアイデアは『眼蔵』に通用しないということか?」
「通用しないのではなく、それを言えば間違える。時々、『身心脱落』や『非思量』を『見性』と同一視して語る輩がいるが、そもそも道元禅師本人が『禅宗』という言葉や『見性』という概念を否定しているんだから、話が無理筋だ」
「『即非の論理』は使えないと」
「そりゃそうだろうな。鈴木の『即非の論理』は、とどのつまり、主体と客体が未分の状態(Aと非Aの同一)、つまり『見性』的状態を理屈っぽく言い換えたものに過ぎない。『金剛般若経』中の該当する一句の解釈として適当かどうかも別だし」
「その未分状態が、彼らの言う『絶対無』か?」
「そうだ。話の出所は、禅や老荘思想で言う『無』だね。ちなみに、『即非の論理』は、論理の運動の結果として矛盾が止揚されるヘーゲル的弁証法ともまったく違う。同じように考えている坊さんの文章を読んだことがあるが、完全な誤解だ」
「とすると、君は西田幾多郎も『眼蔵』はわからないと言うわけだな?」
「当然だろうなあ。西田は大拙的『禅』はわかっただろうし利用しただろうが、『眼蔵』以前に、仏教がわからなかったろうなあ」
「そこまで言う?」
「だって、無常だの無我だの縁起だのと仏教は言っているのに、『純粋経験』だの『絶対矛盾的自己同一』などと言い出して、『真実在』の領域を設定したら、ダメでしょう。無常の立場から言えば、『同一』は言語が仮設する概念だぜ。無常かつ無我という『矛盾』的実存に対して言語が『同一』性を仮設していると言う意味で、『自己同一的絶対矛盾』とでも言うなら、まだわかるがね」
「君がよく言う、『結局、何かある』と言う話は仏教ではない、ということか?」
「まあそうだな。根本的には、鈴木の話も西田の説も、ものの言い回しはともかく、理屈の筋は老荘思想やブラフマ二ズムのパラダイムに回収できるだろうから、特に『日本的』とも思えないね」
「じゃ、君が『日本的』と思うのは?」
「それこそ道元禅師と親鸞聖人のアイデアは、形而上学的思考や超越的理念を持つ思想に対する態度の取り方として、極めてオリジナリティが高く、もとももと形而上学を持たなかった『日本』においてしか現れなかったのじゃないかと、考えているけどね」