今と先(さっき)には何も違いは無く、昨日と今日にもほとんど変わりは無く、おそらく今から一週間後も似たようなもので、一ヵ月後もほぼ同じで、一年後も大体予想できる・・・・というのが、我々の日常というものでしょう。「日常」とは、要するにそういうことです。
おそらく、人々の生活や人生の在り様を決定的に変えてしまうようなものは、「日常」の彼方、ずっと前から、もっと遠くで始まるのです。その始まりは誰も気がつきません。何かが起こった後に、歓喜や衝撃や悔恨の中で、我々がそれを顧みたとき、「ああ、あれが始まりだった」と考えるだけでしょう。
どれだけ目を見開き、耳を澄まそうと、本当の始まりは我々にはわからないのです。それでもなお、目を凝らし耳を傾けようとする者がいるなら、彼らにはゆっくり静かに近づいてくる何ものかの気配が感じられるでしょう。
しかし、その気配を感じ取ることは、しばしば不愉快で面倒なことです。それは自分には「気にしすぎ」「ただの心配性」と思われ、人からは「余計なお世話」「杞憂」と嫌われかねません。我々はみな、その「日常」が「満足」とともにあろうと、「不満」とともにあろうと、あるいは「希望」に導かれようと、「絶望」にとりつかれていようと、とりあえずそれが「同じように」続いていくことを望むか、続いていることを前提に、生きているわけです。
このとき、「日常」にだけ自らの関心を注ぎ、その外側から近づくものの気配を一切遮断してしまう人がいるとするなら、彼の「日常」はまったく安定し、極端に脆くなるでしょう。薄っすらとした不安に覆われた、間延びした安らぎがあるでしょう。
私は、彼の「日常」を悪いとは思いません。これは善悪の問題ではないのです。ただ、私自身は、思い出す限り、ほとんど記憶の最初から、こういう「日常」が怖いのです。
この怖さは、人生では喜びも苦しみも長くは続かない、という意味ではありません。喜怒哀楽がどう「日常」を彩ろうと、「毎日」を「常」として仕立てているものが、私には理解できず信用できないのです。
私はときどき他人から、「エキセントリック」だ、「露悪的」だ、「非常識」だと言われてきましたが、その根にはこの恐怖があるのだと思います。つまり、何かがすでに起きていて、それは自分を破壊的に変えてしまうものなのに、今まるで正体がわからないという感覚が、自己と世界の在り様を過度に疑うようにさせている気がするわけです。
「無常」という言葉に私が与えている内実は、すでに何度も書いたり言ったりしてきた「自己であることの根拠に関する不安」と、この正体不明の「日常が何気なく続いていくことの恐怖」だろうと思います。
私にとってブッダとは、この不安と恐怖を「はっきり見ろ!」と言った人です。それは事の「解決」ではなくても、やりすごすのに必要な「方法」でした。
この「方法」になじむ以前、主にまあ、学生時代の私は、傍目から見ればいわゆる「ノイローゼ」状態だったのでしょう。そう言ってからこう言うのも憚られますが、おそらく他にも似たような感覚を持つ人が大勢いるだろうと、実は期待しています。
追記:次回の講義「仏教・私流」は2月15日((月)午後6時半より、東京・赤坂の豊川稲荷別院にて行います。