恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

渡すが勝ち

2018年04月30日 | 日記
 恐山開山直前、思いつき禅問答シリーズ。

 昔、ある高名な禅師のところに、ひとりの修行僧がやってきて言いました。

「長いこと、あなたは悟りの岸へ渡ることのできる堅牢な石橋だと思っていましたが、実際に来てみると、あるのは粗末な丸木橋だけですな」

 すると禅師は

「君はただ丸木橋を見ているだけで、石橋は見てないんだな」

「じゃ、どんなものが石橋なんですか?」

「驢馬も渡せば馬も渡すさ」

 

 この問答の核心は、私に言わせれば、あるものが何であるかはそのもの以外のものがどう関わるかで決まるということ、この場合で言えうと、そのものが何であるかは、それが何に使えるかで決まるという、「縁起」の教え(私流「縁起」説)です。

 つまり、「石で堅牢に作ってある」(本質)から「石橋」(現象)で、「木で簡単に作ってある」(本質)から「丸木橋」(現象)なのではなく、大小重軽、驢馬だろうと馬だろうと「何でも渡らせることができる」(機能)こそが「石橋」としての在り方(概念)決定するのであって、それができないものを「丸木橋」と言うべきだ、ということです。

 ということは、禅師が説き示すことが真理かどうか、偉大な教えかどうかなどという議論はどうでもよいことで、彼の言葉が修行僧の修行に役に立つのかどうか、その志を励ますのかどうか、それこそが問題だということです。

 だとすると、問題は修行僧に投げ返されます。彼は何をテーマにどう修行しようとしているのか、それが明確でなければ、石橋が必要なのか丸木橋で用が足りるのか、自分で判断できないでしょう。

 つまり、禅師はこの問答で、暗に修行僧の志と覚悟の如何を問うているわけです。

番外:坐禅と講和の会2018

2018年04月27日 | 恐山の参拝
本年(平成30年)も、院代の主催による坐禅と講話の会を、下記のとおり2回・1泊2日で行います。


▼期日

 第1回:7月7・8日、第2回:10月9・10日

▼スケジュール

 午後2時までにご到着下さい。

 スケジュール説明後、坐禅指導。夕食後、講話。

 翌朝午前4時半、坐禅。その後、朝のお勤め参加。朝食後、座談会。午前10時終了。終了後、希望者には恐山僧侶による山内拝観があります。

▼お申込み

 5月1日午前9時より受付を行います。恐山寺務所または宿坊に、「坐禅と講話の会に参加希望」と必ずお伝えください。

 各回定員20名にて締め切りとさせていただきます。(電話:0175-22-3825)

▼お願い

 服装は自由ですが、坐禅を行いますので、トレパンなど、下半身を締め付けないものをご用意ください(ジーンズでの坐禅は不可)。

▼参加料

 宿坊宿泊の費用12.000円(入山料別)のみお願いします。





らしくなれない。

2018年04月20日 | 日記
「あなた、今年還暦でしょ」

「そうだよ」

「だったら、もう『老師』って言われるでしょ」

「うん。40代で呼ばれた時は、『オレが老人に見えるか』って若い坊さんに文句言ったが、最近はあきらめてる」

「だったら、もう少し、らしくしなさいよ」

「老師っぽく?」

「そう。もうちょっと話し方を穏やかにするとか、立ち居振る舞いに威厳があるようにとか」

「確かにさア、アナタ変わりませんねえ、いつまでも昔と同じで若いですねってのは、もう誉め言葉と思っちゃまずいよな。苦労が身に染みない軽薄男みたいで」

「でしょう?」

「でもさあ、ぼく、昔から『らしく』がダメなの。いつもソレ、言われてたの。子供のときに『子供らしくない』、学生の時に『学生らしくない』、就職したら『社会人らしくない』。ついに坊さんになったら、また『坊さんらしくない』ってさ」

「まさにはみ出し者だな」

「そう。で、そのうち気がついた。『らしく』はことごとく思い込みで、その思い込みがある程度の人数に共有されると、一種の価値判断になって、時には人を圧迫するんだって。お前は規格外というわけ」

「まあ、そうだな」

「かくのごとく苦労してきていま、私が思う最大の『らしさ』問題は『自分らしく』だな。『自分らしく生きる』とか」

「どうして」

「自分は他人に由来する。『自分らしさ』は他人から作られる。だから『自分らしく』しようとすると、その実、他人の視線に支配されるようになる。つまりジレンマだ。『らしさ』を欲望して苦しむことになりかねない」

「そうかなあ。他人は関係ないんじゃ」

「違う。『自分らしく』は、他人にそう認められて初めて『らしく』なる。無人島でたった一人生きる人間に『自分らしく』は存在せず、無意味だ」

「じゃ、君はどうなの?」

「他人から言われようを見れば一目瞭然だろ。『らしくない』のがぼく『らしさ』さ」

「いちいち面倒なヤツだな」

「身心一如」考

2018年04月10日 | 日記
 仏教、特に禅宗系で重要視され、よく使われる言葉に、「身心一如」というものがあります。「身心不二」という言葉もあり、同じ意味として使われていますが、私は必ずしも同じとは思いません。ただ、今回の記事では、あくまで「一如」を考えます。

 この言葉は、宗教辞典や思想辞典などでは、「身体と精神は一体にして不二であり、各々が独立して存在するわけではなく、同一体の両面と見ること」などと説明されています。

 しかし、これは人間の「精神」を可視化して「身体」と区別することができないという認識上の事実か、あるいは「病は気から」という類いの生活実感を言い換えたに過ぎず、我々の実存における意味を明らかにしているわけではありません。

 以下は、私の愚見です。

 いわゆる意識には、それ自体に個別性はありません。意識の現実態が言語なら、言語は一般性を持つから他人同士で「通じる」わけで、それぞれが個別の言語を持つわけではありません。だったら、意識それ自体に個別性があるはずもないでしょう。

 意識に個別性を与えるのは、身体の物理的個体性です。意識は身体の個体性に囚われる(定住する)ことで、個別性をもつわけです。と同時に、身体の個体性は、意識の個別性から捉え返されて、自覚されます。

 ところで、個別性と個体性の自覚は、それ自体が「自己」の獲得であり、「自意識」の発生です。

 この「自己」の獲得は、すなわち個別性と個体性の自覚は、あるものが、それではないものに関わり、関わられるという行為的関係においてのみもたらされます。
 
 そして、原初的で決定的な行為的関係は、そのものではないもの、他なるものからの一方的な関わりとして到来します。それが個体としての身体の出産・養育と個別性の確定としての命名です。

「自己」は、この「他者からの一方的な関わり」への反作用として現実化します。そして、その後の行為的関係の作用と反作用の往復の中で自らの強度を高め、輪郭を明確にしていきます。

 私は、「身心一如」の実存的意味を、この一連のプロセスに見ています。すなわち、「自己」という存在様式を生成し維持する「行為」こそが、「身心一如」の現実であり意味なのです。 

 まあ、これも、精神と肉体の統合は「自己」としてしか現実化もしないし実感もされないという端的な事実の、面倒くさい言い換えにすぎませんが。