恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

痛い年の瀬

2020年12月30日 | 日記
 コロナで開け、コロナに暮れるこの1年、その終わりにきて手痛い失敗をしてしまいました。ルーティンの仕事で周囲に迷惑をかけてしまったのです。それもこれも、コロナ禍の影響で通常のスケジュールが乱れ、いささか疲労していたときに、馴れた作業に手を抜いてしまった結果です。

 フォローに倍も手間がかかり、手抜きの代償は小さくありませんでした。が、何よりのダメージは、なんであそこで手を抜いたのかという後悔でした。

 私は常日頃、人間にとっての二大マイナス感情は嫉妬と後悔だと、思ってきました。嫉妬するくらいなら憎悪のほうがまだマシであり、後悔するより反省するのがなすべきことだろうと、そう思うわけです。

 それなりに気のすむほどの手をかけて失敗したなら、まだ諦めがつくのですが、今回は手抜きです。後悔以外になく、聊か参りました。

 今年最大の話題をさらったアニメーション映画の、ミリオンセラー原作漫画は、最大の部数を誇る雑誌に発表されたものだそうです。聞くところによると、この雑誌には「ヒットの方程式」なるものがあり、それは「努力・友情・勝利」だといいます。なるほど、この雑誌からは過去にも大ヒット作が生まれていますが、どれも基本コンセプトは、まさにこの「方程式」です。

 ヒットはまことに慶賀すべきことですが、この「方程式」は、アニメならぬ現実の世界では、そう簡単に通用しないでしょう。努力と友情があっても勝利が得られるとは限らず、場合によっては友情も勝利もないこともあるでしょう。つまり、努力だけ、露骨に言えば「無駄な努力」です。

 ただ、私が思うに、この「報われない」努力にも、少なくとも1点は、益するところがあるでしょう。ただそれは、「いつかは報われる」という慰めとは違います。

 そうではなくて、自分なりにできる限りの努力をして失敗するなら、残念には思うでしょうが、後悔はしないだろう、ということです。「やるだけはやった」という思いが、失敗してもその結果を受け容れさせると思います。

 後悔がいけないのは、結果をいつまでも納得できず、しかもそれが自分の責任だとはっきりしているので、いつまでも処理しがたい感情が続くからです。

 結果はどうあれ、努力はしたほうがよい。この当たり前のことが、この歳で、この年の瀬に身に染みるとは・・・・。人間幾つになっても、そう賢くはならないのでしょうか。

 本年も当ブログをお読みいただき、誠にありがとうございました。皆様のご無事な越年と、穏やかな迎春を心より祈念申し上げます。 合掌 

「生む・生れる」問題

2020年12月20日 | 日記
 昨今、時折目にする言葉に「反出生主義」というものがあります。これは、簡単に言うと、自分が生まれてきたことと、子供を生むことを否定する思想です。

 代表的な主張者はアルトゥール・ショーペンハウアーでしょうが、ブッダも人によっては、反出生主義者の一人と目されることがあります。

 実際、ブッダのアイデアには、「生まれる」方面で、「一切皆苦」の考えがそう読み取られるきらい無きにしも非ずでしょうし、子供に関しては、初期経典につぎのような部分があります。

「パーピマント悪魔が〔言った〕『子をもつ者は、子たちについて喜ぶ。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちについて喜ぶ。まさに、諸々の依存〔の対象〕は、人の喜びである。依存〔の対象〕なき者――彼は、まさに、喜ぶことがない』と。
世尊は〔答えた〕「子をもつ者は、子たちについて憂う。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちについて憂う。まさに、諸々の依存〔の対象〕は、人の憂いである。依存〔の対象〕なき者――彼は、まさに、憂うことがない』と」

 一読すると、反出生主義に馴染みのよい言辞と思われるかもしれまん。ただ、私は反出生主義の主張は馬鹿げていると思います。

 まず「生む」ことに関して言えば、「喜ぶ」ほうにしても「憂う」ほうにしても、反出生主義の場合、子供は親となる側が自分の意志で「作る」ものだ、と考えていることが前提でしょう。そうでなければ、思想としての「主義」になりません。これは要するに、次世代の存在は、前世代の恣意だということです。

 この考え方は、近代以降の限られた時代状況でしかリアルではありません。それ以前には、子供は「作る」ものではなく「授かる」ものでした。「授かる」時代にあっては、反出生主義など、妄想以外の何ものでもありますまい。

 今後、生殖医療をはじめ、諸科学と科学技術が発展すると、子供は「作る」どころか「注文」するものになるかもしれません。

 反出生主義の論拠に、子供が生まれることに際して起こる、環境負荷、本人の社会生活上の困難、心身の条件に優劣などの問題がありますが、それらの不都合は、諸科学が「注文」可能なレベルにまで発展した未来社会の段階で、ほとんど取り除かれるかもしれません。「注文された」子どもが結構な人生を送る可能性も大いにあるでしょう。そのときには、反出生主義など大昔の戯言と片づけられるはずです。

 そもそも、上述の論拠は基本的に生む側の忖度で、生まれる方がどう思うかは別でしょう。忖度も過ぎると傲慢です。

 紹介したブッダの言は、あくまで子供は依存の対象となり、結果「憂い」の原因になると言っているだけであって、「生むべきでない」などと主張しているわけではありません。しかもそれは、自ら「出家」を標榜する立場からの物言いです。

 ブッダの主張はあくまでも、出家して修行すべきだということであり、だとすれば、子供がその妨げになる「可能性」があり、それを避ける結果として、子どもを持たないことになるにすぎず、これはどうみても反出生「主義」ではありません。

 もうひとつの「生まれ」てきた方面の話は、今更言っても繰り言にしかなりません。もはや「生まれてきてしまった」人間の主張する反出生主義など、愚痴以外の何なのでしょう。

 問題は、根拠も理由も不明なまま「生まれてきてしまった」事実(諸行無常)を正面から引き受け、それをどう認識して、どう扱うかです。これがブッダのアイデアの核心だと、私は考えます。事実を愚痴るのとはわけが違います。

 およそ存在することを肯定する根拠も、否定する根拠も主張しないのが仏教です(無記)。反出生主義ほどナイーブなアイデアではありません。

話の盛りすぎ

2020年12月10日 | 日記
 いわゆる「初期経典」以来、仏教には禅定、あるいは瞑想を九段階(九次第定)に分ける考え方があります。その最高段階(滅尽定・想受滅)について、ある経典には次のような説明があります。

「友よ、ここに托鉢僧は、想いがあるのでもないのでもないという境地をあらゆる面で超越した後、想いも感受も停止した境地へ踏み込んで過ごし、智慧でもって観察してから、もろもろの漏れこみが尽きる。友よ、これによって、まったき安らぎがどのくらい安楽か知るべきである」

 この最高段階に達し得るのは、ブッダや阿羅漢と呼ばれる仏教の聖者のみとされ、在家をはじめその他は、どんなにがんばっても第8段階(非想非非想定)が限界だとされます。

 だいたいこのように、体験レベルを何段階も設定するような、整備が行き届いた教説は、教団が組織化された後代に、「プロ」化した僧侶などが考え出したもので、ブッダ本人や当時の仏弟子たちが行っていた禅定は、もっと単純だっただろうと、私は考えます。

 実際、ブッダの死を物語る経典には、ブッダは第四段階からニルヴァーナ(ブッダの死)に入ったとされます。ということは、第5段階以上は事実上無用でしょう。仏教究極の目的であるニルヴァーナに第4段階から入れるなら、そうとしか言えますまい。

 とすると、ブッダが存命中に用いていた禅定は、せいぜい第4段階までではないかと考える方が、話としてはリアルです。経典の説明を見ても、第4段階までは具体的に追体験が可能な実践を説いているように読めますが、第5段階以上は違います。

 第5段階以上は、非常に抽象的で観念的な説明しかありません。けだし、これらは、当時の他の宗教集団の瞑想修行に対する独自性と優越性の主張や、教団内におけるメンバーの階層化(出家/在家、聖者/凡夫などの区別)の必要に応じて、後世に案出された単なる概念にすぎず、具体的で実践的な意味は無い話でしょう。

 それが証拠に、最高段階の説明はほとんどナンセンスです。「想いも感受も停止」していて、どうして「観察」できるのでしょう。すでに「観察」する主観は、「想いがあるのでもないのでもない境地」さえ「超越」している以上、このうえ「智慧」もなにもないでしょうに。

 ということは、「もろもろの漏れこみが尽きる」時には、「まったき安らぎ」など経験するはずはないし、「どのくらい安楽か知る」誰もいないはずです。

 結局、ブッダがついに語らなかったニルヴァーナ(=死)それ自体を、余人が無理に語るとどういう破目になるかという、よい例だと思います。