現下の疫病禍が要請する倫理は、「自分が原因で他人に感染させない」、つまり「他人にうつさない」ことだと思います。「自分が感染しないようにする」ことは、他人にうつさないためであり、その前提として考えるべきでしょう。
けだし、あくまで「自分が感染しないようにする」ことを第一として優先するなら、それはしばしば過剰な不安と恐怖を喚起して、他人への警戒、嫌悪、排除、抑圧とエスカレートする可能性が小さくありません。もしそうなれれば、ウイルスは個々の人々ではなく、我々の社会そのものに感染し、壊すでしょう。
また、「自分が感染しないようにする」こと優先のアイデアは、往々にして「自分は感染しないだろう」「自分さえ感染しなければよいだろう」という態度に転じて、他人の感染について鈍感かつ無関心になり、結果的に疫病の蔓延を助長することになりかねません。
「他人にうつさない」ことを心がけるべき自分は、そのために自分が感染しない努力を油断なくしなければなりません。それは当然です。ただし、その努力の根底には、「感染しても仕方がない(つまり、感染者の受容)」という覚悟があるべきだと、私は思います。
治療薬やワクチンの開発と普及には、1年程度か、あるいはそれ以上かかるだろうと言われています。
ということは、それまでは、短期間に大量の感染者が出る感染爆発(これが怖れられているのは、医療体制が崩壊するから)か、一定量の感染者が長期間出続ける(いわば)感染継続によって、集団内の相当数(半数以上)に免疫ができ、ウイルスの絶滅ではなく、ウイルスとの共存可能状態(インフルエンザ的状態)が確保されない限り、疫病の「収束」とはならないでしょう。それはつまり、症状の度合いはともかく、かなりの確率で自分も罹患するということです。
すなわち、いま我々はウイルスという正体不明の脅威に対しては受け身であらざるを得ず、その「受け身」をどうとるかが、個々に問われていると言えるのではないでしょうか。おそらく、前線の医療従事者の方々にしても、試行錯誤の連続で、未だ確かな見通しは立たないでしょう。当面は基本的に対症療法になるはずです。
「感染することを覚悟する」ということは、極言すれば、その核心に「死」を置くことです。そしてそれは、死から自己の在り方を見ることです。するとそれは図らずも、今の自分にとって、これからの自分にとって、本当に大切なことは何なのかを考え直すことに通じるでしょう。
それはひょっとすると、効率と利益に追われて走る社会を突然中断させ、思索と自省のまとまった時間を社会と個人に与えるという、稀有の事態をもたらすかもしれません。
9年前の大震災後にも、その事態は到来しかけましたが、効率と利益最優先の社会は結局、見直されることも修正されることもなく再建されました(馬鹿げたオリンピツク招致がその代表例)。「コロナ後」に我々と我々の社会は、やはり変わらないのでしょうか。変わらないですむほどの厄災にとどめることができるでしょうか。
都合により、今回は定例より1日早い記事の公開といたしました。
けだし、あくまで「自分が感染しないようにする」ことを第一として優先するなら、それはしばしば過剰な不安と恐怖を喚起して、他人への警戒、嫌悪、排除、抑圧とエスカレートする可能性が小さくありません。もしそうなれれば、ウイルスは個々の人々ではなく、我々の社会そのものに感染し、壊すでしょう。
また、「自分が感染しないようにする」こと優先のアイデアは、往々にして「自分は感染しないだろう」「自分さえ感染しなければよいだろう」という態度に転じて、他人の感染について鈍感かつ無関心になり、結果的に疫病の蔓延を助長することになりかねません。
「他人にうつさない」ことを心がけるべき自分は、そのために自分が感染しない努力を油断なくしなければなりません。それは当然です。ただし、その努力の根底には、「感染しても仕方がない(つまり、感染者の受容)」という覚悟があるべきだと、私は思います。
治療薬やワクチンの開発と普及には、1年程度か、あるいはそれ以上かかるだろうと言われています。
ということは、それまでは、短期間に大量の感染者が出る感染爆発(これが怖れられているのは、医療体制が崩壊するから)か、一定量の感染者が長期間出続ける(いわば)感染継続によって、集団内の相当数(半数以上)に免疫ができ、ウイルスの絶滅ではなく、ウイルスとの共存可能状態(インフルエンザ的状態)が確保されない限り、疫病の「収束」とはならないでしょう。それはつまり、症状の度合いはともかく、かなりの確率で自分も罹患するということです。
すなわち、いま我々はウイルスという正体不明の脅威に対しては受け身であらざるを得ず、その「受け身」をどうとるかが、個々に問われていると言えるのではないでしょうか。おそらく、前線の医療従事者の方々にしても、試行錯誤の連続で、未だ確かな見通しは立たないでしょう。当面は基本的に対症療法になるはずです。
「感染することを覚悟する」ということは、極言すれば、その核心に「死」を置くことです。そしてそれは、死から自己の在り方を見ることです。するとそれは図らずも、今の自分にとって、これからの自分にとって、本当に大切なことは何なのかを考え直すことに通じるでしょう。
それはひょっとすると、効率と利益に追われて走る社会を突然中断させ、思索と自省のまとまった時間を社会と個人に与えるという、稀有の事態をもたらすかもしれません。
9年前の大震災後にも、その事態は到来しかけましたが、効率と利益最優先の社会は結局、見直されることも修正されることもなく再建されました(馬鹿げたオリンピツク招致がその代表例)。「コロナ後」に我々と我々の社会は、やはり変わらないのでしょうか。変わらないですむほどの厄災にとどめることができるでしょうか。
都合により、今回は定例より1日早い記事の公開といたしました。