恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

コロナの倫理

2020年03月29日 | 日記
 現下の疫病禍が要請する倫理は、「自分が原因で他人に感染させない」、つまり「他人にうつさない」ことだと思います。「自分が感染しないようにする」ことは、他人にうつさないためであり、その前提として考えるべきでしょう。

 けだし、あくまで「自分が感染しないようにする」ことを第一として優先するなら、それはしばしば過剰な不安と恐怖を喚起して、他人への警戒、嫌悪、排除、抑圧とエスカレートする可能性が小さくありません。もしそうなれれば、ウイルスは個々の人々ではなく、我々の社会そのものに感染し、壊すでしょう。

 また、「自分が感染しないようにする」こと優先のアイデアは、往々にして「自分は感染しないだろう」「自分さえ感染しなければよいだろう」という態度に転じて、他人の感染について鈍感かつ無関心になり、結果的に疫病の蔓延を助長することになりかねません。

「他人にうつさない」ことを心がけるべき自分は、そのために自分が感染しない努力を油断なくしなければなりません。それは当然です。ただし、その努力の根底には、「感染しても仕方がない(つまり、感染者の受容)」という覚悟があるべきだと、私は思います。

 治療薬やワクチンの開発と普及には、1年程度か、あるいはそれ以上かかるだろうと言われています。

 ということは、それまでは、短期間に大量の感染者が出る感染爆発(これが怖れられているのは、医療体制が崩壊するから)か、一定量の感染者が長期間出続ける(いわば)感染継続によって、集団内の相当数(半数以上)に免疫ができ、ウイルスの絶滅ではなく、ウイルスとの共存可能状態(インフルエンザ的状態)が確保されない限り、疫病の「収束」とはならないでしょう。それはつまり、症状の度合いはともかく、かなりの確率で自分も罹患するということです。

 すなわち、いま我々はウイルスという正体不明の脅威に対しては受け身であらざるを得ず、その「受け身」をどうとるかが、個々に問われていると言えるのではないでしょうか。おそらく、前線の医療従事者の方々にしても、試行錯誤の連続で、未だ確かな見通しは立たないでしょう。当面は基本的に対症療法になるはずです。

「感染することを覚悟する」ということは、極言すれば、その核心に「死」を置くことです。そしてそれは、死から自己の在り方を見ることです。するとそれは図らずも、今の自分にとって、これからの自分にとって、本当に大切なことは何なのかを考え直すことに通じるでしょう。

 それはひょっとすると、効率と利益に追われて走る社会を突然中断させ、思索と自省のまとまった時間を社会と個人に与えるという、稀有の事態をもたらすかもしれません。

 9年前の大震災後にも、その事態は到来しかけましたが、効率と利益最優先の社会は結局、見直されることも修正されることもなく再建されました(馬鹿げたオリンピツク招致がその代表例)。「コロナ後」に我々と我々の社会は、やはり変わらないのでしょうか。変わらないですむほどの厄災にとどめることができるでしょうか。

 都合により、今回は定例より1日早い記事の公開といたしました。




番外:素人の蛇足です。

2020年03月26日 | 日記
 今回の疫病、私は「自粛」ですむ段階は終わったと思います。

 ある程度の規模の集団に対して一律に「面白くないこと」をさせるには、集団の統率者側による一定の強制、すなわち罰則を伴う取り締まりが必要です。およそ個人の意志のみでは2週間をこえる自制は困難でしょう。

 すなわち、政府と東京都は、今日にも緊急事態を宣言して、当面の期限を明示して東京を封鎖(買いだめ等を含む移動・行動制限)すべきです。既存の法律より強力な法的根拠の確保が急務でしょう(緊急の法改正か立法)。

 できれば今日から一週間程度の間に当局はできるだけの準備(特に医療と教育と治安)をし、情報を提供した上で、個人の「意志」ではなく、法的な「拘束」で社会を方向づけなければなりません。 

 それによって生じる個人と法人の経済的損失は、基本的にすべて国の資金で補償することもしなければなりません。国民の負担は膨大な額でしょうが、首都の経済活動が壊滅するよりましです(東京一極集中の日本では、首都だけの問題ではすまない)。

 オリンピックは中止すべきです。治療薬とワクチンが開発され、それが世界的な規模で必要な人に十分に行き渡るようになるには、たぶん1年では無理だと思います。開催できるかどうか不安を抱えながら、さらに準備に人的・物的資源を投じるべきではありません。そもそも、今後感染の第二波、第三波がくる可能性もあります。

 平和だからオリンピックができるのであって、オリンピックが平和を作るわけではありません。開催に対する懸念と労力を断ち切り、疫病撲滅に注力すべきです。

 これは確かに個人の「主権」制限です。しかし、「主権」は社会が規定します。その社会が崩壊の危機にあるなら、期限などの厳格な条件付きで制限することは理に適うでしょう。
 
 私はそう思うのですが。
  
 

「呵々大笑」の思想

2020年03月20日 | 日記
 昔の禅問答を収録した本など読むと、かなりの頻度で「○○禅師、呵々大笑す」というような文句が出てきます。「悟り」を開いた場面とか、問答の最中などに、禅僧が大きな声で笑い出すのです。

 ところが、宗教と笑いは、本来それほど相性はよくありません。修行道場では「歯を見せるな」とよく言われましたし、いわゆるパーリ律では歌舞音曲を楽しむことは禁止ですから、笑いも歓迎されるわけがありません。

 有名なイタリア人作家のミステリーに、山の中の修道院を舞台とする『薔薇の名前』がありますが、ここではキリスト教による笑いの抑圧が事件の鍵になっています。これは小説ですが、私の知る限り、祈りと清貧を旨とするとされる実際の修道院生活でも、そう笑いが許容されているとも思えません。

 そもそも、仏教は「一切皆苦」を言い。キリスト教は「原罪」を主張するのですから、笑いが馴染むような余地はほとんど無いはずでしょう。

 ただ、私は、仏教の「無我」の教えは、笑いとの相性が悪くないと思います。禅問答はその証左ではないでしょうか。

 笑いという現象が起きるには、「真面目」なもの、「常識」的なことの存在が大前提です。これら「真面目」「常識」は、共同体が要請する秩序体系や規範構造に基礎づけられており、相応の強制力を持ち、本来我々に抑圧的です。

 しかしながら、その秩序や規範は、一定の社会的な条件下で成立するものであって、それ自体に絶対的な根拠を持つわけではありません。すなわち「無我」なのです。

 笑いとは、この「真面目」「常識」を成り立たせる条件を部分的に変え、秩序体系や規範構造の一部を脱臼させて、それら自体に根拠が無いことを暴露して、強制力による我々への心理的抑圧が、瞬間的に解消される快感なのだと言えるでしょう。
 
 ビートたけしの「ツービート時代」の名文句、「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」は、まさに典型でしょう。

 赤信号では誰も渡ってはならないという交通ルールは、共同体における交通事情が要請し、その便宜のために人々に強制される規範です。その侵犯は原則的に誰にも許されず、一人で違反することは、物理的にも社会的にも、ある程度「怖い」でしょう。

 ところが、その時その場で従うべき歩行者全員が規範を裏切るなら、自動車は止まらざるを得ず、赤信号ルールは瞬間的に無意味になります。見ず知らずの歩行者が一致して赤信号を渡ることは現実には考えにくいですが、このアイデアはまさに、交通ルールを成り立たせる秩序体系を脱臼させるでしょう。

 これは、あくまでも秩序の脱臼であって、秩序への抵抗や反抗ではありません。それらは極めて「真面目」な行動で、笑える話ではありません。

 ただ、笑いはこうした抵抗や反抗に結びつき、それを支持する有効な力の一つにはなるでしょう。そう思うと、禅にはどこか「反体制的」匂いがあるのは、わからない話ではありません。

震災9年

2020年03月10日 | 日記
 明日で東日本大震災から9年。本来なら行われるはずの政府主催の追悼式典は、新ウイルス禍で中止となりました。その式典も来年が最後だそうです。歳月とはそういうものかと思わざるを得ません。

 連日の疫病報道に接していると、災難の強度と規模は今のところ震災に及ばないとは言え、人心に不安と疑心暗鬼と、それに相応する恐怖が蔓延しつつあるように見えます。それは、はからずも9年前の自分の記憶を、それなりにリアルに思い起こさせるものです。

 あの日、私は住職をしている福井の寺にいました。二階の自分の部屋で何かの原稿を書いていたのです。ニュースを見ようかと、音を消したテレビをつけっ放しにしていた私が、ふと画面を見ると、そこに大きな黒い模様が広がっていました。

 故障かと思って近づくと、それが仙台平野を呑み込んでいく津波の映像だったのです。まったく揺れを感じなかった私は、そのとき初めて想像を絶する地震と津波の惨状を目の当たりにしました。

 腰が抜けたわけではありませんが、私はテレビの前に坐りこみ、自分にはほとんど幻想的としか言いようがない光景を見ていました。

 今も覚えているのは、走る白いトラックに津波が迫り、ついに海水と瓦礫の黒い塊に消えていく様でした。

「トラックが動いているんだから、中に人がいるだろう。それが津波に吞まれて、いま死んでいくんだな。それをオレは畳の上で見ている。なぜ、あそこで人が死んでるのに、オレはここでそれを見ているんだろう?」

 あとはほとんどものを考えられませんでした。「なぜ?」ばかりが頭に反響したまま、気がついたら夜中になっていました。

 原発が非常事態に陥ったことも、その坐った場所で見ました。翌日の爆発もそこで見ていましたから、ほとんど動かなかったのでしょう。何か食べた記憶もありませんし、一睡もしていないと思います。

 原発の爆発を見たときは、頭だけが勝手に先を考えていました。このまま原子炉が暴走して制御できなくなったら、最後はどのくらいの規模で放射能に汚染されるのだろう。東京一極集中状態で関東全体が壊滅したら・・・・、場合によったら地方疎開じゃすまない。国家が機能しなくなり、我々は難民になるかもしれない。

 そのときの心境を正確に思い出すことはできませんが、印象として残っているのは、子供の頃に強烈な喘息の発作に襲われたり、急に入院しなければならなくなったとき、頭の天辺から足の爪先まで染みわたった、「自分ではどうしようもないことは、所詮どうしようもない」という、ある種の麻痺的な感情です。

 これは、自分の感覚としては「諦め」とは違います。圧倒的な不安や恐怖を何とか受けとめ、やりすごす、子供の頃に身につけた処「生」術のような反応です。

 事態が時間の経過とともに悪化していくのを目の当たりにしながら、おそらく二日目の夜だったでしょうか、何かの拍子に、出家した日のことが浮かんできました。

「得度式が終わった夜、思ったじゃないか。これで野垂れ死にしたって恰好はつく、って」

 それを思い出したとき、私はなんとなく我に返ったんだと思います。丸一日ぶりに何か食べて、とりあえず寝る。テレビはそれから3,4日はつけたままにしていましたが、以後、私はちゃんと眠りました。

 テレビで様子を見ていただけの私でさえ、この程度のことは今でもかなり生々しく思い出します。これが被災者の方々ならば、9年経とうが10年経とうが、これからも長い歳月、過酷な経験の記憶と当時の悲痛な思いは、とても整理のつくものではありますまい。
 
 あらためて、犠牲になられた方々のご冥福を念じ、被災した皆様の今後のご安寧を切にお祈り申し上げます。

今更ながらの一言。

2020年03月01日 | 日記
 不安の中心には「わからなさ」があり、この「わからなさ」が放置されたままだと、不安は増殖して恐怖となり、恐怖はその圧力を放出する対象を欲望して、あろうことか、「わからない事態」の犠牲者や被害者への差別や排除として現象する。

 あのハンセン病問題、水俣病問題、そして原発事故などで見られた同じ過程が、今回の疫病でも繰り返されています。

 感染症の正体やその有効な治療法が不明なまま、対策は後手に回る上に(特に検査体制の不備は、後日致命的失敗と言われる怖れあり)、現下の状況についての情報が不足してるだけでなく、さらに情報が抑えられているのではないかという疑惑さえあり(要は当該政権のこれまでの振舞に由来する不信)、「わからなさ」は昂進するばかりです。

 すると、その不安は恐怖に発展し、案の定、クルーズ船の乗客や医療従事者、その家族などへの愚かしい差別や抑圧が始まりました。この種の恐怖は拡散するのが通り相場で、次はパニック買いが起こるだろうと思ったら、ここ2、3日、一部でトイレットペーパーの買いだめ騒ぎが起こりました。

 すでに市中感染が始まっている以上は、そもそも人を差別しているような場合ではありませんし(皆に感染の可能性がある)、パニック時の買いだめは大抵は妄想で(インフルエンザが流行っていても、多くの人々は平気で買い物に行く)、そもそも大事なのは非常時の「買いだめ」ではなく、平時の「備蓄」でしょう(地震も台風もある国なのだから)。

 今後、政権当局が最悪のケースを想定しながら、必要な情報と対策を順次公開できないと、感染の拡大にしたがって、累積的にパニック的行動が拡大し、患者やその周辺への理不尽な攻撃と、食料日用品などの熾烈な買いだめが横行するかもしれません。

 この種の差別や買いだめは、反復されているうちに共同化され、ついには「現実」となって、当然のごとく人々を扇動するようになります。

 今回の疫病は、高齢者と持病を持つ人でなければ(これらの方々を守る対策は別途遺漏なく準備されるべきです)、致死率は高くないというデータがあり、幸いにも軽症者が大半だといいます。そして同時に、我々が日常でできる防衛策は限られています(うがい、手洗い、人混みに行かない)。ならば、今はとりあえず「わからなさ」に耐え、できる対策に専心する以外にありますまい。

 専門家ではない我々にとっては、こういう場合往々にして、焦って急に何かすることより、とりあえず動かず待つほうが大事なこともあります。いま何がわかっていて何がわからないかを整理して、わかったことにはしかるべき対策を、わからないことには暫し忍耐を。

 ウイルスの感染は個人の努力だけでどうにかなるものではないにしろ、差別やパニックに感染してしまうことは、それぞれの覚悟次第で防げる話です。

「頭を冷やす」努力をすること。今更、当たり前とは言え、いまそれが非常に大事だろうと、私は思います。