以前から機会あるごとに述べて来たとおり、私はおよそ「絶対の真理」のようなアイデアを一切用いません。
言われたり書かれたりした言葉を、別の人間が聞いたり読んだりした結果、それが理解可能ならば(そうでなければ、一切無意味)、そのアイデアを「永遠で・普遍的で・それ自体として絶対的に正しい」と主張することは、もはやタチの悪い冗談と変わらないと思います。
したがって、人が「真理」として持ち出すものは、結局は「ある条件の下、一定の支持を得た解釈」に過ぎないと、私は考えます。それは仏典だろうと、聖書だろうと、コーランだろうと、相対性理論でも同じです。
なぜなら、それらにはすべて人間による認識という、決定的な限界があるからです。言葉を使うとは、そういうことなのです。
・・・という聊か大げさな前口上を言わせていただいて、以下に、仏教の基本教説の一つ、「十二支縁起」についての最終見解を述べておこうと思います。
1.「十二支縁起」の教説
「十二支縁起」は、『律蔵・大品』によると、ブッダが解脱から7日間その境地を楽しんだ後、最初に考察された教説とされます。つまり、根本的な教説として極めて重視されてきたわけです。
それは「自己」の実存を、十二の要素の因果連鎖で説明するもので、その要素は、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12項で、それぞれの一般的な意味は次のように解説されています。
1. 無明 – 根本的な煩悩としての無知。
2. 行 - 生活作用,志向作用。物事がそのようになる形成力=業
3. 識 - 識別作用。好き嫌い、選別、差別を行う意識
4. 名色 - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。対象世界を構成する形態と概念。
5. 六処 - 六つの感受機能、感覚器官(眼耳鼻舌身意)。
6. 触 - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象(色声香味触法)が触れること。外界との接触。
7. 受 - 感受作用。六処、触による感受。
8. 愛 - 渇愛、妄執。
9. 取 - 執着。アタッチメント。
10. 有 - 存在。生存。
11. 生 - 生まれること。
12. 老死 - 老いと死。
この十二項目を無明から始まる因果の連鎖で繋ぎ、前項が後項を引き起こすと考えて、これを「縁起」と称するのです。逆に、無明が消えれば、以下の項目はドミノ式に消え、「解脱」ということになるでしょう。
ブッダは、初期経典において、この因果連鎖のメカニズムを自分で説明していません。たとえば、無明から行がどのように生れ、行がどう識を引き起こすかについての解説は、経典に見当たらないのです。
2.部派の解釈「三世両重の因果」
その説明は、時代が下り、いわゆる部派仏教の教学の成立を待ってなされました。最も有名な解釈は、十二項目を前世・現世・来世の三世に配当し、胎生学的に説明するものです(『倶舎論』)。
それによると、まず前世の根本煩悩が作用(行)して、現世の母体内において識が生じ、そこから六つの感覚器官を備えた胎児(名色)が形成され、それが完成して出生します(六処)。
生まれると外界に接触(触)するが、まだ刺激を受ける(受)だけで、乳幼児期は苦楽などの感覚の区別が定かにつきません。その後成長にしたがい、性欲が形成されて執着や妄執(愛)が生じ、さらに性欲のみならず、様々な欲望が対象に発動するのです(取)。
そのような存在の仕方(有)が、来世の出生(生)の原因となり、新たな心身を得て老い死んでいくわけです。
これを時間軸で整理すると、来世の生は現世の識に当たり、来世の老死は現世の名色・六処・触・受に当たるとされます。つまり、現世を仲立ちに過去世と来世を因果関係に結んで生物学的に説明するのであり、これを「三世両重の因果」と呼ぶのです。
以上の解釈は、あきらかに三世を実在するものと考え、因果関係も実体的に考えざるを得ません。すなわち、各項目はそれ自体で存在し、前項の力が後項を「引き起こす」わけです。「輪廻」の教説を構造的に説明するのも、このアイデアでしょう。
この解釈に対して、私の見解は以下の通りです。
3.実存論的「十二支縁起」解釈
私は「三世両重の因果」的な実体論的解釈はとりません。この解釈は、無常・無我の立場と全く相容れません。そうではなくて、「十二支縁起」は我々の実存の仕方を構造的に説明するモデルだと考えます。
まず無明は、関係において存在するものをそれ自体で存在していると錯覚すること、すなわち無常で無我である実存を常に同一な実体であると誤解することです。とすると、それは言語の機能です。すなわち、無明とは言語のことだと、私は考えます。
行は無明たる言語機能の発動であり、人間の意識や認識作用(識)の現実態が言語であるとするなら、言語機能の発動を意識の発生と考えても不自然ではないでしょう。
意識や認識は、必ずや何ものかについての意識・認識として作用します。その対象となるのが知覚される形態(色)と、思考によって把握される概念(名)であり、だとすると識と名色の成立は同時です。
認識対象(名と色)の成立は、それと同時進行的に認識主体(六処)の形成です。このとき、知覚や認識が作用として機能するのは、教育によってです。
生まれた直後の乳児は、五感もほとんど分化しておらず、一種の混沌状態にあると思わます。その未分化状態の名残が、「黄色い声」とか「赤っ恥」「ブルーな気分」などという比喩でしょう。つまり、視覚経験である色を聴覚や感情と結び付けて表現できるのは、その基盤に「共通感覚」的な未分化状態があるからなのです。
この未分化状態は、まず大人による事物の指示と名称の刷り込みで、周囲の世界を区分し秩序付け、対象世界として構成することを通じて、認識主体化します。つまり、言語による指示が繰り返されるうちに、どの対象にどの感覚が対応するのかを認識し、それが他の対象とどう違うのかを理解することを通じて、意識と五感は構造化されて、認識主体として成立するわけです。
言語によって構造化された認識主体と認識対象が接触(触)すると、そこに知覚が生じます。この知覚は一定の印象として感受され(受)、相応の反応が起きます。その代表は、対象に対する愛着と、その逆の嫌悪である。嫌悪はいわばマイナスの愛着です(愛)。
そのような感情は、プラスであれマイナスであれ、具体的な対象への働きかけ(取)となります。
有は、このように理解された実存の構造であり、生はその現実化です。そして老死は無明に起源する実存の苦の極相なのです。
私は以上のように「十二支縁起」を実存の構造モデルとして考えますが、このアイデアを支持する言説が、経典にあります。
4.初期経典から読み取れる実存論的解釈
そもそも、「三世両重の因果」は無論のこと、初期経典における十二項目の揃った縁起説は、ブッダ入滅後に後代の僧侶が整備した教説です。ブッダが語った内容により近いと思われる、「十二支縁起」の原型的解釈は以下のようなものです。
「さて世の中の欲望は何にもとづいて起こるのですか? また『(形而上学的な)断定は何から起こるのですか? 怒り虚言と疑惑および〈道の人〉(沙門)の説いた諸々のことがらは、何からおこるのですか?
世の中で〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起こる。諸々の物質的存在には生起と消滅のあることを見て、世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定を下す。
怒り虚言と疑惑、―――これらのことがらも(快と不快との)二つがあるときに現われる。疑惑のある人は知識の道を学べ。〈道の人〉は、知って、諸々のころがらを説いたのである。
快と不快は何にもとづいて起こるのですか? また何がないときにこれらのものが現れないのですか? また生起と消滅ということの意義と、それらのもとになっているものを、われに語ってください。
快と不快とは、感官による接触にもとづいて起こる。感官による接触が存在しない時には、これらのものも起こらない。また生起と消滅の意義と、それらの起こるもととなっているもの(感官による接触)をわれは汝に告げる。
世の中で感官による接触にもとづいて起こるのですか? また所有欲は何から起こるのですか? 何ものが存在しないときに、〈わがもの〉という我執が存在しないのですか? 何ものが消滅したときに、感官による接触がはたらかないのですか?
名称と形態とに依って感官による接触が起こる。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには〈わがもの〉という我執も存在しない。形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない。
どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか? 楽と苦はいかにして消滅するのですか? どのように消滅するのか、その消滅のありさまを、わたしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。
ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いを消滅した者でもない。―――このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである」
(『ブッダのことば』191頁 岩波文庫)
この引用文から見る限り、どうみても部派のような実体論的かつ胎生学的解釈は無理筋です。
ここで問題になっているのは、現に生きている人間の欲望と錯覚(事物の実体視=形而上学的断定)であり、その根源を「想い」に求めています。「想い」とは十二支縁起の識に比定できるでしょう。
とすると、名称と形態は名色、感官は六処、接触は触、快と不快は受、欲望は愛に当たると言えるでしょう。これらの項目は、いわば実存をモデル化して理解するときの、論理的関係を示すものと考えるべきです。
そう考えていると思われる文章が別の経典にもあります。「十二支縁起」を説明しながら、この経典は「何を条件として名称と形態はあるのだろうか」という問いに「識別作用(識)を条件として、名称と形態がある」とした直後に言います。
「『なにか特定のものを成立条件とすることによって識別作用はあるのだろうか』と、もしそう問われたならば、アーナンダよ、『(それはそのように)ある』と答えるべきである。『なにを成立条件として識別作用はあるのだろうか』と、もしそうたずねられたななら、『名称と形態を成立条件として識別作用がある』と答えるべきである」
(『原始仏典 長部経典Ⅱ』74頁 春秋社)
つまり、識と名色の因果関係が相互的になっているのです。この二項が相互的ならば、他の因果連鎖を実体的に解釈するのは、事実上できない相談でしょう。
さらに、「想い」にあたるところを、考えること、つまり言語だとする経典の一節もあります。
「師(ブッダ)は答えた、『〈われは考えて、ある〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ』」
(『ブッダのことば』岩波文庫)
5.『中論』の「十二支縁起」
以上のように、実体論的解釈を廃して、実存論的に「十二支縁起」を解釈する手法は、私の場合、ナーガールジュナの『中論』を理論的根拠の一つにしています。が、ここで困るのは、『中論』がその終わりのあたりで、突如として部派仏教の胎生学的「十二支縁起」解釈を、ほとんどそのまま出してくることです(「観十二因縁品」)。これはどう見ても、『中論』を貫く反実体主義と矛盾します。
であるならば、ここは実体的な胎生学的解釈は無視して、先に述べた通りの実存的解釈に変更して構わないし、そのほうが「十二支縁起」説は生きる、と私は思います。
その根拠は、『中論』では、部派の胎生学的縁起(「三世両重の因果」)説が完全にコピーされているわけではないからです。
重大な相違は、先に紹介した初期経典の既述のように、識と名色の項目に相互関係が設定されていることです。
「〔諸〕『行』を縁とする『識』(識別するはたらき)が、趣(生存の場所)に入る。そして『識』が〔趣に〕入ったときに、『名色』(名称と、いろ・かたちあるもの、心ともの)が現われる。」
「眼と、いろ・かたちあるもの(色)と作意(対象への注意)とに縁って、すなわち『名色』に縁って、そのような『識』を生ずるにいたる」
(『中論』「観十二因縁品」)
ならば、事実上胎生学的解釈は無効であり、顧慮に値しないでしょう。
さらに他にも、実体論的解釈を否定する次のような記述があります。
「見られるものと見るはたらきとが存在しないがゆえに、識などの四(識と触と受と愛)は存在しない。執着(取)などが、さらにどのようにして、存在するであろうか」『中論』「観六情品」
この考えを前提にするなら、「三世両重の因果」的解釈を維持するのは不可能ですし無意味でしょう。
6.結論
以上の検討から、私は、仏教の「無常・無我・縁起」説を貫徹し、『中論』を理論的根拠として、「十二支縁起」のあらゆる実体論的解釈を排却し、これを「自己」の実存論的構造分析のモデルであると、「改釈」します。