恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

言葉の受肉

2021年04月30日 | 日記
 突然お招きがあって、高名な劇作家であり俳優である野田秀樹さんと対談する機会を得ました。

 野田さんと私は同世代で、学生時代、演劇に非常に詳しい知人から、当時新進気鋭の天才的演劇人として話を聞いていました。ただ、私はちょうど仏教に深入りし始めた頃だったので、直接に彼の劇団の公演に出向くこともなく、その後の大活躍も実際にはほとんど知りませんでした。

 ですから、お声がかかった時には文字通り「なぜだ?」の心境でしたが、スタッフの方によれば、次回の公演には、恐山を舞台にした作品を野田さんがお考えで、ついては是非話を聞きたいということでした。「ご著書も何作か読んでいて、対談を公演のパンフレットに掲載したい意向なんです」と、言われたわけです。

「業界」の違う人の話、特にその道の第一人者の話は、なんであれ興味深いので、つい好奇心からさせて頂く旨の返事をすると、今度は出来上がったばかりの台本が、対談2日前に送られてきました。

「よいのだろうか? 公開前に他人に送って」とは思ったのですが、物はもう届いています。そして中を見ると、A4の紙で100枚をはるかに超える台本が入っていました。題して「フェイクスピア」。

 野田さんの作品のファンの方ならおわかりでしょうが、とても一筋縄で読みこなせるものではありません。ほとんど徹夜しながら読んで、何を言わんとしているか考えました。最近には無かった頭が沸騰するような経験でした。

 作品のプロットや対談の内容を、今ここで詳しく申し上げることはできませんが、私は対談冒頭で、こう話を切り出しました。

「幕が開いて早々に、登場人物が、何か言ったとしても誰も聞いていない言葉は、はたして言葉なのか、という意味のことを言いますね。もしそういう言葉があるとすれば、それは伝達する言葉でもなく、表現する言葉でもない。つまり、それは人間の言葉ではない。『創世記』の神の言葉のごとく、存在するものを存在せしめるような、力としての言葉でしょう。その言葉が人間にもたらされた時には、意味するものと意味されるものに分裂して、矛盾と葛藤を生む。敢えて「フェイク」と言うのはそこでしょう。この劇のテーマは言葉そのものであるように、私には読めました。野田さんは、言葉による真偽の区別、本当と嘘の違いなどに、確実な根拠があるなんて思ってないでしょう?」

 野田さんは即答でした。

「そのとおりです」

 このあと、「アブラハム」は出てくるわ、「坊主」や「イタコ」が出てくるわ。そして最後にはフィクションならぬ、ノンフィクションの言葉さえ出てきます。筋だけ追うと、わけがわからぬ言葉の洪水のようです。何故このような作品が多くの支持を集めるのでしょうか。

 対談終盤、私は野田さんに訊きました。

「演劇の言葉と他の言葉、たとえば文学や思想の言葉とは、何が違うのでしょう」

「それは体を通すかどうかでしょう。舞台で役者から出る言葉は、もう台本の言葉とは次元が違うのです。台本を書く時も、私は机で文字を書いていても、常に役者の体から出る言葉であることを意識しています」

 私は聞いた途端に思いました。

「宗教にも言える。宗教の言葉も身体性を失ったら核心が蒸発する」

 宗教の言葉は説明する言葉ではありません。説得する言葉であり、啓示する言葉です。それはすなわち、実存に働きかけ、動かす言葉なのです。私たちが身体において実存する以上、それを動かし得るのは、身体から出る言葉、語り手の具体的な体験に根ざす言葉以外にありません。

 演劇の言葉も、仮設された劇的空間に場を占める演者の身体から立ち上がり、その空間の中で通常の意味がずらされ、増幅されるのでしょう。台本の筋だけ読んでも伝達不能な意味が交錯し反響して、同じ空間を共有する観衆の身体に直接作用することによって、演者と観衆の身体的な共鳴があるとき、ドラマは初めて成り立つのではないでしょうか。

 実に多くを学んだ刺激的な対談でした。公演は五月下旬から始まるそうです。コロナ禍の折ではありますが、成功を祈ってやみません。

 




私の「私流」

2021年04月20日 | 日記
「君は時々『私流』という言葉を使うだろう?」

「うん」

「それに、『自分なりに』とか『自分としては』みたいな言葉をよく使うよな」

「その傾向はあるな」

「それ、言い訳? 反論されたときに、理屈の有効性を予め限定するための手段?」

「そう来たかあ。まあ、そうとる向きもあるか」

「じゃ、どんな意味なの?」

「ぼくは、理屈を言う時、自分の体験に具体的に刺さらないとダメなの。理屈が正しいかどうか、本当か嘘かは、極端に言うとどうでもいいの。自分の体験的な疑問を説明する理屈として有効かどうか、自分が納得できるかどうか、それだけなの。それが『私流』の意味」

「たとえば、どういうこと?」

「因果律ってあるだろう。原因―結果関係」

「ああ。仏教だと『因果の道理』みたいな言い方をして、『仏教の真理』として主張されるよな」

「ぼくが昔、それこそ思春期の入り口くらいに思いついて、非常に疑問に思ったのは、原因は普通『なぜ』という問いの答えとして出て来るだろう。でも、答えとして出たものには、さらに『なぜ』と問えるはずだ」

「なるほど、『なぜ』はいくらでも続く。問題は、どこで止めるかをどう決めるのか、ということだな」

「すると、それは自分の都合だろうとしか、言いようがない。当時は『まさか』と思い自信が無かったが、その後に『諸行無常』という考え方を知って、それでいいんだと思った」

「『原因』が『原因』であることに、確たる根拠は無いということか?」

「そう。でも、ぼくはその辺がしつこくて、今度は『自分の都合』とは何かという話になる」

「それはどういう意味だ?」

「確たる根拠もなく『原因』を決定したいと思うのは、どうしてなのか」

「確かにしつこいな。それはいつ頃の話だ?」

「哲学書とか思想書読み出した頃で、結局自分で腑に落ちたのは、これは『道具』の応用だなということ」

「ハイデガーか?」

「影響甚大」

「なるほどね。で?」

「つまり、『道具』の手段―目的関係を応用してものを考えるというのは、対象を思い通りにしたいということさ」

「そしてそれは、『所有』の概念と同じ」

「そして、『所有』とは対象の『他者性』を消去すること。これを逆に言えば、『自我』の錯覚的肥大だろう」

「だから、因果律もそれ自体では『真理』ではないというわけか」

「結局は自己都合の道具」

「というのも、仏教によって君が考え出した理屈だろう」

「そう。そして、理屈はすべからく因果律に規定されるから、ぼくのも自己都合の理屈にしかならない」

「すると、いわゆる『真理』とは? どう定義する?」

「より『所有』効果の高い『自己都合』理屈の、限定的共有化であり集団化」

「そう思うから、話すときには何ごとも『私流』と言いたいわけか」

「そう。ね、よくできてるでしょ」

「実に胡散臭いな」

「イイ落ちだ、くらい言えよ」


「偶像崇拝」雑感

2021年04月10日 | 日記
 以前から漠然と考えていたことに、いわゆる「普遍宗教」(仏教、キリスト教、ユダヤ教など。ここではユダヤ教も含む)と、美術や音楽など芸術表現との関係如何、という問題があります。

 これらの宗教は、その始まりの時点では、どれも「偶像崇拝」を禁止しています。

「偶像崇拝」とは、「絶対神」あるいは「絶対的真理」などの存在を感覚的対象として表現することです。これが禁止されるのは、理屈から言って当然です。「絶対的」なものが、「相対的で限定的」な能力しか持たない人間に表現できるとなれば、その「絶対性」は無意味になるからです。

 したがって、「絶対神」の「絶対性」を純粋に維持しようとするイスラム教とユダヤ教は、未だに「偶像崇拝」を厳しく禁じています。

「キリスト教芸術」「仏教芸術」はあり得ても、「イスラム教芸術」「ユダヤ教芸術」は無いと言って良いでしょう。「イスラム教地域」の芸術や、「ユダヤ民族」の芸術はありますが、その宗教の教義と本質的な関係を持つ芸術表現はありません。

 この事情は、人間と神との間に「絶対的」な断絶があることを意味するでしょう。色も形も音も、「絶対神」と原理的に関係しないのです。

 キリスト教も初期は「偶像崇拝」を禁止していました。それに変化が生じたのは、4世紀頃に有名な「三位一体」説が整備され・公式化された過程においてです。この教義において、イエス・キリストという「人間」が「神の子」となりました。つまり「絶対的」存在が「受肉」して感覚的に対象化したわけです(モハメッドやモーゼは預言者どまり)。

 となると、その「絶対性」を視覚的に表現したり、聴覚的に暗示したり、あるいは讃嘆することも可能になるでしょう。絵画に「父なる神」が人間の姿で描かれる例は多くあり、西洋音楽の源泉は教会の儀礼に使われた音楽で、それは信仰を高揚させ、神的存在を暗示する作用があったわけです。

 仏教も初期にはブッダを直接視覚的に表現することを避けて、車輪で象徴しています。それはブッダの説法が広く行き渡る様を、車輪が四方八方に走ることに喩えているからで、我々は今でも説法することを「法輪を転ずる」と言います。

 仏教の場合、ブッダは元々人間です。だから初めから視覚的に表現してもよさそうなものですが、そもそも仏教にとって最も大事なのは、ブッダその人ではなく「ダルマ(法)」と呼ばれる教説です。

 ブッダが人間なら無常な存在でしょうが、「ダルマ」は「永遠の真理」とされます。ブッダが信仰されるのは、その「ダルマ」を説く故なのですから、「ダルマ」の優位性が強く認識されているうちは、敢えて人間ブッダを表現する意欲が乏しかったのかもしれません。

 しかし、ギリシャ文明に接して視覚表現が触発されると、ガンダーラ地方で仏像が作られるようになり、「ガンダーラ美術」として開花しました。それはブッダの人間性の再発見と言えるでしょう。

 後に大乗仏教が勃興すると、そこに説かれているのは最初から想像上のブッダですから、これを表現するのに何ら憚る必要はなく、造形表現は伝播したアジア各地域でも独自に発展していきます。

 ただし、仏教では聴覚的な表現、つまり仏教音楽に見るべきものがほとんどありません。「声明」と呼ばれる朗唱表現がありますが、キリスト教音楽の豊饒さとは比べるべくもないでしょう。

 けだし、感情を直接刺激して高揚感をもたらすような音楽の作用は、「ニルヴァーナ」という寂滅の境地を理想とする仏教には、むしろ妨げになると考えられます。

 今回は、つらつら考えていたことを、整理してみました。お付き合いいただき、恐縮でした。



 追記でお知らせをひとつ。
 
 本日まで、長らく10日に1回のペースで記事を上げてまいりましたが、今般筆者の都合により、5月から月1回の不定期更新とさせていただきます。悪しからず御海容の程お願い申し上げます。
 


番外:「処理済み汚染水」放出について、ご提案。

2021年04月07日 | 日記
 政府は福島県の事故原発から出る「汚染水」を沖合に放出するお考えのようですが、福島県を中心とする漁業関係者の総反発に苦慮しておられるわけでしょう。

 そこでご提案ですが、放出する「汚染水」は、「人体に安全なレベル」に処理しているとのことですので、それが本当なら、海に放出する前に、まずは永田町・霞が関一帯、東京電力本社周辺に、貯蔵タンク2、3個分の「安全な処理済み汚染水」を満遍なく散布してみてはどうでしょう。

 これで「やはり安全」となれば、今度は散水を東京電力管内、次に原発を持つ電力会社の管内に拡大すればよいと思います。

 最後まで散水しつつ放出し続ければ、それがいわゆる「風評被害」に対する決定的な特効薬になるでしょう。