突然お招きがあって、高名な劇作家であり俳優である野田秀樹さんと対談する機会を得ました。
野田さんと私は同世代で、学生時代、演劇に非常に詳しい知人から、当時新進気鋭の天才的演劇人として話を聞いていました。ただ、私はちょうど仏教に深入りし始めた頃だったので、直接に彼の劇団の公演に出向くこともなく、その後の大活躍も実際にはほとんど知りませんでした。
ですから、お声がかかった時には文字通り「なぜだ?」の心境でしたが、スタッフの方によれば、次回の公演には、恐山を舞台にした作品を野田さんがお考えで、ついては是非話を聞きたいということでした。「ご著書も何作か読んでいて、対談を公演のパンフレットに掲載したい意向なんです」と、言われたわけです。
「業界」の違う人の話、特にその道の第一人者の話は、なんであれ興味深いので、つい好奇心からさせて頂く旨の返事をすると、今度は出来上がったばかりの台本が、対談2日前に送られてきました。
「よいのだろうか? 公開前に他人に送って」とは思ったのですが、物はもう届いています。そして中を見ると、A4の紙で100枚をはるかに超える台本が入っていました。題して「フェイクスピア」。
野田さんの作品のファンの方ならおわかりでしょうが、とても一筋縄で読みこなせるものではありません。ほとんど徹夜しながら読んで、何を言わんとしているか考えました。最近には無かった頭が沸騰するような経験でした。
作品のプロットや対談の内容を、今ここで詳しく申し上げることはできませんが、私は対談冒頭で、こう話を切り出しました。
「幕が開いて早々に、登場人物が、何か言ったとしても誰も聞いていない言葉は、はたして言葉なのか、という意味のことを言いますね。もしそういう言葉があるとすれば、それは伝達する言葉でもなく、表現する言葉でもない。つまり、それは人間の言葉ではない。『創世記』の神の言葉のごとく、存在するものを存在せしめるような、力としての言葉でしょう。その言葉が人間にもたらされた時には、意味するものと意味されるものに分裂して、矛盾と葛藤を生む。敢えて「フェイク」と言うのはそこでしょう。この劇のテーマは言葉そのものであるように、私には読めました。野田さんは、言葉による真偽の区別、本当と嘘の違いなどに、確実な根拠があるなんて思ってないでしょう?」
野田さんは即答でした。
「そのとおりです」
このあと、「アブラハム」は出てくるわ、「坊主」や「イタコ」が出てくるわ。そして最後にはフィクションならぬ、ノンフィクションの言葉さえ出てきます。筋だけ追うと、わけがわからぬ言葉の洪水のようです。何故このような作品が多くの支持を集めるのでしょうか。
対談終盤、私は野田さんに訊きました。
「演劇の言葉と他の言葉、たとえば文学や思想の言葉とは、何が違うのでしょう」
「それは体を通すかどうかでしょう。舞台で役者から出る言葉は、もう台本の言葉とは次元が違うのです。台本を書く時も、私は机で文字を書いていても、常に役者の体から出る言葉であることを意識しています」
私は聞いた途端に思いました。
「宗教にも言える。宗教の言葉も身体性を失ったら核心が蒸発する」
宗教の言葉は説明する言葉ではありません。説得する言葉であり、啓示する言葉です。それはすなわち、実存に働きかけ、動かす言葉なのです。私たちが身体において実存する以上、それを動かし得るのは、身体から出る言葉、語り手の具体的な体験に根ざす言葉以外にありません。
演劇の言葉も、仮設された劇的空間に場を占める演者の身体から立ち上がり、その空間の中で通常の意味がずらされ、増幅されるのでしょう。台本の筋だけ読んでも伝達不能な意味が交錯し反響して、同じ空間を共有する観衆の身体に直接作用することによって、演者と観衆の身体的な共鳴があるとき、ドラマは初めて成り立つのではないでしょうか。
実に多くを学んだ刺激的な対談でした。公演は五月下旬から始まるそうです。コロナ禍の折ではありますが、成功を祈ってやみません。
野田さんと私は同世代で、学生時代、演劇に非常に詳しい知人から、当時新進気鋭の天才的演劇人として話を聞いていました。ただ、私はちょうど仏教に深入りし始めた頃だったので、直接に彼の劇団の公演に出向くこともなく、その後の大活躍も実際にはほとんど知りませんでした。
ですから、お声がかかった時には文字通り「なぜだ?」の心境でしたが、スタッフの方によれば、次回の公演には、恐山を舞台にした作品を野田さんがお考えで、ついては是非話を聞きたいということでした。「ご著書も何作か読んでいて、対談を公演のパンフレットに掲載したい意向なんです」と、言われたわけです。
「業界」の違う人の話、特にその道の第一人者の話は、なんであれ興味深いので、つい好奇心からさせて頂く旨の返事をすると、今度は出来上がったばかりの台本が、対談2日前に送られてきました。
「よいのだろうか? 公開前に他人に送って」とは思ったのですが、物はもう届いています。そして中を見ると、A4の紙で100枚をはるかに超える台本が入っていました。題して「フェイクスピア」。
野田さんの作品のファンの方ならおわかりでしょうが、とても一筋縄で読みこなせるものではありません。ほとんど徹夜しながら読んで、何を言わんとしているか考えました。最近には無かった頭が沸騰するような経験でした。
作品のプロットや対談の内容を、今ここで詳しく申し上げることはできませんが、私は対談冒頭で、こう話を切り出しました。
「幕が開いて早々に、登場人物が、何か言ったとしても誰も聞いていない言葉は、はたして言葉なのか、という意味のことを言いますね。もしそういう言葉があるとすれば、それは伝達する言葉でもなく、表現する言葉でもない。つまり、それは人間の言葉ではない。『創世記』の神の言葉のごとく、存在するものを存在せしめるような、力としての言葉でしょう。その言葉が人間にもたらされた時には、意味するものと意味されるものに分裂して、矛盾と葛藤を生む。敢えて「フェイク」と言うのはそこでしょう。この劇のテーマは言葉そのものであるように、私には読めました。野田さんは、言葉による真偽の区別、本当と嘘の違いなどに、確実な根拠があるなんて思ってないでしょう?」
野田さんは即答でした。
「そのとおりです」
このあと、「アブラハム」は出てくるわ、「坊主」や「イタコ」が出てくるわ。そして最後にはフィクションならぬ、ノンフィクションの言葉さえ出てきます。筋だけ追うと、わけがわからぬ言葉の洪水のようです。何故このような作品が多くの支持を集めるのでしょうか。
対談終盤、私は野田さんに訊きました。
「演劇の言葉と他の言葉、たとえば文学や思想の言葉とは、何が違うのでしょう」
「それは体を通すかどうかでしょう。舞台で役者から出る言葉は、もう台本の言葉とは次元が違うのです。台本を書く時も、私は机で文字を書いていても、常に役者の体から出る言葉であることを意識しています」
私は聞いた途端に思いました。
「宗教にも言える。宗教の言葉も身体性を失ったら核心が蒸発する」
宗教の言葉は説明する言葉ではありません。説得する言葉であり、啓示する言葉です。それはすなわち、実存に働きかけ、動かす言葉なのです。私たちが身体において実存する以上、それを動かし得るのは、身体から出る言葉、語り手の具体的な体験に根ざす言葉以外にありません。
演劇の言葉も、仮設された劇的空間に場を占める演者の身体から立ち上がり、その空間の中で通常の意味がずらされ、増幅されるのでしょう。台本の筋だけ読んでも伝達不能な意味が交錯し反響して、同じ空間を共有する観衆の身体に直接作用することによって、演者と観衆の身体的な共鳴があるとき、ドラマは初めて成り立つのではないでしょうか。
実に多くを学んだ刺激的な対談でした。公演は五月下旬から始まるそうです。コロナ禍の折ではありますが、成功を祈ってやみません。