恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

精進しよう

2006年06月29日 | インポート

Cimg0082  写真は、恐山に宿泊する参拝者にお出しする夕食のお膳です。肉・魚は使っていません。いわゆる精進料理です。なかなか豪華でしょう。

 昨今では、人々の健康志向もあってか、精進料理専門の料亭・レストランもあるようで、それらは大抵、非常に高価です。ですから、そういうものと比較すると、恐山の精進料理も、とりたてて驚くほどのものではないかもしれません。

 ですが、元はといえば、精進料理は、修行僧が修行をするために、そして修行として、食べていた料理です。ですから、実際に修行僧が食べるものはこれほどの立派なものではありません。私が修行していた道場は、三食の内容がほぼ決まっていて、朝は、お粥にタクアンとごま塩、昼は、ご飯に味噌汁と、野菜の煮物か炒めもの一皿、夕食は、ご飯に味噌汁と、野菜の煮物や炒めものなど二皿でした。五日に一度、食べ残しの野菜を使った精進カレーが出て、これが楽しみでした。肉の代わりが炒めたコンニャクでしたが。

 東南アジアの僧侶は今もそうですが、インドで仏教が始まった頃、僧侶は昼正午を過ぎたら、水以外のものは口にしませんでした。このルールは、仏教が寒さの厳しい中国に伝わって、変わっていきます。最初は彼らも夕食はとらず、代わりに温めた石を腹に抱き、空腹を紛らわしました。禅寺では今でも夕食のことを「薬石(やくせき)」と言います。修行僧にとって食べ物は修行する体を健康に保つ薬だとされます。その代わりになる石だから「薬石」なのです。精進料理を「懐石料理」とも言いますが、これもまさに「石を抱く」という意味です。この習慣が次第に変化して、中国・韓国・日本などでは、実際に夕食をとるようになったのです。ちなみに、日本人が一日三食とるようになったのは、禅寺の習慣が広まってからだそうです。

 私は20年近く禅道場にいたのですが、日本の禅寺の精進料理に慣れてしまうと、世間に出てから困ることがあります。油や香辛料に弱くなるのです。私は今でも続けて二食肉を食べると、お腹をこわすか、口内炎ができるか、悪くすると皮膚に湿疹がでます。また、外食のカレーが危険です。よほど体調や量に気をつけないと、てきめん、胃痛になります(ですからハヤシライスを食べています)。

 いま、「日本の禅寺の精進料理に慣れてしまうと」とことわりを入れたのは、外国では事情が違うからです。正午以後食事をしない東南アジアの僧侶の食事は、精進料理ではありません。信者から供養されるなら、肉でも魚でもOKです。そして午前中に大量に食べます。一度、ミャンマーのお坊さんを接待したら、90歳をこえる老僧が、翌朝起き抜けに大きなおにぎりを三つも食べるので、びっくりしました。中国や韓国は、何種類もの野菜を、あらゆる調理法で料理して出してきます。精進料理とはいえ、栄養満点。食べたいだけ食べさせます。特に中国は油をふんだんに使っていますので、かなりの高カロリーでしょう。

 我々言うところの「モドキ料理」も、中国や韓国は見事なものです。これは「肉もどき」「魚もどき」ということで、見た目も味も、とても野菜とは思えません。私のいた道場にも、とろろ芋と海苔で、うなぎの蒲焼そっくりのものを作る人がいて、初めて食べたときは、ずいぶん淡白なうなぎだな、としか思いませんでした。ただ、日本では「モドキ料理」は、邪道とまでは言いませんが、なんとなく敬遠されています。

 昨今、世間では、特に子供の食事が心配されていますが、勉強や仕事に「精進」するために、食事を「薬」と考えることは、意味のある発想だと思います。


その人はどこに

2006年06月26日 | インポート

Photo_18  恐山に今ある建物で一番古いのは、お釈迦様を本尊とする本堂(菩提堂)です。昭和初期、恐山は大火にあい、伽藍の多くを焼失しました。そのとき、町にあった武道場を仮本堂として移築したんだそうです。現在、ここでは、参拝の方々から申し込まれた先祖供養の法要をつとめています。Photo_19

 夏の大祭がしだいに近づいてくるこの時期、本堂には沢山のお供物が上がります。まず亡くなった人が着ていたであろう衣服。新品もあります。毎年買い換えてお供えする人がいるのでしょう。さらに遺影。処分するのに忍びないのでしょうか。あと、靴やぞうり、わらじもです。死出の旅路に不自由しないようにという心遣いなのだそうです。あと、子供のおもちゃ、お菓子やジュース、果物。人によってはリュックサックを背負って、あるいはダンボールをかついで持ってくるのです。

Photo_20 もうひとつ、私が初めて見たとき驚いたのは、二百個以上かと思われる花嫁人形です。紋付・袴の花婿人形というのもありました。これらはいま、お店で売られていません。ほとんどが特注品で、安くても一個、二、三万円はするでしょう。中には、施主の名前があり、さらに戒名や写真が入っています(写真に「童子」とあるのは、子供の戒名です)。

 おわかりでしょう。結婚前の息子や娘を亡くした親が、あの世で結婚させたいと願って供えるのです。毎年、二十個くらいずつ増えていきます。去年、私が最後に見たものは、50歳くらいのご婦人が持ってきた、それは大きく立派な花嫁人形でした。立派ですねえ、と私が言うと、彼女は「息子がねぇ、母さん、二十五までには結婚するからな、と言ってたんですよ。生きていたら、それが今年でね。ですから、お嫁さん連れてきたんです」。

 私たちは、年に一、二回、もう満杯になってどうしようもなくなったお供物から、お経をあげ、ご焼香して、処分させて頂きます(いわゆる「お焚き上げ」)。しかし、この花嫁人形だけは、すぐ処分するのがためらわれ、数が増えていってしまうのです。持ってきた親御さんの気持ちを考えると、どうしてもそうなってしまいます。

 以前、「人は死ねばゴミになる」と言った人がいました。死体をただのモノだと考えれば、それは確かに生ゴミと変わりません。ですが、彼は、亡くなった自分の親や妻を生ゴミとして思い出すのでしょうか。あるいは、幽霊が出たといって大騒ぎする人は、肉親を幽霊として思い出すのでしょうか。違うでしょう。思い出すのは、間違いなく、親兄弟や夫、妻、子供、まさしくその人です。死者はゴミでも幽霊でもなく、その人自身であり、人の想いの中に確かに存在します。

 恐山の岩場のあちこちに積み上げられた石の中には、文字の書いてあるものがあります。多くが人の名前や戒名なのですが、あるとき、こう書いてある石を見ました。

「もう一度会いたい」

 この気持ちの中に死者はいる。恐山は、それが純粋に、なんら飾ることなく表れるところなのです。


困ったな

2006年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム

 いま、毎月のお参りに、福井の自坊(自分が住職するお寺のこと)に来ています。お参りはいつものことなのですが、今回びっくりしたのは、檀家の人から「方丈(ほうじょう・主に禅宗で使う住職の敬称)さんの書がほしい」と言われたことです。

 なんでも、新築した家の床の間に飾る掛け軸にするんだそうで、「お願いしますよ、方丈さん。ねっ、ちょこちょこっと、すぐでしょ」。

 言うほうは簡単でしょうが、書くほうはそうはいきません。その家にお参りにいくたびに、床の間に飾られた自分の拙劣極まりない字を見なければならないと思うと、とても引き受けられません。しかし、相手は、そもそも私の書の腕前を知らないのですから、いくら勘弁してくれと言っても、謙遜しているとしか思わないのです。困りました。

 実は、白状しますと、私は30代の半ば頃に1回、40代になって1回、どうしても言われて半切(はんせつ・ごく普通の掛け軸に収まる大きさの縦長の紙)を書いたことがあります。そのたびに、もう2度とすまいと思ったのですが、どうしてもと言われると、住職は弱い。

 俗に禅僧の書は墨蹟(ぼくせき)と言い、これは書の上手い下手ではない、さとりの境地がいかに表れているかを見るのだ、とされるのですが、さとりの境地にほど遠く、しかも下手とあっては、立つ瀬がありません。

 では、どうしましょうか? 答えは一つ、書くだけです。書いた本人も恥ずかしく、もらった相手も始末に困るでしょうが、ここはもう、仕方がありません。これで、檀家中に住職の書のレベルは知れ渡るでしょうから、もう2度とこんなことは言ってこないでしょう。それでも言ってくるなら、今度は遠慮せず書けばいいのです。ここで言を左右にして曖昧にごまかせば、いつまでたっても住職の書に対する「幻想」は覚めません。

 私は思うのですが、悟ったとか、神の啓示を受けたとか言う人は、自分の信者や取り巻きのみならず、誰にもそれが明らかにわかるように、自らの具体的な行動おいて証明すべきではないでしょうか。書の腕前は、書いて見せれば、檀家だろうとなかろうと、一発でわかります。リアルな悟りや啓示も同じです。それらが、本人の行動をどう変えるのか、自らを充実させ、周囲の人を幸せにするのか、どうなのか、はっきり見えるようにしたらよいのです。

 私は「正しい宗教」「間違った宗教」を判断する基準を持ちません。しかし「善い信心」「悪い信心」を判断することはできます。「善い信心」は最後にかならず、その人に接する周りの人を感動させ、幸福にするものです。とりわけ、同じ信仰を持たない人に強い印象をあたえるものなのです。

 私の書がよい出来なら、また頼まれるでしょう。実に単純明快なことです。悟りも神の啓示も、それがリアルなものなら、単純です。リアルなものは、そもそも単純なのです。


恐山の参拝と宿泊

2006年06月15日 | インポート

 毎年お問い合わせが多い恐山の参拝と宿泊について、書いておきます。まず、参拝について。

 恐山の開山期間は、5月1日より10月31日の半年間。開山期間中は、無休です。それ以外の期間は閉鎖されています。Photo_13 参拝の開門時間は午前6時から午後6時まで。ただし、夏の例大祭と秋期祭は別に設けます。

その例大祭は、7月20日から24日まで。全国より大勢の方々がお参りされる、恐山の年間最大行事です。22日午前の山主上山式は、大祭ハイライトの一つで、季節の風物詩としても、毎年テレビで紹介されます。秋期祭は、体育の日を最終日とする3日間(土・日・月)。やはり全国よりお参りがあります。Photo_14

参拝のための入山料は、大人1人500円。小中学生1人200円。30名以上の団体は1人400円になります。入山料を納めた方は、どなたでも境内の温泉に入浴できます(宿坊内湯は除く)。

 自身や家族の健康や家内の安全などの祈祷、あるいは先祖供養などの法要は、朝6時半、午前11時、午後2時の三回。恐山寺務所で受け付けています。大祭期間は回数が増えます。

 予約(1週間前)を必要とする特別な参拝について。

 まず、恐山僧侶による境内の案内を希望する場合、Photo_15 参拝者の人数に関係なく、約50分で、5.000円のご志納をお願いしています。

 次に、宿坊の精進料理による昼食は、10名以上で、1人1.500円頂戴します。お申し込みの方は、宿坊内湯、外湯ともに、温泉に自由に入浴できます。なお、門前には簡単な食事ができる「蓮華庵」というお店もあります。おそば、ラーメン、カレーライスなどがあります。

 また、恐山僧侶による法話を希望の場合は、これも10名以上で、時間は約50分。ご志納で30.000円をお願いしています。

 宿泊について。宿坊「吉祥閣」のご利用は、1泊2食(精進料理。いずれご紹介します)で、1人12.000円です。要予約。Photo_16 写真は上から、宿坊正面入り口、玄関ロビー、ラウンジ、客室(1室4~5人収容)、大食堂です。

 午後5時までにチェックイン。6時夕食。ご希望の方には、7時から法話(50分)、引き続き写経もできます。消灯は午後10時。宿坊内湯など、温泉の利用は消灯時間まで。翌朝は5時からです。

 朝は6時起床。6時半に朝のお勤め、7時半朝食。チェックアウトは午前10時です。Photo_17

 院代になる以前、およそ15年前に始めて恐山を訪れたとき、私はこう思いました。2度3度はともかく、1度は来てみる価値がある。

 おいで下さい。お待ちしています。


作務衣(さむえ)の話

2006年06月10日 | インポート

Photo_11  このところ、私は用事で外出することが多かったのですが、わが曹洞宗では、外出するとき、修行僧は左の写真のような服装をします。長作務衣(ながざむえ)と言います。一見、襟の無いトレンチコートのようですが、以前、この姿で街を歩いていたら、高校生の一団から、「おっ、坊さんが特攻服着てる!」と言われてしまいました。

 首から掛けている、知らなければ赤ん坊のヨダレかけに見えそうなものは、「絡子(らくす)」と言い、お坊さんの正装である袈裟を簡略化したものです。 Photo_12

 右の写真は作務衣で、これは禅の道場で修行僧が掃除など、作務(修行としての労働)を行うときに着るもので、私も恐山では普段これを着ています。

 ところで、この作務衣、最近では、「古来より禅僧が着ていた伝統の作務衣」などと称して、大々的に通信販売などをしていますが、この「古来の伝統云々、」は完全な誤解です。右の写真のような作務衣、上半身の「上っ張り」部分と、トレパンのすそを絞ったような下半身のパンツ部分に分かれたスタイルのものは、私が調べた限り、昭和40年代に永平寺で始まりました。それ以前では、下半身の部分は、昔から日本人が着ていた「モンペ」だったのです。つまり、もともとは、着物の上に「上っ張り」を着て(だから、最初のころは着物の袖が納まるように、作務衣の筒袖はもっと大きかったらしい)、下は「モンペ」をはき、着物のすそを収めていたようです。

 さらにそれ以前、残っている写真で見ると、おそらく戦前ではないかと思われるのですが、その頃の修行僧は、作業のときに着物の上に長作務衣を着ています。つまり、作務衣より長作務衣の方が早くに使われるようになったのです。しかし、どちらにしろ、その「伝統」はどんなにさかのぼっても戦前、せいぜい明治ぐらいまででしょう。もし、作務衣についてより詳しくご存知の方がいらっしゃったら、是非教えてください。私が知る限りは、こんなところです。

 けだし、「伝統」という言葉には注意が必要です。この言葉には人にウムを言わせぬ響きがありますが、実際に調べてみると、作務衣同様、さほど古い話ではなかったり、大したことのない理由で始まったりしているものです。

 最近、「伝統とは、無条件で従うべきもの、議論の対象にするなどとんでもない」というような主張をする人がテレビに出てきていましたが、それは変でしょう。「伝統」と言われるものは、何であれ、所詮、いずれかの時に、誰かが始めたものです。そもそも人間が始めた作り物に、同じ人間が無条件で従わなければならない理由は何もありません。それが必要だったり、好きな人だけ従えばいいのです。「伝統」は、それを守りたい人・守らねばならぬと思う人が守ってきたから、今に伝わったにすぎずません。「伝統それ自体」などというのはただの妄想です。

 「伝統」が尊いのは、いつの時代にもそれが新たな「創造」の糧になるからだと、私は思うのです。


「本当」か、「必要」か

2006年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム

        Photo_9恐山も入梅を前にして、初夏らしい陽気になってきました。境内はいま、イソツツジが満開です。

 さて、恐山で院代をつとめるようになって、私がいささか驚いたのは、どうやら全国にはずいぶん沢山のいわゆる霊能者、民間宗教者のような人がいるらしい、ということです。

この人たちは、たとえば「おがみやさん(拝み屋さん?)」と称されることもあり、都市、農村を問わず各地にいて、それぞれ信者を持っています。様々な悩み事の相談に乗り、それらに「霊的」アドバイスを与えるわけです。

Photo_10 7、8年前に福井で一度、檀家ではない人から、家を新築するので、お経をあげて欲しいと頼まれたことがありました。聞けば、「おがみやさん」に棟上げに縁起のよい日を相談したら、その土地にはまだ浮かばれていない霊がいるから、お坊さんにお経を読んでもらうように言われたというのです。このような、人々の悲喜こもごもの日常生活に密着した悩み事を「おがみやさん」は受け入れているのです。

 彼ら・彼女らと信者の関係は、ちまたで言う新宗教・新興宗教の教団における教祖と信徒の関係とは全然違います。見たところ、ごく普通の身なりと態度の人たちで、信者も「先生」と呼びかけたりしていますが、その様子は我々が信頼する親しい人に接するときと変わりません。 

 明確な教義などはまるで無く、むしろ自分がどこの神様・仏様を信仰し、自分の霊能力の源泉にしているかをアピールしているようです。恐山のお地蔵さまも有力な源泉の一つらしく、定期的に信者を引率して参拝にくるわけです。もちろん一つに限らず、方々の寺院・神社、霊場・霊山に参拝しているグループも多いようです。

 以前、恐山に泊まった一人の「先生」が、翌朝信者に、

「夜中に○○山(有名な霊山)の△△様に会ってきた」

と、言っているのを聞いてびっくりしたことがあります。その○○山は恐山から数百キロ離れたところだったのです。すると言われた方は、ごく自然に

「そりゃあ、大変だったねぇ。△△様、なんて言ってたの?」

「みんなよくお参りするようにって」

 最初から聞かなければ、親戚に会いに行って来たような会話でした。

 これが本当の話かどうかを決めるというのは、おそらくナンセンスでしょう。アンタ、一晩中グーグー寝てたじゃないかと言っても、「体はそうだが、魂は抜け出して飛んでいった」と言われたら、第三者はそれが嘘だと証明することは不可能でしょう。と、同時に、この「先生」が第三者に「飛んで行った」ことを証明することもできません。

 要は、本人と信者にはごく自然な「現実」であり、第三者には荒唐無稽な「おとぎ話」になる、ということです。そのどちらなのか「客観的に」証明し「論理的に」判定することは、いずれも出来ない相談で、すれば誤りになります。

 仏教は、お釈迦さまの時代からこの種の論争には加わらず、否定も肯定もせず、質問されても返答しないという態度をとっていました。なぜなら、ブッダの教えの最大のテーマは、「人間はいかなる存在で、どのように生きていくべきか」ということに極まるからです。それ以外の論争は無意味だと言うのです。

 逆に、その立場から言えば、人がその信仰によって安らかに心豊かに生きられるならば、彼が大切にしている信仰を頭から否定することも、やはり誤りでしょう。仏教が一貫して宗教的争いを回避しつつ、その土地その地域に根付いている信仰と、時に融合し葛藤しながら共存してきたのは、こうした考え方があるのだと思います。

 恐山にいると、日本人の素朴な信仰心と仏教の結びつきの一つの典型を見る気がします。それを仏教のあるべき姿だと無条件に肯定することも、間違っていると一刀両断にすることも、やはり無意味なことでしょう。大切なのは、何が正しい仏教かということではなく、自分にとって必要な仏教は何なのかという問いなのです。