恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

ちょっと無理かも。

2020年06月30日 | 日記
 ウイルス禍が長引くにつれて、私のところにまで今どきの話が届くようになりました。つまり、面会や坐禅指導や講義などをオンラインでやったらどうだという提案というか、注文です。

 そこで、とりあえずの考えをお示ししたいと思います。

 私は、ただちにそれらの活動をオンラインで行う計画はありません。理由は次の通りです。
 
 まず、面会について。2度目3度目なら別かもしれませんが、どんな人物か全くわからないまま初めて会う場合、目の前の人物と液晶画面の画像では、その情報量の差は歴然です。特にこちらの言葉に対する反応を読むとき、単に首から上の態度だけではなく、全身の表情が有力な手掛かりです。

 私が初対面で行おうと心がけているのは、相手の問題を明らかにすることで、それが言いにくいことであればあるほど、対話の場の共有は、言外の意味を読むとき、決定的に重要です。

 したがって、特に初対面時には、オンラインは私には馴染みません。

 また、2度目3度目の場合にしても、交通費と移動時間というコストをかけてでも会って話そうというのでなければ、所詮大したことではないでしょう。どうしても必要なことは、どうしてでも手配するものです。

 坐禅指導は、主としてテクニカルな問題です。

 坐相(坐禅するときの姿勢・姿)に限らず、ものの形とは要するに空間的な差異関係のことです。それを十分に把握するには、できるだけ近い空間関係の中に身を入れる必要があるのです。

 坐禅指導の土台中の土台は坐禅をする身体を作ることです。これは画像を見ているだけでは、どうしようもなく無理です。坐相を見る視点の移動さえ十分にできないようでは、余計な力がどこにどの程度入っているのか、定かにわかりません。

 それと、これは私の実感で、どの程度同じ感覚を持つ人がいるのかわかりませんが、坐禅にはある程度の広さが必要な気がします。これも特に初心者を指導する場合、6畳8畳くらいの部屋で一人を相手にするより、大広間のようなある程度の広さのところに複数で行う方が、坐禅の深まりが早く、滑らかに来るような気がします。

 さて、講義ですが、実は私は、この秋から『正法眼蔵』の講義を始めるつもりでした(場所は未定)。ところが、このウイルス禍です。今後の状況が見通せません。だから、オンラインでどうだと言うのでしょうが、還暦の私は、あの七面倒な本の講義を、聞き手の反応を直接確かめられない方法で始める度胸がありません。

 現在、出身の修行道場でしているワークショップ的講義が、それなりのテンションでできるのは、聞き手もそれなりの関心と興味で聞いているのかどうかが、ダイレクトに伝わるからです。それがなくて、自分の好き勝手にしゃべるだけの自信(あるいは自惚れ)は、私にはありません。

 話と文章は、面白いか、役に立つのかどうかが全てです。そう思うと、これにも話し手と聞き手の場の共有が必要な気が、私はするのです。

 古い奴だとお思いでしょうが、いましばらくオンラインは保留と致します。あしからず。

行為主義的「空」論

2020年06月20日 | 日記
 常に同一でそれ自体で存在するもの、それをインド古語では「アートマン(我)」と言います。今風に言うなら「実体」です。仏教は、この実体(我)について、「一切のものは実体ではない(非我)」、または「一切のものに実体は無い(無我)」と言います。

 そして、実体ではない、あるいは実体は無いままに、ものが存在している事態を「空」と言います。これは、上座部系仏教と大乗仏教に共通する最も基本的で、ユニークなアイデアの一つです。
 
 問題は、この「空」の解釈です。代表的な考え方は2つです。一つは「要素主義」、もう一つは「相互主義」です。

「要素主義」は、存在するものを要素に分解して、その組み合わせでものの存在を説明する考え方です。

 たとえば、我々の肉体はそれ自体として存在するものではなく、膨大な細胞の寄せ集めであり、その細胞は分子の、分子は原子の、原子は・・・・と説明していくわけです。

 しかし、このナイーブなアイデアは、少なくとも最終の「要素」は「実体である」と言って打ち止めにしないかぎり、成り立ちません。

 だとすると、これは「一切は実体ではない、一切には実体は無い」というテーゼに背反します。

「相互主義」とは、「ある存在Aは別の存在Bに依存して存在し、そのBはAに依存して存在する」と考える「空」論です。「それ自体として存在しない」ということを、「別のものに依存する」という理屈で説明します。

 このとき、「依存するもの」に「依存されるもの」が先行して、それ自体で存在することを否定するために、依存をすべて相互依存と考えることによって、あらゆる「実体」の存在を拒否するわけです。

 ところが、もしAとBが、どちらかが先行してそれ自体として存在するのではなく、相互依存のまま存在するというなら、AとBが相互依存したまま、それ自体と出現してきたのだと考えないかぎり、存在しようがありません。つまり、相互依存関係それ自体が「実体」化してしまいます。

 これらを避けて、私が考えるとすれば、それは「行為が存在を生成する」という「空」論です。

 釈尊は「行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる」と言い、「人間のうちで、牧牛によって生活する人があれば、かれは農夫であって、バラモンではないと知れ」と言っています。

 これを敷衍して言えば、机は机として使われることで机になり、それを使う人は、使用している間は、「机を使う人」として存在する以外、存在のしようがないということになります。「使う」行為が「机」と「人」を生成するわけです。

「実体」という概念の駆逐は、具体的な行為によって行う以外ないだろう、というのが私の一貫したアイデアです。

コロナ後のお寺

2020年06月10日 | 日記
「今度の疫病禍は、寺院にも影響は大きいだろうな?」

「大きい。おそらく、どこの寺でも葬式は参列者が少なく、規模は縮小だろう。法事はキャンセルや延期が続いているはずだ」

「じゃ、経済的にも大打撃だな」

「その辺は、もう他の経済活動も同じだろ。ぼくはむしろ、この打撃の意味を考えている」

「というのは?」

「『新しい生活様式』という言葉が出てきたろう。あれさ」

「それがどうしたんだ?」

「たとえば東日本大震災は、確かに未曽有の大災害だったし、多くの被災者の人生を大きく変えてしまっただろう。その苦難はまだ続いている」

「そのとおりだな」

「だが、直接の被災者でない人々にとっては、必ずしもそうではない。しばらくの間不自由は続いたが、結局日常生活はおおむね元に戻り、変わらず続いたな。そうでなかったら、『復興五輪』なんて能天気なことを臆面もなく言いだせなかったろう」

「ところが、今度の疫病禍は違う。日本社会と日本人のシステムと慣習を突然一変させてしまった」

「具体的に言うと?」

「『ソーシャルディスタンス』ってヤツさ。従来のシステムや習慣には、それらが要請し規定する人間関係の心理的・物理的距離がある。それを一変させてしまった。ということは、システムと習慣が激変する。見やすい道理だ」

「伝統教団の行う死者儀礼(葬式・法事など)は、信仰の問題ではあるが、むしろ習慣や慣例、あるいは習俗として伝承されてきた側面が強い。今回の疫病が許容する人間関係の距離感では、葬式規模は人数も内容も小さくならざるを得ない」

「それは、何も疫病の影響ばかりではなく、以前から人口減や高齢化の結果として論じられてきたじゃないか」

「そうだ。だから、疫病禍が最近の変化を一気に加速させたのだと言うほうがよいかもしれない。ただ、今回は規模だけの問題ではない。人の意識を変えた。人口減や高齢化の場合は、その結果として、やむなく、あるいは仕方なく、儀礼を縮小する、という意識になるのだろう。少なくとも建前は。しかし、今回は違う。感染リスクを回避するには、当然縮小すべきだ、となる」

「すると、君はこの傾向はコロナ後も残って、新しいスタンダードになると思うのか」

「縮小すべきだ、とまで思わなくても、縮小してもいいという意識は残るだろうな」

「その可能性は大きいかもしれない」

「これは一見、伝統的な死者儀礼にとってマイナスの影響だろうが、プラスと言える側面もある」

「何だ、それは?」

「疫病で高名なコメディアンが亡くなったよな」

「あれでみんな疫病の怖さを知ったようなもんだな」

「そう。だが、そればかりではない。彼の親族がその死に立ち会えず、遺体に寄り添うことも出来ず、哀惜する時間もなく、いきなり遺骨にされて戻されるという一連の成り行きを目の当たりにして、われわれはかなり大きな衝撃を受けたはずだ」

「残酷だという感想が、あちこちから聞こえたな」

「そう。つまり、大切な人の死別には、それなりのプロセス、すなわち『弔いの様式』が不可欠だと、実感する人が多かったのではないか」

「ということは、今まで通り、葬式法事は大事だと言いたいんだな」

「それだけだったら、こんな話を長々するわけないだろ。違う。規模の縮小が新しいスタンダードになるとして、その一方で『弔いの様式』も重要だと再認識されれば、そこに『新しい弔いの様式』が要請されるだろう」

「で、そこで問題なのは?」

「我々にとっては、その『新しい弔いの様式』に僧侶が必要とされるかどうかだ。コロナ以後は、もはや僧侶の存在は不可欠ではない。それが堂々と意識されるだろう。今後も死者儀礼に関わりたいと思うなら、僧侶はその弔いに必要とされるようにならなければならない」

「つまり、従来の儀礼が慣習や常識で通用するなら、そこに僧侶もセットで必要とされるが、そうでなければ、僧侶の参加も当たり前ではないことになる。それこそ弔いと宗教を切り離して考えることも一般化するかもしれない」

「そうだ。だからこそ、死者がまだ生きている間に、彼や彼の親族とどういう関係だったのか、彼らに信頼を得るだけの品格と資質が僧侶の方にあるのかが、重要になるのだ」

「つまり、儀礼を執行する以前の話になるんだな」

「そのとおり。今後はますます、そしてさらにはっきり、僧侶としての在り様が問われる。住職と檀家ではなく、僧侶と信者という関係性のなかで、『新しい弔いの様式』は形成される。つまりは、日ごろ僧侶が何を語り、どう振る舞うかによって、弔いに参加できるかが決まるようになるだろう」

「それは結局どういうことだ」

「かねての想定より早く、僧侶の淘汰が始まるということさ」

「寺院ではなく?」

「違う。次世代の伝統仏教教団の核心的問題は、建物ではなく、人だ。儀礼ではなく、言葉と行いだ」

「いや、考えてみれば、当たり前のことだな」

「そうだ。ただ、それを身に染みて考えるには、タイミングがあるというわけだ」