恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

弔うということ

2011年04月30日 | インポート

 人が死んで物理的に消滅したとしても、その人をめぐる人間関係とその枠組みが一挙に消滅するわけではありません。関係と枠組みは、記憶とともに残存し、生きている者に具体的な影響を与え続けます。

 ということはつまり、遺された者は、物理的に消滅した存在を、残っている関係の中に、一定期間(関係の残存期間)、位置付け直さなければばりません。つまり、「死者」という存在として、再構成しなければならないのです。それによって、関係性をもう一度安定させる必要があるわけです。

 私は、このことが弔いという行為のもっとも重要な意味だと思います。

 単なる「死体」と「遺体」の違いは、まさにここです。死によって、すべての社会的な関係性を喪失して、一度ただの「物体」になった存在を、「誰かの遺した」体として人格を呼び戻し、社会的に位置づけ直したものが「遺体」なのです。弔いの最初の仕事は、まさに「死体」を「遺体」にすることでしょう。

 とすると、関係性の安定を「安心」と言い換えられるとすれば、我々は人の死に臨んで、十分に悲しむ必要と同時に、心から安心する必要があるでしょう。形式は様々であっても、弔いとは、この生者の喪失という悲しみから死者の受容という安心にいたるまでの、決して短くない過程なのだと思います。

 その意味で、昨今の弔われることのない「無縁死」「孤独死」の増加は、残存するような人間関係が、もはや生前に失われてしまい、人間が生きているうちから「物体」化し、そう扱われている証拠だと思います。

追記:次回の講義「仏教・私流」は、5月20日(金)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。


あの時の話

2011年04月20日 | インポート

「あなたは、こんな文章も書いていたんですねえ」

 最近、私の本の読者だという人が、私が永平寺で修行生活をしていたころに書いた文章のコピーを送ってくれました。

 それは、当時連載を持っていた『RONZA』(朝日新聞社)の原発特集(1997年2月号)に求められた記事で、私に書いた記憶はあったものの、中身はほとんど忘れていました。

 いま読んでみると、いかにも素人臭い、詰めの甘い代物ですが、それでも、この問題に関して今の私が考えていることの趣旨は、すでに出ています。しかも、ちょっと面白い書き方なので、恐れ入りますが、以下に転載させていただきます。

なお、これにて当ブログにおける大震災に関する言及は、ひとまず終ります。ただ、今後、二、三の雑誌や書籍には、震災関連の発言が掲載される予定です。

         

文殊菩薩が泣いている

「もんじゅ」暴走

「もんじゅ」挫折

「もんじゅ」全面見直しへ

 敦賀半島にある高速増殖炉「もんじゅ」が1995年12月、ナトリウム漏れ事故を起こした直後、こんな見出しが新聞紙面に躍った。それを読んで、私の後輩の修行僧が叫んだ。

「これじゃ、名誉毀損ですよう!」

 彼は朝日新聞の「かたえくぼ」に投書したそうである。

「わたしのせいじゃない!---文殊菩薩」

 遺憾ながらこれは採用されなかったようで、彼は憤懣やるかたない様子であったが。

 実は何を隠そう、わが宗(曹洞宗)の生命線たる坐禅堂、その本尊は文殊様である。本尊に暴走されたり挫折されては、たまったものではない。そういえば、それからしばらくして、仏教関係者が共同で、この命名に関して抗議の声明らしきものを出していた。

「もんじゅ」とコンビの「ふげん」もまた新型転換炉という原発だ。この命名の由来である普賢菩薩は、智慧の文殊様に対して、仏の慈悲の極みを象徴する。その慈悲の極みが、まかり間違って放射能漏れということにでもなったら、普賢様も立つ瀬がない。

「もんじゅ」も「ふげん」も、私の暮らす福井県にある。あわせて15基の原発が林立する「原発銀座」の真ん中で、私は連日坐禅を組んでいる。

 おそらく名付け親には、深い思いがあったのだろう。ヒロシマ・ナガサキがあったにもかかわらず、いや、あったがゆえに、原子力の巨大なエネルギーを「平和利用」する技術は、なんとしても確立されなければならなかった。その願いが智慧の「もんじゅ」、慈悲の「ふげん」に託されたのだ。

 こういう気持ちはわかるのだが、お坊さんである私は、この名前のせいで往生することもある。

 95年の夏、もう長いこと坐禅をやっているというアメリカ人の女性が道場にやってきた。非常に熱心な人で、仏教や禅の知識もそれなりに持ち、お互いの話ははずんだが、その途中で急に、

「それにしてもね、どうして原発にボディーサットバ(菩薩)の名前がついているの?」

 と、質問された時には弱った。あろうことか、彼女はそのあと続けて、自分は反核・環境保護NGOのメンバーで、原爆投下50周年の集会に来日した、言ったのである。

鉄人28号は脱原発を果たした

 ところで、私は1958年の生まれだ。

 この世代は最初の本格的なテレビっ子世代であり、みんな「鉄腕アトム」に代表されるアニメの洗礼を受けている。が、私はこのアトムが嫌いであった。

 アトムはロボットである。機械の塊である。そのロボットが、

「心やさし ラララ 科学の子」

 は、ないだろう。「科学の子」はともかく。

 そこへいくと、同じ時期、アトムと人気を分けていた「鉄人28号」は健全であった。主題歌一番にいわく、

「あるときは正義の味方 あるときは悪魔の手先 いいもわるいも リモコンしだい」

 機械と技術の本質が明確に述べられていて、実にすがすがしい。子どもの私が憧れていたのは、超人間的で圧倒的な力としてのロボットであったから、人間に媚びているようなアトムは好かなかったのである。

「鉄人28号」がテレビで放映されたのは、63~65年。この鉄人が当時の設定では、原子力で動くことになっていた。ところが、80年、リメークされて再登場した鉄人は、原子力ではなくて、太陽エネルギーを動力とするロボットになってしまっていたのである。スリーマイル島原発事故の、ちょうど翌年にあたる。私の子ども心を興奮させた主題歌は跡形も無く、「太陽の使者 鉄人28号」という題の歌に変わっていた。私はその時、ただの今昔の感ではない思いがしたものだ。

「原発」について考えるとき、私の頭にまず思い浮かぶのは、この「文殊の智慧」と「鉄人」である。

 仏教では、文殊菩薩が象徴する智慧を般若という。般若中道の教え、ということもある。

 四書五経のなかにも「中庸」という書物があるが、中道にしても中庸にしても、足して二で割るがごとき、折衷的アイデアをいうわけではない。これはむしろ、最も妥当適当なところに的中するということである。

 特に仏教の場合は「縁起」の思想がバックにあるから、話は折半・折衷で終わるほど単純ではない。大切なのは、あるものの存在がさまざまな関係のなかで条件付けられたものである、という考え方である。物事が無条件、無前提で善であったり、悪であったりする、という見方を仏教はとらない。何であれ、いきなりのオール・オア・ナッシング的判断は「邪見」ということになる。しかる後、その縁、つまり物事をめぐるかかわりあいを、当事者相互の間でなるべく妥当適当するように結び上げていこう、というわけである。

 となると、原発も一方的に「正義の味方」「悪魔の手先」と決めつけるわけにはいくまい。どういう条件で「正義の味方」になり、どういう条件下で「悪魔の手先」になるのか議論をつくして、「リモコン」の使い方を決めねばなるまい。たとえ三人寄っても、問題の立て方を誤り、中途半端に議論したのでは、「文殊の智慧」は出ないのである。

 さて、察するところ、原発「正義の味方」論は要するにこう言いたいらしい。

一、原発はとにかく安全である。特に日本の技術は優秀で、設計上、何重にも安全装置が施されているのだから。

一、少資源国日本は、原発を使わないと将来、エネルギーが不足する。

 とにかく安全、という言説を信じる人はもはやいないだろう。そもそも、巨大で複雑な装置は単純なそれより事故を起こしやすいだろうことは、素人にもわかる。

 だったら問題は、どの程度のリスクなら背負うのか、という議論であろう。100年に1度の「チェルノブイリ」なら我慢するのか、30年に1度の「もんじゅ」ならよしとするのか。よしとするにしても、たとえば関東大震災や阪神大震災は100年に一度程度だから我慢しましょうと、本気で言える人がいるのか。

原発の功徳はもたらされたのか

 次の問題は何のためのリスクか、ということである。「正義の味方」の「正義」はエネルギーである。つまり、われわれ日本人がこれまで同様の、あるいはもっと「豊かで便利な暮らし」を続けるには、原発にエネルギーを頼らざるを得ない、と言うのである。

 そしてそういう時によく見せられるのが、電力供給源の割合をグラフにしたもので、総発電量の3割以上がすでに原発で占められている、というような話を聞かされる。ところが、ならばその割合を下げるように、この先、国力を傾注して努力したらどうなるのか、というようなソノ筋の機関からの見通しやプランは、寡聞にして知らない。素朴に考えると、そういう対案の話もあってしかるべきだろう。エネルギー問題の答えは原発しかないというのは、何が根拠なのか。

 だが、それ以前に必要なのは、「豊かで便利な暮らし」をわれわれはこの先も未来永劫追及するのか、すべきなのか、という議論であろう。生産と消費と効率を前提とするライフスタイルの是非を、この原発のような具体的な問題を期して、ハッキリさせていくべきである。

 ものには限度というものがある。資源を提供する地球にも限度があるのは当然だろう。その限度を知ることが、中道ということの実践的な意味のひとつである。「少欲知足」とはそれだ。そろそろ限度を考える頃合だと、多くの人が考え始めていると私は思う。ならば、そろそろ、経済生活の重心を生産・消費・効率から保存・分配・公平さへと、もう少しずらしてみようという主張が出てきてよいはずである。そのとき、原発の占める位置がどこにあるのか、ないのか、徹底的に問われるべきだろう。

 他方「悪魔の手先」論は、その安全性や廃棄物の問題について、深い考察でとらえ、原発の「悪魔性」を心配している。

「反原発とはしょせん、『おらが町おらが村』に原発が来るのはイヤだという『地域エゴ』なのだ」という非難が、「正義の味方」派によって今でもしばしば語られる。が、私の仄聞するところ、現在、とりわけチェルノブイリ以降の反原発運動は、原発の立つ場所の問題ではなく、原発自体の是非が焦点になっている。そうなると議論は当然、「正義の味方」の錦の御旗、エネルギー問題全体を対象とせざるを得ず、必然的に、将来のライフスタイルまで射程に入ってくる。実際、昨今の「悪魔の手先」派の議論はそこまで届いてきていると私には思える。

「正義の味方」派は、われわれの今後のライフスタイルという議論の土俵にのって、正々堂々、真っ向から「悪魔の手先」派と勝負すべきだろう。いま必要なのは、そういう見えやすい、オープンな論争だと思う。だから、議論には具体的な材料と提案が必要なのだ。あるいは、そういう議論を挑発し刺激するような主張がなければならない。この意味で「東京に原発を!」とか「原発を1年止めてみよう」というのは、真剣に検討すべき、意味ある提案だと私は思っている。

 もうひとつ、私がぜひ知りたいのは、原発が建設された町や村の人が、いま本音でどう思っているのか、ということだ。原発のおかげで、経済はうるおい道路が通り、国際会館・芸術ホールが立ち並び、福祉も推進され雇用も増え、老人は暮らしやすく若者も地元を出て行かず、活気にあふれた立派な町になりました、というなら、原発もおおいに功徳があったわけだ。

 だが、それにしては、「原発の町〇〇」とか「郷土のほこり原子力」とか、「春の原発フェスタ」「〇〇村原発音頭」とかいう観光キャンペーンや宣伝文句を私は聞いたことがない。

 いま総決算してみて正直なところ、原発周辺住民は当初予想していたメリットがそれなりに得られたのか。町はよくなり、人々は幸せになったのか。もう当事者がそれを自前の言葉で語るべき時期だろうと、私は思う。

 原発が必要なのはエネルギーが必要だからで、エネルギーが必要なのは「豊かで便利な暮らし」のためだという言い方は、まだ大事なことを言い落としている。

 それは現在、日本が経済力以外に国際社会で通用するものを何も持たない、という不安である。これが失われたら国の「名誉ある地位」も失われるという恐怖である。私たちのなかには漠然とそれがあるのではないか。

 今は金持ちだからほかの国も一目置いてくれる。が、もし稼ぎがなくなれば、たちまちのうちに孤立する。だから、何が何でも稼ぎの元、エネルギーだけは確保せねばならぬ ーーー 本当の不幸は、この強迫観念のような思い込みからわれわれが自由になれないことにあるのだろう。

本当に必要かと菩薩は問う 

 だが、もはや経済成長とその維持だけを「国是」とするのでは、よその国とのつきあいも日々の暮らしもおさまらないことはだれが見ても明白だ。原発をめぐる昨今の問題をはじめ、この国のあらゆる側面でのシステムの破綻がいい証拠だ。

 だったらどうする? 今度の選挙は、そこを問うべきだったのに、有権者を含む政治が衰弱の極みにあることを示した。深刻な問題はここにある。

 国はただ金があればいいわけではない、と自信を持って言える時は、暮らしもただ豊かで便利であればいいってもんじゃない、と啖呵が切れる時でもある。今こそそれを言うべきで、この覚悟があって議論される原発問題こそ、リアルで重要なはずなのに、議論はあいかわらず金と豊かさのまわりを空転している。

 かくして、この先自分たちの国と暮らしをどうしたいのかという根本を抜きにしたまま、エネルギーが足りるの足りないのという議論は、行き先を決めないまま旅費の交渉をしているような間の抜けた話、にしかならない。

 最後に、私自身の原発についての考えを言っておくのが筋だろう。

 先述の「鉄人28号」をリモコンで操縦していたのは、「正太郎くん」という、ネクタイを締めて車を乗り回す、得体の知れない子どもである。これが、私には、はなはだしく不満だった。自分より少し年上らしいとはいえ、あからさまな子どもが巨大ロボットを操縦しているのである。「心やさしい」アトム以上にうそくさい。常識ならば、しかるべき大人が「君には危ないからね」と言って、正太郎くんからリモコンを取り上げるべきところだろう。

 思うに、原発を含む核エネルギーは人間にとって、この正太郎くんにとっての鉄人のごとく、その必要を逸脱した、ある種法外な存在になっているのではないか。

 いや、人間の「英知」は必ず核をコントロールできる、と言う人もいるだろう。しかし、欲望に根を持つ知恵は常にもろい。本当の「英知」はそれを自覚することなのだ。深い節度と自制から呼び起こされる知恵こそが、今のわれわれには必要だ。

 だとしたら、般若中道の智慧を象徴する文殊様は、この道具は持たないにしくはない、と考えるだろう。どんなに便利だとしても、持たずにすむアイデアを出したほうがよい、とわれわれを諭すだろう。それこそ「もんじゅ」の智慧というものではないか。(了)

                       

 あの時すでにこういう文章を公にしていながら、その後この問題を等閑に伏したまま、今まできてしまったことは、まことに恥ずかしく、悔いがのこる次第です。


千の手、千の眼

2011年04月10日 | インポート

 思いつき禅問答シリーズ、そろそろここでもう一回。

 仲良く修行に励む弟弟子が兄弟子にこう質問しました。

「千の手と眼を持つ慈悲深い観音様(いわゆる千手観音)は、あんなに沢山の手と眼で、どうしようというのでしょうね?」

「それはね、人が夜の真っ暗闇の中で、頭から外れてしまった枕を、寝ながら後ろ手であちこち探って捜すようなものさ」

「あ、わかった!」

「どうわかったね?」

「体中が手と眼だ、ということです」

「うん、言うべきことはちゃんと言っているが、言い切っていないな。まあ八分目というところだ」

「では、あなたはどう言うのですか?」

「頭の先から足の先まで、手と眼だ」

 この問答、私はこう思います。

「闇の中、後ろ手で枕を捜す」とは、つまり当てがない行為を意味しています。それはすなわち、観音様の慈悲とは、あらかじめ超能力(それが千の手と眼です)を備えていて、救うべき人間とその苦悩を熟知した上で、片っ端から救済していく、ということではない、と言っているのです。

 実際、救う対象を熟知している人が、それに十分な救う能力を駆使しているだけなら、要するにただの仕事で、慈悲行と言う必要はありません。

 それが慈悲行と言えるのは、人それぞれの苦しみを、ああだろうかこうだろうかと、想像力を必死で働かせ、多くの失敗を重ねながら、決してあきらめずに、苦悩する他者に関わり続けようとするからなのです。その想像力を千の眼といい、その努力を千の手というのです。

 あらゆる人の苦を一発必中で見抜き、そこにピンポイントで最善の手段を下すことを「千手千眼」というのではありません。一人の苦しみに対する千の努力のうち、九百九十九が無駄になろうと、決してあきらめない意志と行為こそ、観音の慈悲なのです。

「体中が手と眼だ」とは、観音様があらかじめそれ自体で存在して、千手千眼的超能力を持っているのではなく、人の苦に対する必死の想像力と決してあきらめない関わりの努力を、他者に向け続ける存在の仕方こそを、我々は「観音様」と呼ぶのだ、という意味です。つまり、行為が存在を規定する、というわけです。

 兄弟子が「80パーセントの出来だ」と言ったのは、弟弟子のように「体中」と言ってしまうと、行為以前に、体それ自体で存在しうる何ものかが想定される言い方に聞こえるからです。

 縁起の考え方は、そうした存在を受け容れません。だから、あえて趣旨を明確にするため、存在まるごと行為だと、兄弟子は言い直したのです。

 本当に蛇足ですが、私は自分のこの解釈が好きです。