恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

番外:面会再開のお知らせ。

2024年05月14日 | 面会について
コロナ禍の最中に停止していた、希望者との面会を再開します。ご希望の方は、下記の要領にてお申込み下さい。


一、面会希望の封書を送っていただく。

「面会希望」の一文(それ以外の文章は不要です)、お名前、住所、連絡先電話番号(携帯電話のものが有難いです)を明記したものを、当面福井の霊泉寺に、必ず封書でお送りください。

 宛先: 〒910-2165 福井県福井市東郷二ケ町27-4 霊泉寺

 注意! お名前・住所・連絡先電話番号の3つが揃わない場合、当方から返信・返答をしません。

一、遅くとも一か月以内に、当方から記載された電話番号に連絡申し上げる。

 このとき、日時と面会場所をご相談の上で決めます。
  
 なお、面会場所は、恐山、東京都内、福井市霊泉寺のいずれかになります。このうち、東京と霊泉寺での面会は、極めて日時が限られ、また実際の面会まで長くお待ちいただく可能性があります。あしからずご了承下さい。

一、合意の日時と場所で面会。

 なお、この手続き以外の面会・面談、メールや電話による相談には一切応じません。また、突然お送り下さる手紙やメールなど(寺院業務やその他仕事上のものは除く)にも一切お返事しませんので、あしからずご了解ください。

 この記事は本ブログのカテゴリーに残しますので、よろしくお願いいたします。


解釈とは?

2024年05月01日 | 日記
『正法眼蔵』の解釈本を出してから、そろそろ五か月。にもかかわらず、ほとんど反響が無くてがっかりしていました。つたないながら、気合を入れて書いたつもりなのに。
 
 褒めてくれとは言わない、批判で構わない。いや、むしろ批判が知りたい。そう思って、普段は自分の本の書評レビューなどほとんど見ないのに、これだけは毎日、その種のサイトをチェックしていたのですが、出てこない。

 ・・・・・と、嘆いていたら、出ました。しかも、自分の解釈意図を説明するのに絶好のレビューで、ここに紹介させていただきます。が、その前にまず、私の解釈意図を簡単に申し述べます。

あの解釈本の冒頭で、私は、自分がこの本を読むに際して採用する読解方法を、あらかじめ提示しました。

 なぜなら、あらゆる本において、「著者自身の考え」は本人に直接訊いてみる以外にわからないからです。読者はあくまで本を読んでいるにすぎず、その内容は読者の頭の中に出来上がるにすぎません。その内容に「著者自身の考え」そのものが無条件かつ自動的に出現するはずが無いのです。

 である以上、自分の読み方を予め示して、読者が原本を読む時の参考に供する、というスタンスの方が、解釈本としてまともなスタイルに思えたわけです。

 したがって、この種の解釈本の中で得てして、「道元禅師は、〇〇と考えたのである」などと著者が書いているのを見ると、鎌倉時代の他人の考えが、どうして20世紀生まれの著者にそんなにクリアにわかるのか、不思議でたまりませんでした。

 と、申し上げた上で、私が読んだレビューをご紹介します。

「これを道元の『正法眼蔵』だとするのは大きな問題である。著者が過去に刊行している仏教論は、著者自身の論理である以上は何も問題ない。しかしこれは一応、道元の『正法眼蔵』という原作の解説、現代語訳だとしている以上、当然、原作に忠実であるべきだが、明らかにこれはあくまでも著者自身の個人的な道元論であり、正法眼蔵論にすぎない。道元はその逸話から、非常に神経質な性格だったことが知られている。その道元がもし、南直哉氏が『正法眼蔵 全 新講』と題して、このような内容のものを道元自身の原作として出版していることを知ったら、どんな反応を示しただろうか。」

 ここでレビュー者が拙著を「著者自身の個人的な道元論」とおっしゃるのは、誠にそのとおりです。

 ですが、解釈本が「当然、原作に忠実であるべきだ」としても、その「忠実さ」は誰がどのような基準で判断するのでしょうか。ある解釈が「原作に忠実である」ということは、「事実」ではなくて、読み手がそう「考え」「感じ」ているにすぎません。ならば「忠実である」と考え・判断し・感じる根拠は何か。これを説明しなければなりません。もっといえば、レビュー者が「忠実である」とする解釈を、自分でして見せるか、「忠実である」解釈本を推薦するべきでしょう。

 最後に「どんな反応を示しただろうか」と言われても、誰にも分らないとしか、言いようがありますまい。ただ、私は、案外褒めてくれたのではないかと思います。なぜなら、経典等の原本を自分独自の手法で読み換えることは、道元禅師自らが『眼蔵』の中で何度もしていることだからです。その点では、私は禅師に「忠実」です。