恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

信頼の不況

2008年11月29日 | インポート

 アメリカ発の金融恐慌以来、日本でも急速に経済状況が悪化しているという報道が続いています。様々にご苦労されている方が増えているのでしょうが、中でも最近、私が「まずいなあ」という感を深くしたのは、就職が内定した学生の方が、少なからずその内定を取り消されているということです。

 私が何より胸を衝かれたのは、内定を取り消された学生さんがインタビューに答えて、本当に働きたいと思っていた会社だったと言ったあと、

「怒りを感じるというより、悲しいです」

 と漏らしたときです。

 一方的に相手が悪いと思えば、人は怒るでしょう。しかし、そうでなければ、相手にもやむおえない事情があっただろうと少しでも思うなら、自分が負ったダメージをすべて相手のせいにはできません。となれば、そういう自分を悲しむしかなくなります。

 確かに、内定を取り消した会社も、そうしたかったわけではありますまい。どうしようもない選択だったかもしれません。ですが、この行為は、一人の学生の悲運にとどまらず、一会社の責任を超えて、社会的に大きなダメージを与えることにつながるのではないでしょうか。つまり、若者の社会に対する信頼、彼が今まさに参加しようとしている世界に対する信頼を根本的に破壊してしまうように思うのです。

 これは経済的な不況とは次元が違います。不況を理由にこういうことが頻繁に行われ、それが当たり前とは言わぬまでも、社会的に許容される手段として蔓延するなら、これは人間の人間に対する信頼そのものを不況にしかねません。それは共同体内存在としての人間のあり方を不可能にするでしょう。

 市場経済が単なる経済体制であることを超え、一種の社会秩序にまで成り上がれば、要は利害・損得が人間関係を仕切ることになります。となれば、事は損得ですから、最終的に人々を分断し、得するように振舞えた人が「正しく」、より大きく利益を得た人が「偉い」人になるでしょう。そこでは、信頼はせいぜい取引上の道具に過ぎず、損得に従属することに甘んじて、場合によっては邪魔にさえなるでしょう。

 しかし、共同体とはそのような秩序において成立するものではありません。共同体とは、単なる集団のことではないのです。自己が原理的に他者を必要とする人間の存在様式そのものです。損得以前の問題であり、人間は共同体においてしか人間でありえず、自己は自己になりえないのです。

 このとき、共同体を維持し続けるためには、人間相互の信頼が不可欠かつ根源的に要請されます。ならば、たとえ大きな利益をあげなくても、めざましい業績を示せなくても、この社会における信頼の強化や修復に努力する人々の価値を、我々は深く認めなければならないでしょう。

 それは何もむずかしいことではありません。まずは、目立たないけれど共同体に必要な仕事をまじめにコツコツ積み上げる努力、面倒が起こりがちな人と人の間柄を地道に取り持つ労、これらを担う人々を大切な社会的財産として評価し、我々が彼らを守る意志と行動を示すことです。そして私たちは、言われるまでもない当たり前の話を、あえてもう一度確認すべきでしょう。

「金をもうけるのはもちろん悪いことではない。しかし、それは人間の価値を決めない」

  そして、僭越ながら、私が仏教者として付け加えるなら、こう言いたい。

「人間の価値を決めるのは、他者に対する態度と振舞い方である」


呼びかけられる自己

2008年11月19日 | インポート

 その昔、中国にある和尚がいました。

 彼は毎日自分自身に「主人公」と呼びかけ、自分で「はい」と返事をしてから、「よしよし、しっかり目を覚ましていろよ」「はい」、「これからも人に騙されないようにな」「はい、はい」と言っていました。

 この話は、『無門関』という有名な禅問答集にあるものです。「主人公」という言葉はここでは「真の自己」「本当の自分」くらいの意味にとればよいでしょう。

 従来、この話は往々にして、次のように解釈されてきました。すなわち、呼びかける今の自分のほかに「真の自己」などいない。「真の自己」をことさら区別して、それに執着してはならない。そういう思い計らいなど一切捨て、今ここにいる自分こそまさに「真の自己」だと悟ることこそ、「騙されるな」ということなのだ・・・

 私はこの無邪気な解釈を採用しません。私が考えるのは、自己とはその存在の構造として、対話的であるということです。「主人公」とは、《呼びかけられ・返事をする》ような構造のことなのです。自己が始まるのは、自己ではない誰かの呼びかけに「はい」といったときです。私は、およそ倫理的なるものは、この「はい」に発すると思います。もし、自己が自己自体から始まるなら、およそ人間に倫理はいらないでしょう。

お知らせ。「仏教・私流」は、12月はお休み。次回は2009年1月26日(月)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて行います。


メディアの言葉

2008年11月08日 | インポート

 昨日、NHKのインタビューを受けました。教育テレビの「こころの時代」という番組だそうです。

 インタビュアーはベテランの方で、その世界ではよく知られた人です。以前、ラジオの番組でもお世話になりました。このときの放送は一部で好評だったようで、何度か再放送されました。その縁で、今度はテレビで、ということになったのでしょう。

 すでに閉鎖した宿坊の一室、季節はずれの暖かさを感じる午前10時、スタッフの人たちがあわただしく準備を整え、さあ収録ということになりました。インタビュアーも仏教語を書いたフリップのようなものまで用意してきて、力が入っています。私は彼の筋書きに従って話をすればよいのだろうと思い、気楽に構えていました。

 ところが、始まってみると、どうも様子が変なのです。彼の調子にあわせて喋っていると、何かカタイというか、だんだんむずかしい話になってしまうのです。スタッフにもそれが感じられるらしく、妙な顔をしています。そして、不謹慎な言い方ですが、何より私自身が面白くない。

 そこで私は、途中で方針を変えました。まずい展開になれば相手が適当に口を挟んで調整するだろうと考え、勝手に好きなように喋ることにしたのです。結果、撮影スタッフが「いい感じになりましたよ」という出来になりました。

 前のラジオ番組のときもそうだったのです。大きいテーマだけ出されて、あとは勝手に話したら、心得たインタビュアーがうまく引き回してくれました。ワガママ者で申し訳ないことながら、おそらく私の話言葉は、好きなように喋らせてくれないとパワーが出ないのです。

 とすると、私の言葉は、基本的には、テレビやラジオに合わないでしょう。テレビやラジオは、時間がバッチリ決められていて、何より視聴者に「わかりやすく」話さなければなりません。この二大原則が、語られる言葉にがっちり枠をはめています。

 褒められたことではないかもしれませんが、私は自分が「言わなければならない」「言いたい」「言うと面白い」と思うこと以外、書いたり話したりすることができません。メディアの注文に合わせて適当に話を変える気に、そもそもならないのです。しかも、私は「わかりやすく」語ることに関心がありません。こだわるのは「リアルに」語ることなのです。「わかりやすさ」と「リアルさ」はイコールになるとは限りません。

 したがって、テレビ・ラジオの場合、自分がテーマに共感できて、ある程度の時間をとってもらえる単独インタビューでなければ、話している自分も視聴されている方々も、「面白い」ものには決してならないでしょう。

 今後メディアと付き合っていくとするなら、今回はよい勉強になりました。

 ちなみに、このインタビューは12月7日午前5時から教育テレビで放送されるそうです。興味のおありの方、よろしくお願いします。

 恐縮ながら宣伝を二つ。

 語り下ろし本「なぜこんなに生きにくいのか」(講談社インターナショナル刊)は本日店頭販売になります。

 「アエラ」(朝日新聞社)という雑誌の取材を受けました。これも12月上旬掲載されると思います。

 考えてみれば今年は何かとメディアに縁のあった1年でした。考えていることを読んでいただいたり、聞いていただけるのはありがたいことだと思いますが、非力な自分としては、そろそろ手に余る感じもしています。

 


閉山しました

2008年11月01日 | インポート

 恐山は今年も10月31日、無事閉山しました(境内参拝は11月9日まで。ただし降雪など道路事情悪化の場合は、即日参拝中断)。写真は閉山間近の風景。撮影は例によって恐山僧侶・木村さん。見事でしょう。

Cimg1382  朝、宇曾利湖から立ち昇る水蒸気。時には湖面から2~30メートルくらいの高さに雲になって滞留したりします。

 今年は暖かいのか、磯ツツジが季節はずれの花を咲かせています。Cimg1441 Cimg1448 境内の紅葉はぎりぎり今が見ごろか。

 最後の一枚は夕暮れの宇曾利湖。木村さん会心のワンショットではないでしょうか。

  今年も多くの方々にご参拝いただき、心より感謝申し上げますCimg1436

     追記:次回の講義「仏教・私流」は、11月14日(金)午後6時半から、東京赤坂の豊川稲荷別院にて行います。