ゴータマ・ブッダの語った言葉を、ある程度正確に記録すると見做されているパーリ仏典(初期経典)には、こういう話が出てきます。
往来で強盗と殺人を繰り返していたアングリマーラという大犯罪人が、釈尊に出会って改心し、弟子になります。その後のある日、彼が托鉢に出ると、ひとりの女性が異常妊娠で苦しんでいました。
彼は急いで取って返し、ブッダに報告すると、ブッダはこういう意味のことを彼女に言えと指示します。
「自分は生まれて以来、生き物の命を奪ったことはない。その真実にかけて、あなたとお腹の子供に幸せがあるように」、と。
これを聞いてアングリマーラは言います。
「それじゃあ、嘘を吐くことになりませんか?」
すると、ブッダはこう答えます。
「じゃあ、『生まれて以来』のところを『聖なる生まれに生まれて以来』(つまり、出家してブッダに帰依して以来)と言い換えなさい」
ただちに、アングリマーラは妊婦のもとに戻って、ブッダに言われた通りのことを彼女に言うと、母子ともに安らかな出産を迎えたということです。
この話で私が興味深く思うのは、ブッダがこの場合に嘘をついても構わないと確信していたことです。アングリマーラなんぞを弟子にしておいて、うっかりして「聖なる生まれ」と言うべきところを「生まれて以来」と言ってしまったなどということは、まずありえません。ブッダは、もしアングリマーラに問い返されなければ、そのまま嘘を吐かせたに違いないと思います。まさに「嘘も方便」でしょう。
「嘘も方便」という「方法」が使えるのは、嘘を吐いた(吐かせた)当人以外は誰も非難されず不利益を被らず、なおかつ嘘を吐かれた者に嘘の不利益を圧倒する利益がもたらされる場合でしょう。
逆に言えば、このような場合には、嘘をいくら吐いても構わない、ということになります。これは、「倫理」や「道徳」に確実な根拠を認めて「絶対視」する立場とは違います。
さらにもうとつ、面白いエピソード。
ある者がブッダに、「神はいますか?」と単刀直入に質問すると、ブッダはこんなふうに答えたと言うのです。
①「道理から『神はいる』と私は知る」
②「このことは、智者によって一方的に結論されるべきである」
①が不思議なのは、「神」をも超える「道理」があるのに、その「道理」の説明がないことです。その上で、「いる」とは言わず、「『いる』と知る」という言い方をしています。つまり、「神」の存在は人間の認識に依存するのです。だから、②に「智者」が持ち出されてくるのです。
ところが、この「智者」の正体にも説明がありません。注目すべきは、この②の回答の後、質問者がさらに発した問いです。
「どうして最初からそう言わないのですか?」
すると、ブッダは驚くべき回答をします。
「『神はいる』ということは、世間で声高に同意されているものだからである」
このパーリ文日本語訳が正確で、本当にブッダがこう発言していたとするなら、「神の存在」の根拠は、①でも②でもなく、結局「世間の同意」だ、ということでしょう。
「道理」と「智者」が何であるか説明しない以上、それが何だかわからなくてもよいわけです。ならば、「わからない」ことは根拠になりませんから、残るのは「世間の同意」だけです。
ということは、この言葉から察するに、我々が「自己」という様式で実存する限り、「真理(神)」と「倫理」を欲望し・要請し・前提とせざるを得ないが、無常・無我・縁起の立場においては、「真理」の非真理性を自覚し、「倫理」の倫理外領域を認識した上で、両者を注意深く取り扱うべきだ、と考えられているのでしょう。
往来で強盗と殺人を繰り返していたアングリマーラという大犯罪人が、釈尊に出会って改心し、弟子になります。その後のある日、彼が托鉢に出ると、ひとりの女性が異常妊娠で苦しんでいました。
彼は急いで取って返し、ブッダに報告すると、ブッダはこういう意味のことを彼女に言えと指示します。
「自分は生まれて以来、生き物の命を奪ったことはない。その真実にかけて、あなたとお腹の子供に幸せがあるように」、と。
これを聞いてアングリマーラは言います。
「それじゃあ、嘘を吐くことになりませんか?」
すると、ブッダはこう答えます。
「じゃあ、『生まれて以来』のところを『聖なる生まれに生まれて以来』(つまり、出家してブッダに帰依して以来)と言い換えなさい」
ただちに、アングリマーラは妊婦のもとに戻って、ブッダに言われた通りのことを彼女に言うと、母子ともに安らかな出産を迎えたということです。
この話で私が興味深く思うのは、ブッダがこの場合に嘘をついても構わないと確信していたことです。アングリマーラなんぞを弟子にしておいて、うっかりして「聖なる生まれ」と言うべきところを「生まれて以来」と言ってしまったなどということは、まずありえません。ブッダは、もしアングリマーラに問い返されなければ、そのまま嘘を吐かせたに違いないと思います。まさに「嘘も方便」でしょう。
「嘘も方便」という「方法」が使えるのは、嘘を吐いた(吐かせた)当人以外は誰も非難されず不利益を被らず、なおかつ嘘を吐かれた者に嘘の不利益を圧倒する利益がもたらされる場合でしょう。
逆に言えば、このような場合には、嘘をいくら吐いても構わない、ということになります。これは、「倫理」や「道徳」に確実な根拠を認めて「絶対視」する立場とは違います。
さらにもうとつ、面白いエピソード。
ある者がブッダに、「神はいますか?」と単刀直入に質問すると、ブッダはこんなふうに答えたと言うのです。
①「道理から『神はいる』と私は知る」
②「このことは、智者によって一方的に結論されるべきである」
①が不思議なのは、「神」をも超える「道理」があるのに、その「道理」の説明がないことです。その上で、「いる」とは言わず、「『いる』と知る」という言い方をしています。つまり、「神」の存在は人間の認識に依存するのです。だから、②に「智者」が持ち出されてくるのです。
ところが、この「智者」の正体にも説明がありません。注目すべきは、この②の回答の後、質問者がさらに発した問いです。
「どうして最初からそう言わないのですか?」
すると、ブッダは驚くべき回答をします。
「『神はいる』ということは、世間で声高に同意されているものだからである」
このパーリ文日本語訳が正確で、本当にブッダがこう発言していたとするなら、「神の存在」の根拠は、①でも②でもなく、結局「世間の同意」だ、ということでしょう。
「道理」と「智者」が何であるか説明しない以上、それが何だかわからなくてもよいわけです。ならば、「わからない」ことは根拠になりませんから、残るのは「世間の同意」だけです。
ということは、この言葉から察するに、我々が「自己」という様式で実存する限り、「真理(神)」と「倫理」を欲望し・要請し・前提とせざるを得ないが、無常・無我・縁起の立場においては、「真理」の非真理性を自覚し、「倫理」の倫理外領域を認識した上で、両者を注意深く取り扱うべきだ、と考えられているのでしょう。