恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

僧侶の怒り

2008年03月24日 | インポート

 読者の「考え中」さんから、最近のミャンマーのデモや、チベットの騒乱についてコメントを頂き、そこで「僧侶の怒り」という重い問題の指摘がありました。

 この件については、以前から考えてきたことでもあり、もう少しチベット情勢の見極めがついてから、若干の思いを述べてみようかと考えていたのですが、コメントを頂いたので、現時点での考えを書かせていただきます。

 人間が怒ることができるのは、「自分が正しい」と信じているか、少なくとも「間違っていない」と思っているときでしょう。つまり、その時点で何らかの「信念」がある人しか、怒ることは不可能です。となれば、「信念」こそアイデンティティーの核心たる宗教者が怒りを感じる場合があることは、仕方がないだろうと思います。

 ただし、無常と無我を説く仏教では、「無条件で絶対的に正しいこと」は錯覚だとしか言いようがありません。だとすれば、自分の信念が不当に損なわれたと感じる人間が、自らの正しさを根拠に他者を攻撃したり排除する行為にいたることは、拒絶されなければならないでしょう。

 では、単にある信仰を持っている人間が、その信仰ゆえに迫害されたとき、無抵抗でいることは、信仰者として正しい態度なのでしょうか。

 あるとき、老僧が言いました。

「自分くらいの歳になると、食欲も性欲も、ほとんど無くなったも同然だから、自然に戒律も守れるようになるが、一つだけは、何歳になっても、どうしてもダメだな。世の中に腹が立って仕方がない」

「それは老師が世の中を心配しているからでしょう。怒っていても、正しいことを言っているのだから、いいじゃないですか」

 そう私が言うと、老僧はこう答えました。

「それは違うな。本当に正しいことなら、それは必ず他人にも理解できることのはずだから、静かに説得すべきなんだ。怒るというのは、自分が正しいのは当たり前だと信じ込んで、言葉や力で人を攻撃することだ。それは世間の話になっても、仏様の世界の話にならない」

 ひとの怒りに道理があるときも多々あるでしょう。ですが、道理は道理であるが故に、言葉で説得し理解されるべきものです。これは瞬間の感情を超えなければできません。それを僧侶は求められているのだと思います。

 宗教者は、不当だと信じる圧力や妨害を受けたとき、その不当さを言葉で訴えるべきです。そして、圧力にも妨害にも決して屈せず、服従すべきではありません。つまり、怒りを説得に変え、不当な力に対する抵抗は不服従として示すのが、宗教者としてふさわしいと、私は考えます。これを今回の事件に即して言えば、集会などによる言論での主張や、非暴力によるデモ行進が、宗教者の直接行動の限界だろうということです。

 とすると、現在日本において、十分かどうかは議論が分かれるにしても、信仰の自由は無論のこと、それなりに確保されている言論の自由、集会の自由などは、われわれ宗教者にとっても、大変な社会的財産だということになるでしょう。

 私はいま、ミャンマーやチベットのお坊さんの心情を忖度するとき、同情と共感を禁じえません。そして、ひるがえって、わが身を省みるとき、はたして将来、この自分が日本で同じような立場に立たされたとき、本当に説得と不服従を貫けるか、とても自信があるとは言えません。

 この問題は、他人事で言えることではなく、ここで考えを述べることはできても、それを現実に実行するときがきたら、具体的にどう覚悟を決め、どういう方法をとればいいのか、私もいま「考え中」です。


すごい発想

2008年03月16日 | インポート

 「出家」と「家出」は違う。「出家」は志だが「家出」は逃避だ・・・などという話をしていたら、友人の一人が、「それはそうだろうけど、ぼくの知り合いの離婚経験者が言ってたんだけどね」と前置きして、おもむろにいわく、

「お釈迦さんは世をはかなんで出家したって話になってるけど、ありゃ違うね。あれは女房に追い出されたんだよ。結婚もした、子もできた、父親の王も老いて、跡継ぎの準備もせにゃならん。そういう立場なのに、人生とは何ぞや死とは何ぞやなどと、浮世離れしたことばかりに気をとられて、女房の機嫌もとらず、子育てもせず、親父の手伝いもまともにしないで、万事ウワノソラで毎日を暮らしていたから、結局、愛想を尽かされたのさ。そのショックでコノヤローと思って、厳しい修行に耐えたから、お悟りが開けたのさ」

 うーーーん!!!  お坊さんからは決して出てこないであろう、この発想!!!!

 妙にリアルに聞こえてしまうのはなぜか!?

  恒例のお知らせ。次回「仏教・私流」は、4月8日(火)午後6時半から、東京赤坂の豊川稲荷・東京別院にて行います。


親と子

2008年03月06日 | インポート

 ときどき親子関係をテーマにした講演の話が持ち込まれることがあります。この前も依頼があったのですが、そのときふと思いついたことがあります。

 私は常々、実は親子ほど困難を抱えた関係はないと考えています。このことは、味気ないようですが、単純な理屈にしたほうがハッキリすると思います。

 まず、子は存在として全くの弱者で、選択の余地なく、一方的に親によって産み出されます。ということは、なるほど弱者ではあるものの、自らの存在にはまったく責任を感じる必要はありません。それはつまり、どのような子であろうと、子である限り、親から保護される「権利」があるはずですが、誕生に関して一切責任がない以上、親を保護する「義務」はないことになるでしょう。

 これに対して、親は子に対して絶対的強者で、子の人間としての存在は親が制作したも同然でしょう。しかし、子の誕生に関しては一方的に責任があります。責任があるのだから、どのような子であろうと、子である限り、親に養育の「義務」があるのは当たり前でしょう。

 この原理的な関係は、時間が経過すると変化します。子は次第に強者となり、親は次第に弱者になります。ところが、責任問題は変わりません。だとすると、子が自立できるまで育ったとき、一方的に親を捨てたとしても、理屈の上では、なんら責任は問えないでしょう。

 すると、親子関係の維持・継続と、子による親の保護は、理屈ではなく、「人情」と「利害」の問題にかかってきます。ということは、理屈においては,責任をめぐって「権利」と「義務」が生じ、さらに現実としては、「人情」と「利害」の調整が必要になってくるのですから、これはどうみても政治問題です。

 親子関係が不幸にしてこじれたとき、このことに関する無知ゆえに、つまり、親子関係の極めて深い政治性を無視して、ただ情緒的に、人情の問題として考え・処理しようとするから、行き詰まってしまうことが多いのではないでしょうか。

 というわけで、親子の問題を、当事者間の「愛情」ではなく、第三者まで巻き込んだ「妥協」と「取り引き」で解決するほうが有効な場合がかなりの数あるだろうと、私は考えています。