読者の「考え中」さんから、最近のミャンマーのデモや、チベットの騒乱についてコメントを頂き、そこで「僧侶の怒り」という重い問題の指摘がありました。
この件については、以前から考えてきたことでもあり、もう少しチベット情勢の見極めがついてから、若干の思いを述べてみようかと考えていたのですが、コメントを頂いたので、現時点での考えを書かせていただきます。
人間が怒ることができるのは、「自分が正しい」と信じているか、少なくとも「間違っていない」と思っているときでしょう。つまり、その時点で何らかの「信念」がある人しか、怒ることは不可能です。となれば、「信念」こそアイデンティティーの核心たる宗教者が怒りを感じる場合があることは、仕方がないだろうと思います。
ただし、無常と無我を説く仏教では、「無条件で絶対的に正しいこと」は錯覚だとしか言いようがありません。だとすれば、自分の信念が不当に損なわれたと感じる人間が、自らの正しさを根拠に他者を攻撃したり排除する行為にいたることは、拒絶されなければならないでしょう。
では、単にある信仰を持っている人間が、その信仰ゆえに迫害されたとき、無抵抗でいることは、信仰者として正しい態度なのでしょうか。
あるとき、老僧が言いました。
「自分くらいの歳になると、食欲も性欲も、ほとんど無くなったも同然だから、自然に戒律も守れるようになるが、一つだけは、何歳になっても、どうしてもダメだな。世の中に腹が立って仕方がない」
「それは老師が世の中を心配しているからでしょう。怒っていても、正しいことを言っているのだから、いいじゃないですか」
そう私が言うと、老僧はこう答えました。
「それは違うな。本当に正しいことなら、それは必ず他人にも理解できることのはずだから、静かに説得すべきなんだ。怒るというのは、自分が正しいのは当たり前だと信じ込んで、言葉や力で人を攻撃することだ。それは世間の話になっても、仏様の世界の話にならない」
ひとの怒りに道理があるときも多々あるでしょう。ですが、道理は道理であるが故に、言葉で説得し理解されるべきものです。これは瞬間の感情を超えなければできません。それを僧侶は求められているのだと思います。
宗教者は、不当だと信じる圧力や妨害を受けたとき、その不当さを言葉で訴えるべきです。そして、圧力にも妨害にも決して屈せず、服従すべきではありません。つまり、怒りを説得に変え、不当な力に対する抵抗は不服従として示すのが、宗教者としてふさわしいと、私は考えます。これを今回の事件に即して言えば、集会などによる言論での主張や、非暴力によるデモ行進が、宗教者の直接行動の限界だろうということです。
とすると、現在日本において、十分かどうかは議論が分かれるにしても、信仰の自由は無論のこと、それなりに確保されている言論の自由、集会の自由などは、われわれ宗教者にとっても、大変な社会的財産だということになるでしょう。
私はいま、ミャンマーやチベットのお坊さんの心情を忖度するとき、同情と共感を禁じえません。そして、ひるがえって、わが身を省みるとき、はたして将来、この自分が日本で同じような立場に立たされたとき、本当に説得と不服従を貫けるか、とても自信があるとは言えません。
この問題は、他人事で言えることではなく、ここで考えを述べることはできても、それを現実に実行するときがきたら、具体的にどう覚悟を決め、どういう方法をとればいいのか、私もいま「考え中」です。