恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

組織と場

2020年11月30日 | 日記
 修行道場にまだ在籍していた頃にも一度ありましたし、その後にも何度か勧誘されたことに、私を「囲む会」というか、「南さんの話を聞く集まり」を作ろう、というものがありました。

 そういうお誘いをいただけるのはありたいことだとは思ったのですが、私はそのたびに即座に断りました。それは次のような理由からです。

 気心の知れているような少人数で、時々仏教をはじめとする様々な話題を論じ合うのは、まことに面白いし、結構なことだと思います。その時には、テーマによっては、私がしばし「教師」役というか、指南を務めることになるかもしれませんし、聞き手が「生徒」のような立場になるかもしれません。実際、そういうことは今までも何度かありました。

 しかし、それはあくまでもそのとき、その「場」のことであり、たとえそれがある程度持続するにしても、要は共通の関心や問題がある限りのことであるべきだし、それで十分だと、私は考えています。

 ところが、これが次第に大人数になるか、あるいは、中の一人が集団から利益を得たいか、すでに得ている場合には、そこから「場」の「組織」化が始まるかもしれません。

「組織」化が始まると、メンバーと資金を管理するルールと、その管理を任務とする「幹部」のような人間が現れ、中心人物の「側近」も出てきて、最終的にメンバーは「指導者」を頂点に階層化されていくでしょう。

 すると、自由な議論の「場」は無用になり、「指導者」の言葉を丸呑みして「組織」に貢献することを求めらるようになりかねません。このとき、もはや「場」は有害視され、排除されるでしょう。

 私は、それがたまらなく嫌なのです。少なくとも私は、自分の言った文句に一々頷いて、その端から丸呑みするような人間に囲まれたいとは思いません。たかが自分程度の人間が言うことに、ただ感心して拳拳服膺している連中など、薄気味悪いだけです。少しでもその可能性があることにはかかわらない。そう思ってきました。

 が、世の中には、そういう連中に囲まれることが好きな者もいるでしょう。「指導者」とか「教祖」になるには、それも必要な資質なのかもしれません。

 ただ、私は、ゴータマ・ブッダを囲んだ集団にも、イエスや、道元禅師などの鎌倉時代の祖師方に従った人々にも、とりわけ彼らが存命中に、「場」以上の「組織」ができていたとは思えません。たとえ、その兆候はあったにしろ、人数に応じた「場」の整備程度の段階だったと考えます。少なくとも、彼らが自ら「組織」を望んでいたとは想像しがたく、望むいわれもなかったはずです。

「組織」化が急速に進んだのは、彼らの死後、集団がさらに大きくなり、その集団を維持することで利益を得る者が現れてからのことでしょう。すると、集団の存在根拠であった今は亡き「指導者」の求心力を高めるため、彼の言葉と業績は金科玉条として神格化され、集団内で反論批判できない無謬の「聖典」となるでしょう。

 私はもちろん、「組織」はすべからく悪で、常に忌避されるべきだと言いたいわけではありません。ただ、ともすると社会における「組織」化の圧力は高く、我々にとって「場」を創造し確保することは必要で、その意味は小さくないと言いたいのです。特に「宗教」をめぐっては。


ほめる技術

2020年11月20日 | 日記
 かの大評論家、小林秀雄の短いエッセイの中に、批評とは「人をほめる特殊の技術」だという一節があります。これは実に彼らしい卓見で、これまでにもそのとおりだと思うことが多々ありましたが、最近またそれを実感する、私が存じ上げる二人の方の好著を読む機会がありましたので、ご紹介します。
 
 ひとつは、宮崎哲弥氏の『いまこそ「小松左京」を読み直す』です。

 氏の仏教についての造詣の深さや、政治社会関係の発言の切れ味は、かねてからよく存じていましたが、いわゆる「サブカルチャー」に関する彼の広汎な知見については、管見にして今まで直接触れることがありませんでした。

 SF小説が「サブカルチャー」に属するかどうか、私には定かにわかりませんが、本著は、大作『日本沈没』などで知られる、戦後日本におけるSFの泰斗、小松左京を縦横に論じる快作です。

 実は私は小松の作品を一つも読んでいません。ただ、『日本沈没』は、1973年に出版されるや、空前の大ベストセラーになり、たちまち映画、テレビ、ラジオでドラマ化され、コロナ禍の今年もアニメーション版が製作されたと思います。我々の世代で知らぬ者は、まずいないでしょう。

 宮崎氏の著作は、この大ベストセラー作家の数ある作品を詳細に分析して、そこから、驚異的に該博な知識を蓄えた、極めて先見性の高い、文明史的展望を持つ、戦後最大の思想家としての小松の相貌を描き出したものです。

 なかんづく、『日本沈没』に東日本大震災を重ねる人は多いでしょうし、『復活の日』は今回のパンデミックを想起させるでしょう。これら予言性に満ちた作品の他に、それこそ宇宙と人間の存在そのものを追求するような、おそるべき射程距離の作品も数多くあります。

 宮崎氏はそのような小松の天才性を深い敬意と共に、実に見事に論じています。

 もう一冊は、釈徹宗師の『天才 富永仲基』(新潮選書)です。

 私は、富永仲基の主著『出定後語』を、学生時代に読みました。当時はまだ仏教そのものに関して認識が浅かったので、彼についても、当時としては斬新な文献学的批判を通じて、いわゆる「大乗非仏説」を証明し、儒教側の排仏論に根拠を与えた町人学者という、通り一遍の理解しかありませんでした。
 
 釈徹宗師が本書で強調してやまないのは、富永の分析手法が当時の思想水準において、傑出した独創性を持ち、世界的な思想史上でも、これほどの先進性は驚異的であり、まさしく今日の日本が誇るべき比較思想の天才だということです。ここにも、彼に対する師の満腔の敬意を感じます。

 彼はほとんど独学で比較思想的な方法論(有名な「加上」説など)を開発して、今日では当たり前になっている仏教経典の文献学な批判研究を行い、その歴史的な成立過程を明らかにしたのです。師に依れば、同様の手法が西欧で聖書などに用いられたのは、20世紀に入ってからだそうです。

 師の説でさらに興味深いのは、富永は決して排仏論者などではなく、思想的には中立な「学者」なのであり、むしろ日本で初めて宗教多元主義的な立場で諸思想を論じた人物だということです。

 本書は、これまで知る人ぞ知る存在であった富永仲基のユニークな思想を、実に水際立った鮮やかさで、必要にして十分な記述によって、一般読者に紹介しています。

 私は、この二冊で、本当に久々に読書の楽しさを味わいました。両書に共通する唯一の欠点は、この本を読むと、小松や富永の原著を読まなくてもよいような気分になることでしょう。それほどの出来だと思います。

 批評はまさにほめる技術です。



細かいけれど大事かな。

2020年11月10日 | 日記
 道元禅師門下の坐禅作法は、禅師の著作である『普勧坐禅儀』に依ります。

 私もこの方法で坐禅しますし、指導するときも同じです。そうすると、自分もかつて疑問に思い、今も坐禅の初学者から時々質問されることがあります。それは、『普勧坐禅儀』の中の一節、「欠気一息(かんきいっそく)し、左右揺振(さゆうようしん)して」という、いささか細かい部分についてです。

 この一節の言うところは、足を組み手を組み、坐禅の姿勢を正しくした上で、文字通りに解釈するなら「大きく深呼吸を一回して、左右に上体を揺らして(振って)」から坐禅に入りなさい、ということでしょう。

 すると、まず出てくる疑問は、深呼吸は1回でいいのか、ということです。

 私が初心者に指導する場合は、この深呼吸は、腹式呼吸への転換と、体内の空気の入れ替えを目的に行うもので、必ずしも1回である必要はなく、複数回でも構わないと申し上げます。初心者が自覚的に腹式呼吸に転換して、その呼吸を落ち着かせるには、数回行うほうがよいでしょう。

 問題は次です。私も初めの頃はそう思い、初学の人からも言われるのは、「せっかく正しい坐禅の姿勢(坐相)を作り、呼吸も一定させたのに、その後で体を左右に振ったら、姿勢も呼吸も乱れるから、もう一度やり直さなければならず、二度手間ではないか?」、ということです。

 これはある意味もっともな話で、指導者によってはこの一節について、「この部分は順番を言っているのではない。要するに欠気一息と左右揺振をすればよいので、事の前後は問わない。揺振が最初で一息が後でもよい」と言ったり、「これは同時にやるのだ。深呼吸しながら、その息が乱れないように、ゆっくり体を振る」と言う者もいます。

 私が思うのは、とりわけ未だ自分の坐相が確立しない初心のうちは、一息の後で、体を最初ゆっくり大きめに振り始め、次第に振幅を小さくして、上体の中軸を定め、坐蒲(坐禅用クッション)に腰をなじませたほうが、坐禅の落ち着きはよいということです。

 坐禅を安定させるには、極力体から力を抜かねばなりませんが、これが一般人や初心者には中々できないのです。そのために、坐禅直前に多少大きめに体を振り、力を抜く前提として、筋肉の緊張を緩めなければなりません。

 順番を変えて、この揺振の後に一息するとなると、今度は呼吸の落ち着きが悪い。私の経験では、むしろ一息してから揺振したほうが、最終的に呼吸と坐禅の安定が早いのです。

 では、ある程度坐禅に親しんだ人の場合はどうでしょうか。

 自分の坐相がある程度固まり、坐禅の習熟度が増すと、一息・揺振の順番の意味が自ずと実感されてくるはずです。

 坐禅を繰り返し修行して、坐相の定まりがよくなれば、腹式呼吸への転換は、ほとんど一回の呼吸で実現し、一挙に深くなります。

 しかし、いかに微弱とは言え、呼吸である以上、首から腹にかけて、さらに内臓の筋肉に一定の力が入ります。そこで、この余計な力をいわば振り落とすように、軽く小さく上体を左右に振るわけです。

 この最後の揺振は本当に小さく軽く行えば十分なので、呼吸にまるで影響しません。このことは、坐禅を習慣的に行う人には、自然に理解されてくると思います。実際、私も一息と揺振の順番については、初心者やまだ経験の浅い人からしか訊かれません。

 というわけで、『普勧坐禅儀』の教示する作法は、そのとおりに行った方が合理的だと、私は思います。