修行道場にまだ在籍していた頃にも一度ありましたし、その後にも何度か勧誘されたことに、私を「囲む会」というか、「南さんの話を聞く集まり」を作ろう、というものがありました。
そういうお誘いをいただけるのはありたいことだとは思ったのですが、私はそのたびに即座に断りました。それは次のような理由からです。
気心の知れているような少人数で、時々仏教をはじめとする様々な話題を論じ合うのは、まことに面白いし、結構なことだと思います。その時には、テーマによっては、私がしばし「教師」役というか、指南を務めることになるかもしれませんし、聞き手が「生徒」のような立場になるかもしれません。実際、そういうことは今までも何度かありました。
しかし、それはあくまでもそのとき、その「場」のことであり、たとえそれがある程度持続するにしても、要は共通の関心や問題がある限りのことであるべきだし、それで十分だと、私は考えています。
ところが、これが次第に大人数になるか、あるいは、中の一人が集団から利益を得たいか、すでに得ている場合には、そこから「場」の「組織」化が始まるかもしれません。
「組織」化が始まると、メンバーと資金を管理するルールと、その管理を任務とする「幹部」のような人間が現れ、中心人物の「側近」も出てきて、最終的にメンバーは「指導者」を頂点に階層化されていくでしょう。
すると、自由な議論の「場」は無用になり、「指導者」の言葉を丸呑みして「組織」に貢献することを求めらるようになりかねません。このとき、もはや「場」は有害視され、排除されるでしょう。
私は、それがたまらなく嫌なのです。少なくとも私は、自分の言った文句に一々頷いて、その端から丸呑みするような人間に囲まれたいとは思いません。たかが自分程度の人間が言うことに、ただ感心して拳拳服膺している連中など、薄気味悪いだけです。少しでもその可能性があることにはかかわらない。そう思ってきました。
が、世の中には、そういう連中に囲まれることが好きな者もいるでしょう。「指導者」とか「教祖」になるには、それも必要な資質なのかもしれません。
ただ、私は、ゴータマ・ブッダを囲んだ集団にも、イエスや、道元禅師などの鎌倉時代の祖師方に従った人々にも、とりわけ彼らが存命中に、「場」以上の「組織」ができていたとは思えません。たとえ、その兆候はあったにしろ、人数に応じた「場」の整備程度の段階だったと考えます。少なくとも、彼らが自ら「組織」を望んでいたとは想像しがたく、望むいわれもなかったはずです。
「組織」化が急速に進んだのは、彼らの死後、集団がさらに大きくなり、その集団を維持することで利益を得る者が現れてからのことでしょう。すると、集団の存在根拠であった今は亡き「指導者」の求心力を高めるため、彼の言葉と業績は金科玉条として神格化され、集団内で反論批判できない無謬の「聖典」となるでしょう。
私はもちろん、「組織」はすべからく悪で、常に忌避されるべきだと言いたいわけではありません。ただ、ともすると社会における「組織」化の圧力は高く、我々にとって「場」を創造し確保することは必要で、その意味は小さくないと言いたいのです。特に「宗教」をめぐっては。
そういうお誘いをいただけるのはありたいことだとは思ったのですが、私はそのたびに即座に断りました。それは次のような理由からです。
気心の知れているような少人数で、時々仏教をはじめとする様々な話題を論じ合うのは、まことに面白いし、結構なことだと思います。その時には、テーマによっては、私がしばし「教師」役というか、指南を務めることになるかもしれませんし、聞き手が「生徒」のような立場になるかもしれません。実際、そういうことは今までも何度かありました。
しかし、それはあくまでもそのとき、その「場」のことであり、たとえそれがある程度持続するにしても、要は共通の関心や問題がある限りのことであるべきだし、それで十分だと、私は考えています。
ところが、これが次第に大人数になるか、あるいは、中の一人が集団から利益を得たいか、すでに得ている場合には、そこから「場」の「組織」化が始まるかもしれません。
「組織」化が始まると、メンバーと資金を管理するルールと、その管理を任務とする「幹部」のような人間が現れ、中心人物の「側近」も出てきて、最終的にメンバーは「指導者」を頂点に階層化されていくでしょう。
すると、自由な議論の「場」は無用になり、「指導者」の言葉を丸呑みして「組織」に貢献することを求めらるようになりかねません。このとき、もはや「場」は有害視され、排除されるでしょう。
私は、それがたまらなく嫌なのです。少なくとも私は、自分の言った文句に一々頷いて、その端から丸呑みするような人間に囲まれたいとは思いません。たかが自分程度の人間が言うことに、ただ感心して拳拳服膺している連中など、薄気味悪いだけです。少しでもその可能性があることにはかかわらない。そう思ってきました。
が、世の中には、そういう連中に囲まれることが好きな者もいるでしょう。「指導者」とか「教祖」になるには、それも必要な資質なのかもしれません。
ただ、私は、ゴータマ・ブッダを囲んだ集団にも、イエスや、道元禅師などの鎌倉時代の祖師方に従った人々にも、とりわけ彼らが存命中に、「場」以上の「組織」ができていたとは思えません。たとえ、その兆候はあったにしろ、人数に応じた「場」の整備程度の段階だったと考えます。少なくとも、彼らが自ら「組織」を望んでいたとは想像しがたく、望むいわれもなかったはずです。
「組織」化が急速に進んだのは、彼らの死後、集団がさらに大きくなり、その集団を維持することで利益を得る者が現れてからのことでしょう。すると、集団の存在根拠であった今は亡き「指導者」の求心力を高めるため、彼の言葉と業績は金科玉条として神格化され、集団内で反論批判できない無謬の「聖典」となるでしょう。
私はもちろん、「組織」はすべからく悪で、常に忌避されるべきだと言いたいわけではありません。ただ、ともすると社会における「組織」化の圧力は高く、我々にとって「場」を創造し確保することは必要で、その意味は小さくないと言いたいのです。特に「宗教」をめぐっては。