先日、ある電話がかかってきました。中年と思しき女性が、とても丁寧な口調ながら、暗く沈んだ声で、こう言うのです。
「お忙しいところ、突然に申し訳ありませんが、どうか教えてください。実は、私の娘が4年ほど前に自殺してしまったのです。そこで、毎日仏壇を拝み、節目には和尚さんのお経も頂いているのですが、ご供養はそれでよいのでしょうか。私の家はそちら様とご宗旨が違うことは存じておりますが、本当はどういう供養をすれば一番よいのかと思って・・・・」
私はすぐに答えました。
「奥さん、御宗旨が違えば、供養の仕方はそれぞれです。私の立場からそちらのお宅のご供養の仕方をアレコレ言うことはできません」
「はあ・・・・」
「でもね、一番よい供養というのは、娘さんを想い出してあげることですよ。楽しかったこと、懐かしいこと、とにかく優しい気持ちで娘さんを忘れずに想い出してあげることです。後のご供養は、できる範囲で丁寧にすれば十分です」
「ああ、そうですか。それでいいんですね、よかった」
想い出してあげることだ、と言った所で、彼女は小さく息をのみ、続く声は、ほとんど1オクターブ高くなりました。
私が思ったのは、このお母さんは娘さんを想い出すことをためらい、そうとは知らずに自らに禁じているのではないか、ということでした。
娘さんの自殺にいろいろな事情があったかもしれません。第三者が聞けば納得できるような理由もあるでしょう。
しかし、たとえそうであったとしても、このお母さんは娘の母親であるというそのことだけで、すでに彼女の死に罪と責任を感じているのかもしれない。だから、4年が経過してなお、悲しみのまま、後悔のままであっても、想い出すことができないのではないか。もしそうなら、私はその気持ちを解除してあげたかったのです。
死後の世界や霊魂のことは、私にはわかりません。しかし、死者がその存在を消滅させないことは知っています。死者は彼を想う人の、その想いの中に厳然と存在します。それは霊魂や幽霊どころではない、時には生きている人間よりリアルに存在するのです。
ならば、その死者を想う自らの気持ちを美しいものとすることが、何よりの供養ではないでしょうか。いまは悲しみと後悔の中であっても、いつの日か懐かしく優しい気持ちで、故人の一番幸福であった頃の姿を想い出せることが、私はとても大切なことだと思うわけです。
追記: 次回「仏教・私流」は2月16日(月)午後6時半より、赤坂の豊川稲荷東京別院にて行います。