恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

ある手紙

2019年07月30日 | 日記
 今年も恐山の例大祭が無事終了しました。ご参拝いただいた皆様、お疲れ様でした。ありがとうございました。

 恐山の本堂には、家族の方が持ち込むであろう、たくさんの故人の遺品が供えられています。その多くは衣服と遺影ですが、おもちゃや靴、鞄なども少なくありません。

 以前、手作りの等身大人形が置いてあって、仰天したことがあります。お子さんを亡くされた人が、長年一緒に暮らしていたのでしょう。顔の部分は何度も縫い直され、白かったであろう布も茶色になっていました。

 今年、本堂で法要に出たとき、たまたま目にしたのは、手紙でした。ピンクのかわいらしい封筒には、丸みをおびたやさしい字で「美樹ちゃんへ 母より」とありました。封筒からは便箋の文字もいくつか透けて見えました。「おかあさんは・・」という字もありました。

 その手紙には、真新しいシャープペンシルときれいな便箋がいっしょに添えられていました。

 まだ幼いお子さんを亡くしたお母さんが置いていったのだと思います。シャープペンシルと便箋は、美樹ちゃんに返事を書いてもらいたいという切なる願いゆえのものでしょう。

 おそらくは、このお母さんはこれからも、美樹ちゃんを繰り返し繰り返し思い続けるでしょう。思おうとしなくても、思われてしまうでしょう。そのどうしようもなく思われてしまう思いの中に、彼女は美樹ちゃんからのメッセージを受け取るのかもしれません。

 恐山は今も、死者とともにあり、死者に出会う場所なのです。


思いつきいくつか

2019年07月20日 | 日記
今や、元気は「出す」ものではなく「もらう」ものであり、意見は「私的に」言うものであって、「私が」言うものではない。

皆で協力しよう!、と声高に言う人間が、協力の結果一番得をする場合が多い。

正しいと思ったことを繰り返し言う人より、往々にして、繰り返し言えば正しくなると思っている人の方が、強い影響力を持つ。

根本的に愚かな人間は、自分が言う場合も言われる場合も、批判と誹謗の区別がつかない。

器の大きい人とは、仕事を他人に任せることができて、結果の責任を自分で取る人であり、器の小さい人はその真逆である。

脳と意識の区別をつけずに論じる人は、地図に人が住めると考える人と変わらない。

老いと病に馴染むこと、他人を無条件に赦すこと。それを少しずつできるようにしていくことが、死ぬ練習なのだ。

二つの諦め

2019年07月10日 | 日記
 仏教には「勝義諦(第一義諦)」と「世俗諦」という言い方があります。教義的立場によって解釈は様々ですが、たとえば中観系の解釈だと、おおよそは以下のようになるでしょう。

「勝義諦」は、「空」「悟り」「解脱」「涅槃」など、仏教の究極的境地や認識を意味し、これは言葉で表現することができない「真理」だとされます。

 これに対して「世俗諦」は、そうは言っても、何も言葉で表現しなければ、「真理」の存在さえ知ることはできない。この言語化された限りでの「真理」を「世俗諦」と言うわけです。

 この二諦説が俗化すると、仏教本来の真理(勝義諦)は世間を超越しているから日常生活と無縁になる。であるから、それはそれとして、日々の暮らしは世間の法律や習慣・道徳(俗諦)に随順すべきだという、安直な二元論に堕することとなります。

 では、私流に二諦を解釈するとどうなるでしょうか。

「勝義諦」には二つの側面があります。

 一つは、それ自体として存在するわけではない事物の実存を、言語がそれとは真逆の、それ自体に根拠を持って存在する「実体」のごとく錯覚させることを、暴露し批判することです。

 もう一つは、では「実体」と錯覚されている事物は、実際にはどう実存しているのかを説明することで、その核心となるアイデアが「縁起」です。すなわち、関係が存在に先立ち、存在を生成するという考え方を言うわけです。

 これに対して「世俗諦」は、ならば、その関係はどのように構成されるべきかを考え・実行すること(これには言語の機能が必須)です。このとき、その「考え方」や「実行の仕方」は、常に一定の条件に規定された暫定的なものであることを自覚しているべきであり、この自覚が「勝義諦」の言語批判に由来しているわけです。

 したがって、「勝義諦」は「世俗諦」に作用する限りにおいて有意義なのであり、「世俗諦」は「勝義諦」に依拠しない限り「諦」にならず、ただの「世俗」でしょう。

 このとき、私が排除するのは、「勝義諦」をなんらかの特殊な「境地(心身状態)」として存在論的に特権化し、これを「言葉で語りえない真理」として実体視することです。

 この考えは、結局「世俗諦」とされる「言葉で語られた教説」を二次的なものとして切り離し、最後には世間の道徳話同然に仕立ててしまいます。

 かくして、一方が実体論になり、他方が道徳話になったら、もはや仏教ではありません。

 要は、「勝義諦」と「世俗諦」を区別しただけで事が片付くと考えるのは誤解の元であり、大切なのは二諦の関係を定義することなのです。