道元禅師の『正法眼蔵』を読むとき、いつも不思議に思うのは、何のために書いたのか、端的に言えば、誰に読ませるつもりで書いたのか、ということです。
実際に読んだ方はお判りでしょうが、あの書物は、普通の読解力、たとえば新聞を読むことのできるレベルの読解力の者が読んで、すんなり理解できるような代物ではありません。それは、鎌倉の昔と今とでは時代が違うから、あるいは読み手の能力が不足しているからではありません。採用されている論理が異常なのです。
たとえば、有名な般若心経の冒頭「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 (度一切苦厄)」という部分。
普通に読み下せば、「観自在菩薩が般若波羅蜜多を行じること深き時、五蘊は皆空なりと照見して(一切の苦厄を度したまへり)」などとなるのが普通でしょう。
そうだとすると、「観自在菩薩」「般若波羅蜜多」「五蘊」など、個々の単語の意味がある程度わかれば、少なくとも文章が何を言おうとしているかの見当はつくでしょう。
ところが『眼蔵』ではそうなりません。同じ部分をはこう解釈します。
「観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり」
私訳すれば、「観自在簿菩薩が行深般若波羅蜜多時であるとは、全身あげて照見五蘊皆空になっているということなのだ」となるでしょう。この訳がある程度当たっているとしたら、個々の単語の意味が理解できたとしても、全体として何を意味しているのか、よほど研究しないとわかりません。使われている論理の構造が普通と違うからです。
これでは、鎌倉時代の坊さんが読んでも、我々同様、わからないでしょう。ところが、道元禅師と同時代の他の祖師方(法然上人などなど)の著作は、我々が読んでも、手間はかかるにしても、それなりに意味を受け取れます。つまり、理解の困難さは時代差の問題ではないのです。
さらに、道元禅師の手になる他の書物は、『眼蔵』ほどに読んでわかりにくいものではありません。修行僧への説教である「上堂法語」というジャンルの言葉は、かなり儀礼化された表現になっており、さらに詩文の要素も濃厚なので、読むのは簡単ではありませんが、全体の論理は、『眼蔵』のように常識外れなわけではありません。
いわゆる「公案」「禅問答」なども、常識的でない展開のものが多いですが、それは通常の論理を破断したり脱臼させたりするための、意図的・方法論的な言葉の用い方によるものがほとんどであり、『眼蔵』のように破格で独自の論理がそこに採用されているわけではありません。
とすると、現代の我々は無論、鎌倉時代の直弟子だろうと、読んでわかったはずはありません。だから、道元禅師存命時代や、それに続く時代の僧侶に、まともな『眼蔵』の注釈書を書く者が一人として現れなかったのです。『眼蔵』劈頭を飾る「現成公案」の巻などは、九州の在家の弟子に与えたといいますが、あれではもらった方が困ったでしょう。
では、どうして書いたのか。以下、私の仮説。
一、自分の思想的メモ。それにしては根性入りすぎ。
一、弟子たちへの講義用テキスト。だったら、弟子にも写させただろうし、もっと沢山の写本が残ってもよかったのでは。
一、講義記録。もし、あのとおりの講義をしていたなら、聞いてもわからない。
一、講義要録。講義のエッセンス。だったら、ちゃんとした、丸ごと聞き書き的な講義録も遺してもらわないと。
一、自分が書きたいことを書きたいように書いただけ。「わかるかナ? わかんねえだろうナ」(注:昭和の化石的ギャク)
私としては最後の説を押したいですが、まさかね。
追記:次回「仏教・私流」は11月28日(金)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。
実際に読んだ方はお判りでしょうが、あの書物は、普通の読解力、たとえば新聞を読むことのできるレベルの読解力の者が読んで、すんなり理解できるような代物ではありません。それは、鎌倉の昔と今とでは時代が違うから、あるいは読み手の能力が不足しているからではありません。採用されている論理が異常なのです。
たとえば、有名な般若心経の冒頭「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 (度一切苦厄)」という部分。
普通に読み下せば、「観自在菩薩が般若波羅蜜多を行じること深き時、五蘊は皆空なりと照見して(一切の苦厄を度したまへり)」などとなるのが普通でしょう。
そうだとすると、「観自在菩薩」「般若波羅蜜多」「五蘊」など、個々の単語の意味がある程度わかれば、少なくとも文章が何を言おうとしているかの見当はつくでしょう。
ところが『眼蔵』ではそうなりません。同じ部分をはこう解釈します。
「観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり」
私訳すれば、「観自在簿菩薩が行深般若波羅蜜多時であるとは、全身あげて照見五蘊皆空になっているということなのだ」となるでしょう。この訳がある程度当たっているとしたら、個々の単語の意味が理解できたとしても、全体として何を意味しているのか、よほど研究しないとわかりません。使われている論理の構造が普通と違うからです。
これでは、鎌倉時代の坊さんが読んでも、我々同様、わからないでしょう。ところが、道元禅師と同時代の他の祖師方(法然上人などなど)の著作は、我々が読んでも、手間はかかるにしても、それなりに意味を受け取れます。つまり、理解の困難さは時代差の問題ではないのです。
さらに、道元禅師の手になる他の書物は、『眼蔵』ほどに読んでわかりにくいものではありません。修行僧への説教である「上堂法語」というジャンルの言葉は、かなり儀礼化された表現になっており、さらに詩文の要素も濃厚なので、読むのは簡単ではありませんが、全体の論理は、『眼蔵』のように常識外れなわけではありません。
いわゆる「公案」「禅問答」なども、常識的でない展開のものが多いですが、それは通常の論理を破断したり脱臼させたりするための、意図的・方法論的な言葉の用い方によるものがほとんどであり、『眼蔵』のように破格で独自の論理がそこに採用されているわけではありません。
とすると、現代の我々は無論、鎌倉時代の直弟子だろうと、読んでわかったはずはありません。だから、道元禅師存命時代や、それに続く時代の僧侶に、まともな『眼蔵』の注釈書を書く者が一人として現れなかったのです。『眼蔵』劈頭を飾る「現成公案」の巻などは、九州の在家の弟子に与えたといいますが、あれではもらった方が困ったでしょう。
では、どうして書いたのか。以下、私の仮説。
一、自分の思想的メモ。それにしては根性入りすぎ。
一、弟子たちへの講義用テキスト。だったら、弟子にも写させただろうし、もっと沢山の写本が残ってもよかったのでは。
一、講義記録。もし、あのとおりの講義をしていたなら、聞いてもわからない。
一、講義要録。講義のエッセンス。だったら、ちゃんとした、丸ごと聞き書き的な講義録も遺してもらわないと。
一、自分が書きたいことを書きたいように書いただけ。「わかるかナ? わかんねえだろうナ」(注:昭和の化石的ギャク)
私としては最後の説を押したいですが、まさかね。
追記:次回「仏教・私流」は11月28日(金)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。