Zazen in USA-坐禅アメリカでの集い

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

Light and Shadow of translation翻訳の明と影『南直哉師との面談其の④』

2018年12月04日 20時35分10秒 | 翻訳

結局、私は南師から翻訳の承諾を得たが、

当時の1年半前の私には彼の本を訳せる能力が無かった。

Eventually, I obtained master Minami’s consent for his book translation

but my ability of translate was not ready yet

at that time a year and half ago.

だが、その面談によって

私はやるべきことが設定でき、

翻訳を起動させるタイマーをオンにできた。

But I could set what I have to do from the meeting with Minami Jikisai

and the timer was turned on to activate translate work.

 

 

私が翻訳について決めている方針は一つだけだ。

There is only one policy I decided to do for a translation.

訳した文から翻訳者の存在を限りなくゼロにする、それだけだ。

It is to lose no meaning in the translated sentences.

原作者の視た世界を、

ただ言葉を変えてそのまま読者に見せる、それだけのことだ。

The world seen by the original author,

just show it to readers the way as it has been,

with only the language changed, that is for all.

 

そのためには、作者が言おうとする世界を、

ことばを超えて視られる内観が必要になる。

To be such, an insight that can go beyond words is needed

to be able to view the world which the author tries to paint.

英語で原作者の世界を写真のように写り、

他の言葉でプリントするだけのことである。

It is like picturing the original author’s world in English and just print out it.

 

 

偉大な画家は自分が視たビジョンを筆と絵の具を使って描ける。

A great painter can depict one’s vision by using brushes and colors.

その画家によって描かれた絵の空間には

筆や絵の具は道具としての役柄を完璧にこなしている。

In the painted space,

brushes and colors perfectly master their roles as a tool.

たが、普通の画家は

筆と絵の具を使える技術だけを見せびらかすため、

手段である道具が目的になってしまう。

However, an average painter just shows off brushing skills and tools,

so the utensils themselves become the purpose.

 

 

通訳者に求められる素質の一つに

画家が駆使する筆や絵の具の使い方のように、

ことばをどう使うかの見方が根本的に問われる。

One of the required qualities for a translator,

just like a painter commends how to use brushes and colors,

is perspective of how words are fundamentally being questioned.

一枚の絵に筆や絵の具の使い方は陰になるべきで、

技術が表で圧すると絵の世界に入れなくなり逆に邪魔になる。

Using method of brushes and colors for a painting,

it should be shadow but if a skill dominates at front,

conversely it obstructs insight or view of the painting.

 

 

翻訳者は言葉の表現に対して限界を持っていてはいけない。

Translator should not have boundary against expression of words.

99%の正確性は許せない、

常に100%正しくいなければならない。

99% accuracy should not be forgiven,

always must be 100% correct.

私はその100%に未だに達していない。

Yet, I have not reached that 100%.

だが、限りなく100%になるための挑戦を

毎日、毎時間、毎秒やっている。

Even though, I have been challenging

infinitely to be 100%

every day, every hour, every second.

 

 

翻訳の承諾を得てから1年半が過ぎた。

A year and half has passed,

since I got consent for translation of his books.

そのためにまず、

私は私の脳内で行われる日本語から英語を通訳する過程を

無くせることを最初の目標にした。

To do that, as the first stage to clear was

removing interpretive process in my brain from Japanese to English.

 

ことばで表れている世界、

そのままを他のことばを持ち要って表す、

そのためには頭だけでことばを考えては邪魔になる。

The world represented by one language,

then expressed in another through mere brainy work,

it will end up an obstacle.

ことばを一々計算し、

事々分析しては道に迷うことになる。

Calculating words one after another and

analyzing one by one,

is a way to quickly get lost while still on the path.

 

私がこのシリーズを書こうと決心した理由は、

その脳内通訳通路がようやく消えて見えなくなり、

ことば自体が意識に昇らなくなったからだった。

The reason why I decided to write this series was

to overlook that the path of translating process in my brain was

finally gone from my sight and

the words no longer come to my conscious.

頭の中で通訳しなくなった状態にようやく辿りついたのである。

I finally reached a state where no interpreting functioned in my brain.

これが、私が踏むべき段階の2段階であった。

That was the second stage I had to clear.

 

最初の段階は南師からの翻訳承諾を得る、

それから翻訳者としての能力を定める。

The first stage was obtaining consent for translating

from master Minami Jikisai,

and then determining my ability as the translator.

 

次の段階はことばを他のことばに替えるだけだ。

The next stage will be stitching one language to another.




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いじめなのか、拒絶なのか

2018年11月27日 18時06分41秒 | いじめ

翻訳シリーズを書いてから予想外の展開になってしまった。

私が翻訳者として適切か不適切かが問題に出され、

韓国人が日本語を訳すと名乗り出た自体、

言語能力に対し疑いのあるとのコメントが幾度なく寄せられた。

 

私の能力が問われることは当たり前に思っていたのもあり、

批判や裁きは然程のことではない。

疑いや不信はあることを起こした時、

それが結果に向いていく過程で必然的に起こる因果関係でもある。

 

シリーズを書く過程の中で、

私は南師の過去ブログ記事を全部読むことを目標に設定した。

毎日記事を読んでいくと、

内容によってはその記事が書いてある時代背景を確認する必要が出てきて、

ネット検索や他の諸情報確認と並行しないと全体像が掴めないのが多く現れた。

 

思ったよりブログ記事を読むのに時間がかかり、

始めに決めていたシリーズを完成させる期間がつられて延びてしまった。

だが、私は自分が決めたある段階を踏み終えないと次にいけないサガがある。

人に背中押されて期間を早めることがまるでできない問題点も併せ持つ。

人に何を言われようと自分が決めたことを基本から始める、それしかできない。

 

そうしていると決まって、

目の前に新たな問題が現れ、

その問題を解決しないと次の段階に行けなくなることが生じる。

その中で発生した問題点を解決するため、

ブログ主のコメント欄コメンテーター宛てに助けを求めることになった。

何故なら、そのブログのコメント欄では

仏教関連の知識豊かな多くのコメンテーターが、

素人に対し高いレベルの知識を提供していたからだ。

だが、私のコメント宛てに

名を指定していない人から以下のコメントがあった。

 

『桂蓮のコメントは不要。

否定ではなく不要。

語る益が見当たらず害にしかならない。

桂蓮のコメントは全て不要。

ブログ内容と関係がない点でも不要である。』

 

あれほど、強烈な拒絶は生まれて初めてだったので、

何回も読んでしまった。

そのコメントをした者の言い方は南師の簡潔な表現と酷似していたから、

南師が私宛に書いたのかとあれやこれ考えてしまった。


そうしている内に気持ちが落ち込んで、

不愉快も超える悲しみがこみあがった。

それが正に、他人がくれた苦痛なのであった。

ある他人が私宛に苦しめと言っているような強制である。

 

その人が南師本人か、

全く別の人かは確認できない以上、

私が解決できる問題でない。

だが、根本的な問題はある人がある人に対し、

不要と言っている事実なのである。

それが、仏教の教えを実践している人のブログ内で起こっていることだ。

 

学校でいじめにあった生徒が自殺して、

その学校の校長がインタビューされるニュースが結構報道されている。

その校長は決まってその事情を知らなかったという。

恐山ブログでは削除によって、

あってはならないコメントが整理される。

私の個人生活まで非難してきたコメンテーターに対し、

私の怒りのコメントは削除されたので、

ブログ管理者が私宛の他のコメントも読んでいることになる。

 

だが、残していいとされた上記のコメントや

他の私に宛てのコメントはまだあるから

もう知らないと言えない立場になっている。

このようなことがなぜ、起こっているのか?

この疑問は私が解決できるような事柄でないのは確かだ。

 

仏教の教えを教えている指導者のブログ内で、

ある人を指し不要だというコメントが存在している。

そのコメントを残した者が南師本人でなくても、

少なくても仏教知識を語ったはずである。

 

人に不要だと言える人が言うことを許されている、

これは明らかに問題がないと言えないだろう。

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Why is it must be me?( English version of③)

2018年11月21日 19時01分35秒 | 翻訳

Why am I willing to translate the master Minami Jikisai’s books?

Why would I be an appropriate translator for his books?

These two questions capture my present circumstance

also my past and future.

 

If I divide my lifetime into three terms that I have lived so far,

At South Korea as the first one-third,

The midterm of one-third is at Japan,

The remaining one-third is currently in US

and here I am trying to undergo as my progress.

 

At the time when I got throughout those two terms,

I have cleared all the tasks that I imposed on myself.

Also, I was able to satisfy my own self

with academic background, financial capability, career.

There is no unfinished job left.

 

Since I imposed tasks on myself that can be achieved by effort,

I steadily went through all the stages to clear the tasks

proceeding cautiously, taking enough time to complete it properly.

 

However, when I have climbed up to the achievement

which was set by myself as a goal.

At the top I was able to look over the way I have walked,

and I saw completing task was not the final destination.

I found that the way I have been through linked to another road

which should take to path.

 

I have used up my two-third life terms

which was given just for satisfying myself personally,

but it is merely an act of satisfying hunger.  

As hunger or thirst satisfied as it is fulfilled,

there would be demanding if supply required,

so that the causality gets done.

 

When self-supply was required in my life,

I settled with the self-demanding

so that the cause and result was done.   

 

The emerging problem 

was no directivity in my mind

when after causality has solved and settled.

As the way an effort loses basis without purpose,

it gets sorted out naturally,

also my mind without destination was

unable to find reason to do effort.

 

At that time, unexpectedly

I encountered with Minami Jikisaiwho is as a master

and the way of living his life.

 

And it made me define the direction of my effort

as it should be, over rest of my life.

 

If so, why not others but Minami Jikisai?

My answer for this question is,

there is no other proper linguistic expressions,

but only I can say this:

'I did not decide particular reason to be answered'

 

There is no theorized reason but surely there was an intuition.

The intuition was grounded on following facts that

expressed by the words he uses.

 

The giving off words from him are alive.

 

His linguistic ability can bring back died words to alive.

 

His persuasiveness can break down stereotypes

and also includes capability of being excused of it.

 

His using words have an ability to grind something hard.

 

His words are as a tool to pursue and he is using the tool fairly.

 

These intuitions inspired by him that I am going to prove,

maybe it must be my next task that should be done.

 

Why should the translator of his books be me?

For this question I have not determined an answer.

 

But I have an assurance that

I would not let his living words die with English transforming.

Even though it is also just a gut….

 

 

 

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なぜ、私でなければならないのか『南直哉師との面談其の③』

2018年11月19日 05時17分34秒 | 翻訳

なぜ、私は南直哉師の本を翻訳しようとしているのか。

なぜ、南直哉師の本を翻訳する人は私でなければならないのか。

これら二つの問いは私の現在の在り方であり、

過去と未来でもある。

 

私の今までの生きてきた人生を3で割ってみると

韓国での前期三分の一

日本での中期三分の一

残りの後期三分の一は

今アメリカでくぐり抜けている過程経過で

言い表すことができる。

 

私は前期、中期に亘って自ら課した課題を全部クリアした。

学歴、経済力、経歴において

私の自己を満足させることができた。

心残りが無い。

 

努力によって達成できる課題を自らに課し、

時間をかけて踏むべき段階を着実に踏んできた。

ところが、自ら設定した課題の頂きに上り詰め、

歩んできた道を見渡した時に見えたのは

課題の達成は目的地でなく、

他の歩むべき道への道なりの経路であるとのことであった。

 

与えてもらった我人生の三分の二を

ただ私個人の自己満足のために使ったのだが、

それはあくまでも飢餓を満たす行為に過ぎない。

 

飢餓や喉の渇きは充足させれば、

需要に応じて供給が成され、因果が済む。

私の人生に生じた自らの需要も

自らの供給で因果関係が成立したから、決着させた。

 

問題は因果が済み、

決着をつけた後に現れた方向性の無い私の心であった。

目的の無い努力は根幹を失い、

自然に淘汰していくように、

行先を失った私の心は

努力する理由を見つけることができなかったのであった。

 

そんな時に、ばったり南直哉師の生き方に出会い、

私の残り人生をかけて成すべき努力の方向性が定まったのである。

 

 

では、なぜ他の人でなく南直哉師なのかの

問いへの私の答えだが、

特に決めた理由は無いとしか言いようが無い。

 

理屈な理由は無いのだが、直感は確かにあった。

その直感は彼が使うことばで表れた以下の事実を根拠として成り立つ。

 

彼の発することばは生きている。

 

彼の言語力は死んだことばを甦らすことができる。

 

彼の説得力は固定観念を打ち砕ける実行力を合わせ持つ。

 

彼の使うことばは硬い何かを砕く力がある。

 

彼のことばは追及するための道具であり、

その道具を正しく使っている。


これらの私の彼への直感を証明していくことが

次の成すべき課題かもしれない。

 

なぜ、彼の本を翻訳する人が私でなければならないのか、

この問いも私に決まった答えが無い。

だが、彼の生きていることばを

英語で死なせることはしないとの確信はある。

それも直感に過ぎないが….




 

補足

 これらのシリーズを読んで下さった方々へ

 宣言した記事の英訳のアップですが、

 訳わからず、中々手につかないでいます。

 私はこのシリーズを書くことによって、

 他の道への折り返し、その分岐点にしようとしています。

 なので、私にとっては生き方がかかる記事なのです。

 英訳はこの激流を乗り終えたら

 自然に書けるようになるかも....



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南直哉師との面談其の②

2018年11月12日 20時50分55秒 | 翻訳

私がどう挨拶していいか分からなくて困っていたら、南師が

「まあま、挨拶はいいから、そこにおかけになってください」と

軽快な口調でロビーのソファを指してくださった。

その指示に従って低いテーブルを挟み南師の真向いのソファに座った。

 

まず、南師の初印象からは清い清潔感を感じた。

その清潔感は内面から湧き出ているようで、

長年の習慣や生活様式が蓄積されて、それが外に表れているようだった。

キメ細かい肌には動物性の油気が全くなく、

全体の雰囲気は言い難い静かな清楚感があった。

だが、意外にもあの細長い体から出た声は大きく明瞭で、

澄んでいたので驚いてしまった。

 

私は何を話し出せばいいのか全く見当がつかなかったのもあり、

軽く目礼をしてから黙って勧められたお茶を飲んだ。

私は大人になってから人との初対面でも緊張したことが無かったのだが、

あの時は空気が張り詰められたようで、

空気が重たくなり、また迫ってくる感じがした。

これが緊張するという状態なのかと初めて肌で実感した。

 

私が話せなくて困っていると察したのか、

南師がお茶の器を皿に戻しながら、

最初に私の名前をきいてきた。

続いて、どこから来たのか、

日本にどのように来たのか、

いつ日本に着いたのかなど簡単に聞かれた。

 

その他にも私と言う人間を取り巻く

外部的な情報に関する質問が暫く続いてた時、

この面談は私を具体的に知るための南師からの面接だと気がついた。

 

それらの質問を通して

南師はおそらく目の前にいる人物が、

坐禅指導を受けようとしている者、

面談を申請した者、

翻訳をしたいと申し出た者、

英訳付きの坐禅ブログを書いている蓮の花と名乗った者、

恐山ブログで外れ者とか蓮の花でコメントした者、

それらの格人物が目の前にいる人物と一致させるなど

人を分かっていく過程を丁寧にしていると思えた。

また、人の存在を大事にしてきたことが身に定着しているようにも見えた。

 

質問に答えている間、

私は『私という自己』が

『あなたという他己』のありさまに直面しているような

一つの自己がもう一方の自己と

真っ正面で対面している瞬間が目の前に停止しているような

時間の流れが研ぎ澄まされいて

瞬間だけが一時停止しているような感覚が一貫してあったのだが、

そのような瞬間感覚が存在する自体、

考えたことも想像すらしなかったので凄くショックを受けた。

 

南師は他人の自己を自分の自己とほぼ同格に扱っているのかなと

思えるくらい自他に対して丁寧であった。

 

 

思い返せば、塾をやっていた15年間、

私は自分という自己を無くすことを何よりも優先させていた。

生徒や講師のためだけにいる空気のような存在になりたかった。

私自身の個人的な欲望や目標などを忘れ、

ただ他人のためだけにいたかった。

それが日常になってたから他人に自分を説明する機会が滅多に無かった。

 

だからか、私の自己に関する質問に答える時間が非常に長く感じられ、

面倒にもなり飽きてきて、いつ終わるかなと思いながら

私の自分説明に疲れてしまったのを隠して

平然を取り澄ましていたら、

突然、「あなたの坐禅の基本はなんだ?」と咄嗟に

核心を突く質問になった時にはっとなって

疲れていた脳がぱっと覚めた。

 

「え?坐禅の基本姿勢みたいなことですか?」と聞き直したら、

「まあ、あなたが坐禅をどうみているか、どのように考えているかといった基本的な見方かね」

と補足を付け加えて下さった。

 

その質問に私がどう答えたか、具体的に覚えていない。

この面談の続編を書くために自分がどう答えたかを思い出そうと

必死になって記憶を辿ってみたのがどうしても思い出せなかった。

どう言ったかは覚えていないが、

脳科学の本から坐禅を知って、坐禅を実行したら、

心理学では得られなかった『自らを癒せた』

『考えの苦しみから救われた』

などの体験をしたから、

坐禅を知らない人に知ってもらいたいのもあって

もっと知ろうと自分なりに研究していて、

それが私の基本であり動機でもあったと

要点だけ伝えた気がする。

 

自分がどのように言ったのかは具体的に覚えていないのに

今でもはっきり覚えているのは、

南師特々の『聞き方』と『言い方』である。

何かを聞く時は慎重極まるが

聴いてからは言っていたことの要点を的確に刺す、

また、問うていることに無駄が一切なく、

その問いへの言い方は鋭くかつ明瞭で

まるで完璧に研ぎ切れた剣で

ものをきっぱり斬る切れの良さがあった。

 

南師のシンプルで尚且つ機敏な会話の誘導にただ従っていると

鈍かった頭がぱっと覚醒するような

極めて明瞭な何かに直面させられるような、

なんとも言い表せない緊迫感と迫力が私に迫ってくる感じがした。

その活き活きした感覚は未だに体感として鮮明に残っている。

 

「あなたは私の本を翻訳したいと言っているが、なぜ私の本なの?でなぜ私なんだ?」

と聞かれた時は急所を突然突かれたような、驚きで一瞬息が止まった。

そのような質問をされるとは予想さえできなかったので

突然頭をガーンと叩かれた感じになった。

 

だが、予想外のピンチになると

正直になるカードしか出せないので、

平然な振りをしながら、

『翻訳しようと決心した経緯』から

『なりゆきの到達点』や

『他の人がいくら正しくても私との関連が無い』

『私が訳したいのは南直哉師の本しかない』と

できる限り短く要点だけを言った。

 

その面談時のことを今になって

南師の立場に置き換えて考え直してみると

突然ある人がポツンとどっかから現れ、

しかもその人は翻訳をしたいと言い出してきて、

しまいにはアメリカから日本まで遥々きた、

ならば、その人が一体全体どんな人なのか知りたくなるだろうし、

知るためには分からないことを聞く、

ただそれだけのことだったのではなかったかなと思う。


だから南師にとっては、

私が質問に対して既に考え尽くしたと何らかの見做しがあっただろうから、

自分の質問が核心を突くとか、

的を射るとかは眼中に全くない

『知らないことを知る手段』にすぎなかったかも知れない。


だが、私は南師との面談では

おそらく私の言語能力を中心的に聞かれるのかと思って

英語通訳能力に関する予想質問項目ばかり用意していた。

しかし、私の質問予想解答案は見事に外れたのであった。

 

私の予想質問攻略編は外れたのだが、

他の思想系や哲学書に関する私の解釈の仕方を聞かれた時は、

運よく以前から考えていたことをきかれたので、

思ったことをすんなりと言えた。

 

また、どうやって坐禅をアメリカで紹介しようとしているかなどのプランも聞かれ、

10年後の見込みとして、今のIT社会は因果的に人の断絶を伴う、

よって次世代は心理学の治癒法や宗教の教えも効力を無くす時が来る、

その時に坐禅の需要が必然的に生じる、

なので、今その下準備として坐禅関連の翻訳を始めたい答えた。


其の三へ続く....



補足:其の二を読んで下さった方々へ

まだ、面談の一部しか書いてないのですが、記事が長くなってしまったので、続きは次回にします。

次回はなぜ、私が今になって面談を書くと決心したかを書きたいのですが、そこまでいけるかどうか

実際書いてみないと見えてきませんので、何とも言えませんね。

英訳はシリーズを進めながらまとめて投稿する予定でいます。

このシリーズで南師の本を翻訳することになった因果関係を

公で明らかにしたいと思って書き始めたのですが、

書きだしてからこの面談編をもっと早めに書くべきだったと気づきました。


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南直哉師との面談其の①

2018年11月05日 06時23分04秒 | 翻訳

①あの面談からもう一年以上が過ぎた。

去年の夏、青森県むつ市恐山にある菩提寺で

南直哉師が指導する坐禅修行を受けるため日本に行った。


その坐禅修行を受けるようになったきっかけは

ずっと前の2年前から始まっていた。

否、もしかしたら私が坐禅を始めた10年前から

既にその縁起が発生していたかも知れない。


ある日、ひょっとしたきっかけに

YouTubeから南直哉師のインタビュー番組を見つけた。

当時は坐禅関連のサイトを検索していたからか

類似のサイトが自動的にあがってきたようであった。


始めは普通に昔の禅師の教えを延々と解説するくらいだろうと思って、

流したまま他の雑誌を読んでいたが、

話が「私はなぜ他人ではないのか」 になって、

次第には

「本当の自分というものが分からないから探すわけです。

もしそうだとすれば、会ったことのない人を探すっていうことは

どだい無理ですからね」

「これは、ものの考え方が

なにか基本的に違うんじゃないかと思ったんですね」

「それからもう一つは、

自分を探そうとして

本当の自分に出会うということになれば、

その『本当の自分』が本当に『本当の自分』かどうかを

判断するのは誰なのか?という話になりますよね」

になった時は、

あれ?これは私がずっと知りたかったことなんだけど?

と驚きがあった。

 

南直哉師の恐山関連ブログ記事のURL

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/0b1cb7456a1a2b1924eaed94846498c2

『メディアの言葉』

 

それから、ビデオを最初から戻して

注意を払いながら再度観始めた。

その日は、連続して同じビデオを繰り返し観て、

私が何を掴んだのかを頭で整理した。

それから、南師関連の他のサイトも全部調べ始めた。


その中で分かったのは

この南という僧侶は今まで見てきた僧侶と全く違うということだった。

この人は自分に初めから何かの疑問があって苦労してある答えを得て、

それを言葉で表していると思った。

話のトーンも自然で

どこか深いところから湧き出るような印象を受けた。

また他のビデオからも一貫した態度が見えたから

この人は全てどこでも自分で勝負している人のように見えた。


その日、私はこの人の本を訳すと決めたのであった。


その決心をしてから一年後、

坐禅修行の前に事前に面談を申請し、

本を訳したいので相談したいことも伝えた。

申請した面談が受理された時は、

未来への期待と翻訳を断られるかもとの心配で

複雑極まる感じだった。


日本に行く支度をしている間は

会って何をどう話したらいいかとか、

私の言語能力をテストされるだろうかとか、

期待や希望よりは心配や不安のほうが多かった。


日本に行く飛行機の中と

青森行きの新幹線の中でも

持参していた彼が書いた本を読むことができず、

ずっと考えてしまった。


ここまでに至った経緯、

私が坐禅を始めた切っ掛け、

英語の独学中挫折した時でも諦めなかったこと、

弁護士のアメリカ人夫との結婚、

アメリカへの移住、

彼のサイトを見つけた偶然、

彼との関りを持つために始めた日本発信のブログ、


それらすべてが同じらせん状に絡まってクルクル回り、

その中心に向かって私が今、行こうとしているその事実が

一秒一秒近づいてくる切迫した緊張があった。

菩提寺までの道のりは長かったが、

その間私は持っていた本を1ページも読めなかった。


やっとロビーに着いて名前を言ったら、

デスク案内の方が私の名前を憶えていたので驚いたが、

面談の時間を知らされた時はもっと驚いた。

面談時間が予め決められてあったからだった。


予約した部屋の前に何故か、

桂蓮の名前だけ書いてあった。

アップルバウムという苗字は長くて入りきらなかったようであった。

荷物を簡単に片付けて、

面談約束の時間より早くロビーに降りて待っていたら、

背の高い、ほっそりした感じの南師が現れた。


其の二へ続く...


 

注:この面談は書きたいことが済むまでシリーズとして続行します。

  英訳はできる次第に別枠で英語版としてアップする予定です。

 

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Basis of table propriety食事作法の基本

2018年10月29日 18時37分26秒 | 住まい関連

立つ鳥後を濁さずという日本の諺がある。

There is a Japanese proverb that

a bird does not foul the nest when it is about to leave.

その意味は、

ある者が、自分がいた場所を立ち去る際に潔く、

キレイに後始末をすることを指す。

The representing means

when someone leaves from the place where has been,

the one prudently cleans up the place as things all in order.

 

木の枝で暫くいた鳥が、

その枝から飛び去ってからも、

その鳥がいた痕跡が何も残っていないことに例えられ、

自分が使った痕跡を何も残さない思いやりを表す。

It shows an example that

a bird stayed for a while on a branch

and when after it flew away,

there is no trace left behind

and representing one’s considerateness that

leave nothing to trace how used objects at the place.

この諺の奥には

礼儀作法に対する基本姿勢が表れていて、

人が公共の場で共有物を使った後ですべきことを指示してもいる。

The proverb deeply indicates the basic stance of manners

and pointing what people should do

when after using co-shared objects in public.

 

 

私は礼儀作法について

学びたい欲求が一際強かったが、

学校の授業では指定された礼儀に関する科目が無かった。

I pretty eagerly wished to learn

about proprieties and a good manner

but there was no curriculum at school

related with courtesy as a designated subject.

礼儀作法に従って行いを正すことは

望ましいことだと分かってはいたが、

どうやって作法を行うかについて

教えてもらえたことが無かった。

Although my understanding of rectifying behaves

followed by rule of manners was desirable,

but I have not taught how to perform etiquette.

 

だが、8年前の坐禅体験会で、

ついに、念願した食事作法と坐禅作法について

とことん教えてもらえることに至ったのであった。

But 8 years ago at a zazen practicing group,

the chance finally came to me for learning strictly

about the real table manners

and zazen practicing manners 

as my wished way to gesture righteously.

その坐禅会では、

食べる時の姿勢、

食事の際の箸の置き方と戻し方、

器の持ち方、

料理を頂く方法と断る方法、

食事前後の礼の行い方などの

厳格な指導を受けることができた。

At the zazen practicing group,

I was able to take instructions in strict ways that

the posture when eat,

how to put chopsticks and how to put back while eating,

how to hold bowls,

how to take foods and how to refuse,

how to perform courtesy before meal and after.

 

道場では音をたてないことになっていたので、

食べる時も咀嚼の音を立てずに食べたのだが、

それだけは思ったほど難儀ではなかった気がする。

At the practicing place,

we trainee should not make any sounds when we eat

so, I had to eat without making chewing sounds,

but it was the only train menu for me to excuse

and also it was not as hard as I expected.

 

私がそのように食事作法を習ったとしても

その作法をそっくり現生活でも行うことは中々難しいが、

修行僧は実際、その作法を毎日おこなっているのだから、

修行増にとっては作法が特別な行動でなく

日常の一環であるようだ。

Even though I learned such strict table manners,

it will be quite difficult for me to do manually in daily life,

if I have to do as I was taught.

However,the trainee priests are actually doing the propriety every day,

so it must be one of their routines as a practitioner

and their practicing seemed not a special action.  

その修行僧のように

作法を日常の一課として熟していけば、

作法が身に付き意識せずとも自然に行えるだろう。

If someone does propriety as a routine

and founded to be mature as the way a trainee priest does,

the one will be able to perform the propriety naturally

without conscious and it will make a good behave.

 

作法やマナーも

特別な行事での特定した態度だけに限定せず、

毎日の日常で行えば

その人の動作や仕草にも良い姿勢として

やがては現れるようになるだろう。

If someone accuses such propriety and manners in daily life

and try not to limit for special attitudes

or specified events to show,

then the manners will be accustomed eventually

as the one behaves or gestures.  

 

もう8年も前に習ったその食事作法の

箸を置く角度や箸を手で持つ寸法などは

すっかり忘れてしまったが、

『決まった決まりがきちんとある』

このことだけは基本として記憶に残っている。

I completely forgot those details that

I learned 8 years ago,

such as how to put chopsticks with righteous angle

or righteous measurement when hold the chopsticks

for table manners,

but the basic concept of

“There must be a properly determined rule”

is still in my memory.

 

また、気が緩んで楽に食事をしたい時にも

あの時に習った厳しい訓練が甦ると

姿勢を正すことにしている。

Also, when my mind loosens and just take an easy when I eat,

I make myself sure that the strict training I learned

and try to straighten my posture.  

一人リラックスしている時でも

だらしなく楽になることだけをせず、

できるだけ習ったことを実行するようにしているのも

訓練のおかげかなと思ったりする。

When I am alone even it is relaxing time for me

I try not to be untidy and just to be cozy,

I am trying to practice as possible as I can

to excuse the learning,

those efforts I try to do must be resulted from

the training I always appreciate for.

 

『立つ鳥、後を濁さず』

に現れている人がいたある場所を去る時、

まるでそこにその人がいなかったように

そこいた痕跡を残さない。

“A bird about to fly away, no turbulence left behind”

this proverb representing that

a person leaves from where oneself has been,

the one left nothing to trace as if the one never been there.

 

この諺は私が作法の細かい手順を忘れた時でも、

どう作法を行うかの基本の定めや決まりを教えでくれる。

This proverb teaches to me that

even when I forgot detailed procedure of manners,

it gives me clue to find

such as the basic regulation and rules

how to perform courteously.



Reference link:「威儀即仏法、作法是宗旨」

https://s.webry.info/sp/oryouridaisuki.at.webry.info/201604/article_28.html

 

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Combustion of frame-Combustion of mind炎の燃焼―心の燃焼

2018年10月22日 17時24分31秒 | 坐禅

心に炎のように燃え上がっている

情や念があるとしたら、

それらを燃やし尽くし

無くせることができるだろうか。

If there is emotion or thought

like flames that flaring up in mind,

will it be able to be burned out and eliminate it out?

 

炎は燃える素材の物質と

炭素原子が結合するための促進剤である酸素、

燃える温度に瞬時にさせるライターのような引火道具、

これら3つの要素が同時に作動すると、

忽ち炎になり燃える作用が起動し始める。

The flame starts to ignite simultaneously

when three elements operate at same moment

with a burnable material and oxygen

which to be combined carbon atoms as an accelerant,

also with an ignition tool like a lighter

which can make burning temperature instantly.

 

 

先週末の土曜の夜、

エリックと私は夫の長年の友人宅で行われた

Mulvill’s年間行事ボンファイヤに招待されて行ってきた。

Last Saturday night,

Eric and I were invited to Born Fire party

which held at Eric’s friend house,

the friend who has been friends with Eric for a long time.

パーテイー開催者であるブライアンとペッテイーは

私達がメサチュッセツ州に住んでいた時の

真向かえの家に住んでいて、

毎年10月になると多くの友人を呼び、

裏庭で巨大なファイヤを作る。

Brian and patty who are as the party organizers

live in a house which is across of our previous house

where we lived in Massachusetts.

They invite many friends every year in October

and make a huge fire at their backyard.  

 

去年は風邪のため参加できなかったが、

今年で2回目の参加になった。

Last year I was not able to participate

because of a cold I had,

and this year was my second time for the party.

ブライアンとペッテイーのボンファイヤパーテイーには

多くの人が来るので、

ただ2回目だけなのに

もう知り合いが何人かできて気楽に話せた。

Many people come to Brian and patty’s party,

so I could make some acquaintances

even it was just second time for me

but could talk with them comfortably.

 

彼らは車庫用のガレッジをカフェ風に変えて、

毎週末には何かしらの小さなパーテイーを開いている。

They changed car garage to a café style

and the café often opened for small sized somewhat parties

on every weekend.

そのパーテイーにはレトロなジュクボックスから

テンポの速いノリノリの音楽が常に流れ、

主催側のペッテイーが作った料理と

参加者達が作って持参してくる多彩多様な食べ物や飲み物があり、

皆各自の好みで取って食べたり飲んだりできる。

At the party, there always high tempo moody music

from a retro juke box

and there are lots kinds of foods and various drinks,

the foods which cooked by organizer Patty

and others brought from participants

so, people can take free to eat or drink in way they prefer.

 

彼らの広い裏庭には

ボンファイヤ用の大きな火処が作られてあり、

燃やすための木材が高く積もってある。

In their large backyard there is a big fire place

which has had built for just fire and woods to burn are piled high up.

 

ブライアンは火の維持担当で、

ペッテイーは来客の接待をする。

Brian charges of fire maintenance

and patty entertains gusts.

息子さんのブレッドはガレッジカフェの中で来客を迎え入れ、

娘さんのブリジットはあっちこっち回りながら

一人ずつ談笑したりしながら忙しくしている。

Brad who is their son welcomes in guests in the garage café,

Bridgette who is their daughter making herself busy

to runs around all the spots

for chatting with everyone and make gusts laughing.

 

ブライアンが作る炎は燃え上がりの勢いが良く、

毎回タイミング良く木材を付け加え、

常に新しい火の模様を作る火の達人でもある。

The flame Brian makes it has a good momentum to kindling

and adding firewood with a good timing at each moment,

also he is the expert who can create a new flame pattern.

エリックと私はガレッジの中で人と話すよりは、

裏庭の外で火の回りほとんどいる。

Eric and I prefer to be outside backyard

than talking in inside of garage

and we are mostly flocking around the fire.

火の回りにはエリックの昔からの知人と

まだ知らない人が群がっているので、

私達は用意された椅子に座ったり、

立ち話をしながら体を温める。

At the fire place there are some groups

some of them are Eric’s friends for a long time

and others are not known yet,

so we sat on a chair which was prepared already

or warm up body while enjoy the standing talking.

 

私は初めて参加してから

ブライアンが造る炎をじーと見るのが好きになった。

Since I participated from the first time,

I became fond to gaze at the flames that Brian creates.

炎が燃えて、

木が溶けて灰になっていく過程をただ見ていると、

情熱のような感情が燃えて消えていく過程を

見ているような気になる。

When I look at the process of flames that are on fire,

the firewood gets melt down and it became ashes,

such processing makes me feel a similarity

like see a passion or emotion gets burn and it disappears.

 

昨夜は炎を見ながら、

私の雑念も炎になり、

その炎が灰になって消えていけたらと願った。

While I was watching those flames,

I wished that my unnecessary thoughts

become flame to be ashes and it could disappear.

 

また、炎が燃えて消える過程を見ながら、

坐禅の心構えである

『身の回りの事情に執われることなく、

真実の在り方を見極める』

教えの一つについて考えた。

To add, while I was also watching

the process of flames is burning out and it disappears,

I thought about one of zazen teachings

for guide as a mindset that

“Not to be taken by one’s belongings,

probe to make sure the way of truth should be”

 

炎は材料、酸素、燃える温度

これら3つの要素が同時に揃えば燃え始める。

Flame begins to fire at the moment

when those three elements are aligned

such as materials, oxygen, a certain burning temperature.

一旦、燃え始めると

水の他にその強烈な燃焼運動を止めることは無い。

Once it on fires,

there are no other things that can stop the intense burning except water.

その炎が燃え尽くされるまで待つしかない。

There is no other choice but only waiting until the fire burns out.

 

人の心の中で炎のように発火する要因があるとしたら、

燃える素材で言い換えられる感情や念、

燃やせる発火作用で言い表せる動機や起因、

意識できないが行動を起こす原動力である無意識を

酸素の働きに例えることができる。

If one’s mind set on fire

like burning flame triggered by something

and if there is a cause factor,

can replace some metaphors such as

a notion or thought as a burnable material,

a motivation or cause to express as a trigger

or an ignitor to set on fire,

and the unconscious that cannot be conscious

but it works as a driving force

to behave as the oxygen function.

それらの感情や念、

動機や起因、

無意識の連動等が炎のように引火されると

心の中で燃焼し始める。

Those emotions or notions,

motivations or causes,

linkage unconsciousness

if it is ignited like flame of fire,

those begin to burn in one’s mind.

 

それら火の動力は強引に焼却しない限り、

材料が燃え尽くされるまである程度の時間を必要とする。

Also, unless forcibly incinerate the dynamic force of the flame,

it needs a certain time to burn itself out.

 

 

誰が言ったか覚えていないが、

真の情熱は

『炎になって燃え尽くされた後でも生き延びる木の根のようなもの』だと言っていた。

I do not remember who said that

a true passion is like tree’s root that will survive

even when after the flame is completely burned out.

坐禅の坐る行為は

心の中で燃え上がる炎のような情や念に、

燃える絶対条件である酸素の供給を止めることに

似ているかも知れない。

The act of zazen may be similar with an action in mind

like the way of incineration against burning emotion or notion

and it is under controlled by stopping oxygen supply

which works as absolute condition to burning.

 

酸素が無くなったら水で強制に止めなくても、

自然に、尚且つ静かに焼却できる。

If oxygen runs out,

the incineration naturally stops quietly

without forcing with water.

 

その炎の後でも生き延びる真の情熱のように,

真の坐禅の行為は

情や念が狂おしく燃え上がった後でも、

その燃えてた痕跡である灰も消えた時でも、

生き残っている自我の生命力のような

真の力であろう…

Like a true passion which survives even after burned out,

a true act of zazen is like can survive

the crazy flame of emotions or notions in mind burned all out

and even the remained ashes disappear,

even when the flames marks to trace also long gone,

the true vitality of zazen is still be there

as like a true force of ego…




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Sweeping of healing, Zen-Sweeping掃く癒し―掃禅

2018年10月15日 19時55分02秒 | 坐禅

アメリカの北部の冬は早く来る。

Winter comes earlier to northern America.

毎日のように木々の葉っぱの色が変わり、

乾いた葉っぱが雪のように降ってくる。

The color of the trees changes as every day passing by,

the dried leaves come to fall like snowflakes.

 

庭の落ち葉掃除は冬支度の一つで、

雪が降る前に掃いておかないと

雪かきの時に大変なことになる。

Sweeping fallen leaves out is

one of preparations for coming winter,

if don’t do it before snow,

the snow shoveling work will be hard.

その落ち葉も定期的を掃いておかないと、

絶え間なく落ちてくるので

その量が膨大になり

道が落ち葉で埋もれてしまう。

Unless sweeping regularly

the amount of leaves will be enormous and

drive way also be berried with fallen leaves

because they fall constantly.

 

週末は雨が降らない限り、

庭の仕事をする。

As long as not rain,

we do garden works on weekends.

夫は力仕事の芝刈りをやって、

私は箒で庭を掃き、

竹で作られた大きな熊手で

芝生の上の落ち葉を集めて

60ℓ袋に入れておくと

夫がその重い袋を運んで

裏庭の密林に捨てる。

My husband charges muscular job like lawn,

I do sweep floor gardens with a broom,

gathering fallen leaves on lawn either

with a big rake and

put them into in a 60ℓ bag,

then my husband carries the heavy bag

to dump in the backyard where forest densely.

 

落ち葉を掃くと、

心の落ち葉のような余計な雑念も

掃く行為で掃いて飛んでいくような気がする。

When I sweep the fallen leaves,

I feel like my unnecessary idle thoughts 

such like fallen leaves, also would have swept away

by action of sweeping.

 

掃く時のそのサッサーという箒の音

The sound of broom like sha-shsa- when I sweep.

落ち葉が擦れ合う時のザーザーという季節の音

The sound of season like zha-zhza-

 when fallen leaves rubbed each other.

そのサッサー、ザーザーという音と共に

心のざわめきも一緒に掃いていかれる感じがする。

With such sounds of sha-shsa, zha-zhza,

I feel like the buzzling sounds in my mind

also be swept out and taken away from me.

 

掃き仕事は体の筋肉を無駄なく全部使うので、

10分も経たない内に汗が出てくる。

To do sweeping work,

it uses all body muscles efficiently,

so start to sweat in less than 10 minutes.

ここに移住してから、

気候が変わったことから生じた気管支系の疾患に

悩まされているが、

掃いている時は

体の病気も忘れ、

落ち葉を無くすことだけに

注意の全てが向く。

Since I immigrated here,

I have been suffering from bronchial disease

resulted by the climate differences

from where I have been

but when I sweep,

I forget my sick body and

all my attentions are focuced onto 

removing fallen leaves.

 

そうしている内に、

掃いていること自体すっかり忘れて、

掃かなければならないという目的も

意識に昇らなくなる時がくる。

While I do it,

the time comes to be able to forget sweeping act itself,

the conscious purpose of must sweep,

it no longer comes up in my mind.

気がつくと落ち葉を見るだけで

体が自然に動いてくれる。

Noticing my body moves spontaneously,

just by looking at fallen leaves.

 

見ては掃いて、

掃いた落ち葉を集めていく。

As I see I just sweep it out,

gathering filed leaves which I have swept.

そのように意思を介入せず、

ほぼ無意識的にやっていると、

坐禅の無念無想の教えに

類似した状態になる時がある。

As I am doing it almost unconsciously,

the time comes

be able to get into a similar mental state

with a zazen teaching that

think nothing and imagine nothing,

without intervene of will to do so.

 

つまり、

念じることや想いを巡らせることのない

ある種の無思考状態に入れる。

In other words,

be able to get into a kind of

nothingness of thinking and burdened affection.

 

 

坐ることで得られるとする何かの利得を求めず、

ただ坐ることで

何かが自然に為されていくその過程が

理解できるようになる。

Be able to understand that

a processing of something being done spontaneously

as it should be by just sitting

without seeking expected advantage that

would have attached by doing zazen.

 

また、掃く行為を通して、

瞬間だけだったが自分の病を忘れ、

心配ことを忘れ、

心の憂いを忘れ、

願望や希望さえ忘れていることに気がつく。

Become to realize throughout sweeping action,

I forgot my own illness

even though it was just a momently,

forgot my worries,

forgot my gloominess in my mind,

even forgot my desires and hopes.

 

ある程度、その一定した行為の流れに慣れてくると、

自分が落ち葉を掃いているとの自覚が消える時がくる。

If gets used to the constant behavior flow,

along with the time I spent

be able to reach to a certain point that

even the awareness of sweeping be able to disappear.

掃いている私という物質的な存在は

空気のようになり、

落ち葉が無くなった結果だけが見えてくる。

Be able to see the result only that

fallen leaves are all gone and

I who is sweeping which as a material presence

becomes like air.

 

労働後の肉体的な疲れも体の中に長く停滞せず、

一休みを入れるだけですーと抜けていってくれる。

The physical fatigue after labor

will not stagnate long in the body,

it also comes out smoothly

by taking a short break.

心に積もってあった憂いも

落ち葉と共に掃いていかれたことを

後になって気がつく。

Realizing when after things have done,

the gloomy which has filled up in my mind

was also swept out with fallen leaves.

 

閊えていた憂いが無くなることを

癒しだと定義するならば、

閊えている何かをただ掃けばことが済む。

If defines healing meaning as

the symptom would be healed

when blocked barriers eliminated,

in the same way,

things be able to set

when just swept it out.

 

ただ坐ることが目的で手段であれば、

それを為すことでことが済む。

If just sitting is as a goal or it is also as a mean

then the thing will be set by behave it.

 

癒しの過程や無念の状態に辿る着く過程は

ただ想うより遥かに簡単かもしれない。

The process of reaching to be healed

or be able to to get into nothingness of thinking,

maybe it must be much simpler than just thinking.




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Cooking of honesty and superficial本音と建前の料理

2018年10月09日 22時44分14秒 | 人間関係

本音と建前は人との関りの中で

料理しなければならない材料である。

Talk honestly and superficially stated talking

are like cooking ingredients that

should be cooked to have a connection with people.

 

思ったことや感じたことを

そのまま言葉にすることを本音だと定義すると、

食材を加工せず

そのまま食すことに似通っているかもしれない。

If define talking honestly meaning such as,

saying straightly what one thought or how the one felt,

it might has put similarity like eating as it is

without processing the ingredient.

 

建前を表向きに望ましいことを

自らの想いや感じに反して言うことだと定義すると、

食材を加工して

本来の渋味とか苦みとかを取り除いた料理法に比喩できる。

In the same way,

if define official talking such as,

saying contrary to be desirable

against what one thought or how the one felt,

it might has put a metaphor like a cooking method that

removed ingredient’s astringent or bitterness

by processing the ingredients.

 

人と関わっていく中で、

自分の本音、

本心をどう表すかは人格の良し悪しに直結する。

In the process to involving with people,

the thing that how express one’s true intension

or true thinking isdirectly linked to

how the one’s personality good to be or not.

ある程度の年齢に達した人が、

全て本音で貫くとするならば、

その人は孤立されるか、

或いは敵を作ってしまい

人はその人から遠ざかるようになるだろう。

Someone who has reached to aged appropriately,

if the one tries going through with true intension at all,

the one will be isolated or happed to make enemies and

people will be away from the one.

 

しかし、建前だけの人間関係を作ってしまうと、

当たり障りの無い安全な関係になるかもしれないが、

その人に本当のことを言う人がいないがために

孤独になる可能性が高い。

One the other hand,

if someone makes relationship with people

superficially related only,

it may can be safe without harm or offensive

but there is high possibility of to be lonely

because nobody tells a true to the person.

建前のことしか言わない人に、

誰も本音で接しないと思うだろうし、

その人が言っていることに

信用性が無いと人は判断するだろう。

People would not want to be connected genuinely

with someone who always says superficially only,

and people would judge that

the person doesn’t have a credit on what has been said.

 

私は馬鹿正直な面が多く、

どちらかと言うと、

勢いに任せて思ったことを言って

後で後悔するタイプだ。

I have many stupidities on honesty,

to say which am I,

I am the type of person who regrets later

about what I have said my thoughts with my momentum.

その傾向が原因で人の気分を害したり、

人との縁を切られたりしてきたが、

だからといって建前を言うと

後味が悪くてそれがストレスになる。

Such tendency of mine sometimes harms people’s mood or

made me broken out by someone

but even though in case I said just superficially,

it became taste bad and turned to stress.

 

その不協和音から考えると、

私は本音と建前の料理が上手くないがために、

人は私の言葉表現の料理をおいしく食すことが

できないことになるのかも知れない。

Considering such dissonances I made,

it may be caused by my inability

to cook honesty and superficial

so that people are not able to deliciously eat

my cooking of expression language.

 

 

料理をしていると、

味の決め手になるのは塩であると分かってくる。

When I cook,

I come to find the deciding factor of taste is salt.

良い塩は全ての食材の味を統制し、

火力の度合いや水との加減を

仲良くなるように仲介する。

A good salt controls all ingredients taste,

and it intermediates to go along well

with the degree of thermal power and with condensation.

 

塩は食材の分子構造を変え、

新たなうまみの結晶を作り出す。

Salt changes ingredients molecular structure and

crystalize a new flavor.

まずい料理は大概、

塩の分量が適切でないため何かが足りない、

何かが多すぎるがためにできる結果である。

In general, most of bad tasted dishes

resulted by the salt amount and

when it is not appropriately used,

the taste will be like lack something or

something is too much.

 

私は本来、

料理嫌いだったが、

塩の加減の力に魅せられて料理が楽しくなった。

Originally, I didn’t like cooking

but since I have been attracted by the power of salt

the cooking became fun.

料理をする時には、

ある特定の量の塩と

食材に含まれている水分の量が結合して作り出す

味の加減を実験しているような気分で挑んでいる。

When I do a cooking,

I feel like I am challenging an experiment that

finding out an adjustment taste that

resulted by a certain amount of salt,

creating a favor the salt combined

with contained moisture in each ingredient.

 

塩を振りながら、

この塩がもたらす結果に期待し、

味わってみて

私が使った塩の量と出来上がった料理の味を

比較分析できる実験A、

実験Bのようにデーター化している。

While I shake salt,

I expect a result that

the salt would have brought up a certain taste

and when all the ingredients have been done,

I converted it into my data bank

to analyze the amount of salt I used and

the taste I get

as an experiment A,

Experiment B to compare each case.

 

私の料理を味わいながら、

塩加減のちょうど良い料理のような

人間関係になれたらなと想いを広げたりする。

Tasting my cooking,

I sometimes spread an imagination that

wishing to have a good relationship with people

like a good dish which has a well-balanced salt.

人間関係は塩加減のように、

本音と建前もちょうど良い加減の比率が

きっとあると思うが、

私はまだ確実な比率が分からず、

試行錯誤を繰り返しているような気がする。

Human relationship is like the salt ratio,

I believe there must be a certain ratio

to be honesty and to be superficial in a good way

just like salt does,

but I don’t know the formula yet

so feel like I am repeating trials and errors.

 

人間関係で塩的な要素が足りないと

まずくて満足に食べられないから、

人は砂糖を使う。

When salt like element lacks in human relationship,

it is like a dish

which unable to eat satisfactorily so people use sugar.

 

砂糖は使い過ぎても食べるのに問題が生じない。

Sugar doesn’t make problem to eat

even though it used too much.

だが、砂糖を食べ過ぎると

内臓系がやられ癌や成人病につながる。

However, taking too much sugar

causing cancer or aging related diseases

because organs get harmed.

 

建前は砂糖のように、

食材本来の味を誤魔化し、

全て甘い味に仕上げてしまう。

The superficial is like sugar,

it deceives original ingredient taste and

finishing up all taste sweet.

その甘いだけの味に慣れてしまうと

体を温める辛い味や体を癒す苦みに耐えられなくなる。

If someone gets accustomed sweet taste only

the person would not be able to endure such like,

the hot spicy taste which can warm up body temperature or

the bitterness which can heal body.

しかし、甘みの無い料理はそれも食べるのに楽しくない。

However, the dishes no taste of sweetness,

it is not fun to eat.

 

本音と建前は塩と砂糖のバランスのように、

他人と自分をどう上手く結合するかが

人間関係を上手く料理できる業でもあろう。

Honestly saying and superficially saying

are like salt and sugar balance,

it would be also like

a deed for cooking well for human relationship

how combine oneself with others.



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Our routine in US①アメリカでの日常①

2018年10月03日 15時35分50秒 | 住まい関連

We moved into Connecticut

from Massachusetts in May last year.

私達夫婦がメッサチュセッツ州から

コネチカット州に引っ越してきたのは去年の5月だった。

 

家は外壁が木でできていて築26年が経っている。

The outer wall of my house is made of wood

and it is 26 years old.

敷地は約1エーカー

家を囲んで木々が茂していて、

よく設計された四面の庭に囲まれている。

House site is about 1 acre,

house is surrounded by trees and

also it has well designed four-sided gardens.

 

この家の元オナーは高齢のため、

カリフォルニアの介護施設に移転していうようだ。

I heard that this house’s former owner

moved to a nursing home

where at California due to her old age.

元オナーが設計した庭の手入れをする度に、

彼女がこの家を建てた時は

この家を手放す気が全く無かったような気がしてくる。

Whenever I take care these gardens

which the former owner designed,

I assume that when she built this house

provably never thought about selling her house to someone.

 

彼女の庭の設計から考えると

この家で死期を迎えることを視野に入れていたような気がする。

My guessing of her life plan in this house is,

she might have planned to live in this house

until she dies when I see her garden design.

四季の変化によって、

毎週違う花が咲き、

冬でも枯れない木を植えている。

Different flowers bloom every week

by four seasonal changes and

she planted trees which do not blasted in winter.

 

この家に住み始めてから、

キッチンは完全に改造したが、

他は元オナーが建てた間取りを変えず、

そのまま使っている。

Since we began to live in this house,

kitchen was renovated completely

but we are still using the others

as the former owner built without remodel floor plans.

キッチンは私がデザインしたが、

施行は専門家にしてもらった。

I designed kitchen,

but the enforcement was done by experts.

 

日本の普通の職人さん風は、

白いタオルを頭にかぶり、

作業着を着て耳には鉛筆を差し込んで、

愛想よく挨拶をするが、

The style of ordinary Japanese craftsman is,

 puts around white towel on his head,

wearing working clothes and

 putting in a pencil on top of his ear,

and greeting with agreeable friendly way.

アメリカの職人さんは野球帽をかぶり、

ジンーズのポケットにスマートフォンを差し込んでいる。

But American craftsman style is,

wearing a baseball cap,

in their blue jean pocket putting in a smart-phone.

 

日本の職人さんのように

愛想よく挨拶してくれた職人さんに今まで会ったことがないので、

形式的な無愛想の挨拶がここの主流かも知れない。

I have never met an American craftsman

who greets like the Japanese craftsman’s way of agreeable friendly so,

I guess those formal with a bit bluntness greeting way

maybe it is the normal attitude in US.

 

 

アメリカの週末は日本の都会と全く違う。

The weekends in US are quite different from cities in Japan.

朝は誰かの芝刈り機のエンジンの音で眼が覚める。

In the morning, someone’s lawn mower engine sound wakes me up.

芝刈り機のエンジン騒音に解放されるのは雨の日だけだ。

Only rainy days can be freed by the lawn mower’s engine noise.

 

夫は私よりずっと早起きなので、

私が2階からの階段を下りていくと必ず、

“Good morning”と挨拶してくる。

My husband always gets up much earlier than me,

when I go down stairs from second floor,

he always greets to me “Good morning”  

愛想の極端的に悪い私は“Au...”か“ふーん”だけの返事か

全く返事さえしないかだが、

私が返事をしてもしてくれなくてもきちんと挨拶してくれる。

I, the one who with the extremely bad manners

say that “ah…” or “grr…” only or else,

I even don’t reply but weather I do greeting to him or not,

he always does greet neatly and politely.

 

週末になると昼過ぎにブランチを摂る。

On the weekend, we take a brunch after noon.

シナモンパンケーキとシロップか

パンをバッターで焼いて卵焼きを添えたメニューがメインだ。

The brunch main menu is cinnamon pancakes with maple syrup

or baked bread with butter aside egg fries.

 

週末になると夫は雨が降らない限り、

庭の芝刈りや庭の手入れをする。

On weekends as long as not rain,

he takes care of garden or lawn.

彼が庭仕事をする時に来ている服は

30年以上着込んでいてもうボロボロになっているが、

彼はその穴だらけの服を変えようとしない。

When he does garden works he wears the cloth

which has been wearing over 30 years

and it is worn out terribly,

but he never wants to change the holey clothes.

その穴だらけの服が着心地いいと言っている。

He says the holey clothes is cozy to put on.

 

アメリカの男子なら必ず芝刈りをしているか、

芝刈りのバイト経験があるようだ。

It seemed that an American man does mow lawn,

or he must have experienced mown part time job.

 

夫とドライブをしていると

庭の手入れが整った人の家には絶賛し、

芝の手入れをしていない人様の家は怠けていると文句を言う。

When we drive,

he sees someone’s yard work and

if it is neatly done he gives great admiration to the worker

but if the yard is not done properly

he complains the worker’s laziness.

同じ景色を見ても

夫は人の人様の芝刈り様子をチェックし、

私は都市設計の様子を見ている。

Even though we see same scenery

my husband checking someone’s lawn mowing

and I see the city’s urban design.

 

芝生はアメリカ男子によっては男子聖域であって、

仕事への誇りであって

自分の存在証明のような二次的な意味を持っているようだ。

The lawn mowing is like a manly sanctuary as an American man

and it seems like a man’s proud

also the proof of his existence as secondary meaning.

 

②に続く。

Continue to②

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About life of marriage結婚生活について

2018年09月24日 18時48分02秒 | 生き方

Marriage is a type of group that created by mankind.

結婚は人類が作り上げた集団の型である。

Encountered with a person who has completely different family name,

they make a bond with blood and inherit it to next generation.

全く別姓の人が出会い、

血で縁を作り後世につなげている。

They tie up each other with emotion and

they go to be separated by the emotion.

 

感情で結ばれ、

感情で別れていく。

Marriage is protected by law and

also attack opponent by the law.

 

法律で守られ、

法律で相手を攻撃もする。

It is under controlled by sexual hormone and

when the hormone becomes exhausted,

the love relationship goes to transform

to be just a physical relationship.

 

性ホルモンの支配下におかれ、

そのホルモンの枯渇により、

恋愛関係がただの物理関係に変貌していく。

People who chosen marriage as a ticket

which can take them to be happy

but when they judge they are not happy as they expected,

their marriage become to invalidate

from the status of love relationship into metrical relationship.

 

幸せになる切符として結婚を解釈した人は、

幸せでないと判断した時点で結婚状態を無効化する。

People who chosen to be married with whom has a condition

which is favorable to ensure social status

but when they come to judge such condition breaks down,

the meaning of marriage gets lose.

社会的地位を確保するために選択した好条件相手との結婚は、

その条件が崩れた時点で存続意味を失う。

 

I got remarried in my 50’s.

私は50代に入って再婚した。

 

It might be said properly that

my first marriage in Japan was

as to be a mean to survive if I have to describe it.

日本での初婚は強いて言えば、

生き残るための手段だったと言った方が適切かもしれない。

However, I still have a connection with him like kind of relatives,

so he is still a part of my life.

だが、今でも元夫と親戚のような関係を保っているから

彼も私の人生の一部分を占めている。

 

The first marriage that I have experienced which was based on law,

it seems to make able to take objective point of view

to see my current marriage life with my husband to compare.

初婚で形式的な法律に基づいた結婚生活をした経験があったからか、

今の夫との結婚生活に比較的に客観的な立場をとることができる。

Since I have been married with my husband internationally,

I have been having marriage pattern that

I never even imagined in my past.

夫との国際結婚により、

過去に想像すらできなかった生活様式を送っている。

 

The residential environment has been changed,

住まいの環境が変わり、

The kind of food I eat has changed,

食べ物の種類が変わり、

The language I use has changed,

使う言語が変わり、

The life style also has changed,

生活習慣も変わり、

The people I meet are also have been changed,

会っている人達も変わり、

The scenery I see also has changed,

見える景色も変わり、

The type of stress I take also has changed,

ストレスの種類も変わり、

Even the season has taken differently to change.

季節の変わり方さえも違う。

 

However, things that seems to unchanged yet,

it might be such as subject or phenomenon that I try to know,

the type of know ledge that related with personality formation

depending on my personal tendency.

だが、変わらないと思われるのは、

知ろうとする対象や現象、

知識の種類といった人格形成に関わる性格傾向だけかもしれない。

 

Strange thing is,

the old memory that attached on somewhere in my brain,

it reappears as changed way with a different interpreter,

so it makes me surprised.  

不思議なことは、

脳裏にへばりついた昔の記憶が捉え方を変えて再び現れてくるので、

自らのことながらその再解釈には驚かされる。

 

I have been trying to carry out my belief that

would not be influenced by changeable circumstances,

but it seems to too hard to maintain

because the surrounding conditions of mine have changed a lot.

私は環境の変化に左右されない信念を貫くことを

実行しようとしてきたのだが、

変わってしまった周りの条件が多すぎて、

その信念を維持することが難しくなってきた気がする。

 

Sometimes I wonder if there will be a perfect form of a marriage.

たまに、完璧な結婚生活があり得るだろうかと思ったりする。


Thinking that what is a cause that

makes married people feel their marriage are imperfect

and what idea is rooted for their judgement in their mind.

不完全な結婚生活だと感じる心的背景には何が原因なのかも考えたりする。

 

Also think that what is pattern of thinking to judge

happy or unhappy and determine

which has a value for their mental backgrounds?

不幸だと判断することや幸せだと感じる価値判断に

根付いている考え方は何だろうかとも考えたりする。

 

I might should appreciate for my doing practice zazen-meditation that

made me not to hurry to get a conclusion for those above thoughts.

それらの考えに、

結論に急がなくなったのも

坐禅の修行のおかげかもしれないと思ったりする。

 

Whichever way of marriage types,

if someone tries to get a conclusion in a hurry,

the one loses option to choose for next opportunity

so that the situation gets narrow and suffering.

どんな結婚の在り方にしろ、

結論を早く出そうとすると次に選ぶ選択肢の余裕が無くなり、

状態が狭苦しくなる。

 

I try not to decide assertively as my conclusions such like,

my marriage is happy, perfect or ideal.  

私は私の結婚生活が幸せだとか、

完璧だとか、理想的だとかの

ある断定的な状態に結論つけないようにしている。


Saying these and those like I want to do

but couldn’t do actually what I supposed to do,

such ideas come and go like seasonal change

and I am gazing at those mind changes.

自分がやりたいことをあれやこれや言い、

その言ったことを実際やったりやれなかったりしながら、

想いついたことも季節の変化のように過ぎっていくことを眺めたりする。

 

I guess that many of marriage problems caused by trials that

add extra forces artificially to be as they desired

before something gets solidifies spontaneously.

多くの結婚問題は何かの状態が自然に固まる前に、

余計な人工的な力を加え思い通りにしようとしたから

起こるかも知れない。

 

However, there must be a marriage case

which only can be solved by separated for the best.

だが、ある結婚では別れだけが

最善な解決策になる場合もあるだろう。

Even separated if someone tries to reconstruct their bonds that

they have been having from past,

it is possible for them to find a new form of relation to be.

そうなっても過去に結ばれた縁を再構築していけば、

新たな関係の在り方を見つけるようになるかも知れない。

 

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Relativity theory and Zen-relativity相対性理論と禅相対性

2018年09月18日 14時11分20秒 | 坐禅

相対性理論を理解するためには、

まずエネルギーが何を指しているのかを明確にする必要がある。

In order to understand the Theory of relativity,

it is necessary to clarify what energy is and define it for the first step.

それから質量が何なのかを理解し、

光速の二乗の状態をイメージ化すると

相対性理論公式自体は概ね理解できるに至る。

Secondly understanding what mass is,

and then making an imagination of how the squared speed of light should be,

with those steps

it can lead to comprehensive understanding of the relativity theory equation itself in general.

 

相対性の理論の結論である

『質量はエネルギーと等価である』ということは

何のことを指しているのだろうか。

The conclusion of relativity theory

“Mass is equivalent to energy” what is it pointing out?

 

エネルギー:物体がある仕事をする能力

Energy: the ability of a matter’s work.

 

質量:物体の力学的性質を決める基本的な量

Mass: the fundamental amount of a matter which determines mechanical properties.

 

等価:価値の等しいこと

Equivalence: an equality of a value.

 

二乗:同じ数を2回掛けること

Squaring: multiplying twice of the same number.

 

光の速さ:約300000km/秒、

約3×105km/秒(cは光速3×108m/s)

Speed of light: approximately 186,000 mi/s,

3×105km/ s (c is constant speed of light 3×108m/s)

 

エネルギー E = 質量 m × 光速度 c の2乗であることは

エネルギーは物体の質量に光速度が二乗した値と等しいことのようだ。

Energy(E)= mass (m) × be squared speed of light ( c²)

It seems energy is equivalent to a material mass and value of squared of speed of light.

 

しかし、この公式が理解できて一般人の私になんの役に立つのだろうか。

But how will it be useful for me who as a normal person,

even if I understand this equation at all?

 

限りなく光速に近づくと空間が曲がり縮み、

時間が遅く進み、

質量が増える、

これらが証明されても私の生き方と直接な関連が無い。

When infinitely approaches to the speed of light,

the space is twist and shrinks,

time goes slow and the weight of mass increasing,

even though these may have proved,

they are not related directly to my way of live life.

だが、なぜか私にはその知識に実利が有る無しに関わらず、

絶えない関心を持っている。

However, for some reasons

I have been interested in such knowledge without being bored,

regardless of whether it advantageous or not.

 

ある時期、車の運転をしながら、

もし私が光速でドライブしているなら

周りがどのように変わるかを

ずっと想像してた時があった。

There was time had been imaging that

if I drive at speed of light

how my surroundings would change

while I was driving.

そうしているうちに、

アインシュタインがその公式を出せる前に見ていたイメージは

どんなことであったかについて想像するようになった。

While I was imaging it,

I came up to have an imagination of what was Einstein has imagined

and how was it before he formulated his equation.

 

彼はどのような経緯で光速に関心を持ち始めただろうか。

How did he begin to have an interesting about speed of light?

彼が考えたエネルギーはどのような性質を持ってたのだろうか。

How did he think about energy and how would be the nature of it?

 

彼が20代だった1900代の初期は

主なエネルギー源が石炭から石油に代わっていく転換期で

電気が最先端の技術であった。

When he was in his twenties

the time of early in the 1900s,

the main energy source was about to switching from the coal to petroleum

and electricity was a cutting-edge technology.

 

当時はインターネットで世界が繋がっることは

SF小説的なことであったに違いない。

At that period, connected with worldwide by Internet must be a scientific fiction.

ましてや電話を持ち歩けるなんて考えられなかっただろう。

Much more likely to say must be unable to think could carry a telephone.

 

ウィキペディアによると、

彼はある日、自分が光を追えている夢をみて

それが切っ掛けで光の速度を考えるようになったと書いてあった。

According to Wikipedia,

one day he saw a dream that he was following light

and it motivated him started to think speed of light.

光りを追える夢をみるには、

その前に光について考えていてないと夢に現れることはない。

To see a dream which followed the light,

there is no way to appear of it in the dream

unless have thought about the light before.

もしかしたら、

蝋燭の灯りで少年期を過ごしていた彼が

電気の明るさに刺激されたかも知れない。

Perhaps, he may have been inspired by the brightness of electricity

as a boy who has had childhood with candle light.

 

兎に角、長年、私は相対性理論が何を表しているだろうかと知りたかったが、

知ろうと試みる度に難解な公式説明に必然的にぶつかり、

途中で諦めてしまってきた。

Anyway, for a long time I have been wanting to know

what relativity theory representing,

but whenever I tried to know it,

I had to face inevitably on the esoteric explanation of the equation,

So, I have been giving it up.   

それなのにもかかわらず、

理解したいとの願望が消えなかったことが不思議なほどだ。

Even with such giving up,

it is enough to be wondering for me

because my desire to understand it was not gone.

 

だが、ある日、坐禅を終えてその記録をしていると、

1セッションの40分の時間が

他より相対的に長かったことに気がついた。

However, one day, when I noted my experiencing Zen-meditation

when after I did meditation,

I realized that the one session of 40 minutes was relatively longer than any others.

ゲームをしている40分の時間と

坐禅をした40分の時間は

時間を感じるレベルで相当な違いがあった。

I found that there was a considerable difference

at the level for feeling of time,

in between the 40 minutes of playing a game and doing a zazen meditation.

 

それにゲームに使う肉体的なエネルギーと

坐禅で坐るだけのエネルギーも

大きさの違いはあっても確実に使われていたのだ。

To add, the physical energy which was for playing a game

and the energy which was for just sitting to do zazen

were surely used even though they are different in size.

その気づきから

エネルギーは質量の光速二乗に等価する

との理論がイメージできた。

From the realizing I could image of the theory that

energy is equivalent to the light velocity squared of mass.

 

特殊相対性理論と一般相対性理論は

重力があるか無いかに対する違いだけであるようだが、

いずれにしても

万物の根源であるエネルギーを公式化できたことは

人類にとっても革新的なことであろう。

It seems that special relativity theory and general relativity theory are

only different from whether there is gravity or not,

but in either way,

it is innovative for mankind to able to formulate energy

which is foundation of all matters.

 

しかも光速は全ての人に平等に与えれている速度尺度らしいが、

この世の誰もそれを体感できた人は未だにいない。

Moreover, the speed of light seems to be given to everyone as a scale of speed,

but no one ever felt it or has not yet experienced in this world.

だが、22世紀になれば、

石油のエネルギー源が原子力に代わり、

質量の重さが変われば光速が現実になるかも知れないが。

Although when 22 century comes,

the energy source of petroleum will replace nuclear power,

and if the weight of mass changed, the speed of light may become to be reality….

 

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言語能力と心理的な要素Linguistic abilities and Psychological factors

2018年09月06日 11時54分17秒 | 英語、韓国語

Linguistic abilities and Psychological factors

言語能力と心理的な要素

 

言語習得能力は知能指数IQとどのような関連があるだろうか。

How language ability related to Intelligence Quotient scale the IQ?

或いは、言語能力が高い人は言語の習得に優れているだろうか。

Or, if one has higher capacity at language

then the one can be superior for learning language?


果たして、世界的に最もよく使われるウェクスラー成人知能検査、

児童向けウェクスラー式知能検査は

信憑性や信頼性があるだろうか。

The both versions of Wechsler IQ test for adult and

for children that mostly used in worldwide in common,

do they have   credibility and authenticity as was expected?


教育を受けた人なら何種類かの知能検査を受け、

その数値がIQ平均値100を基準に高いか低いかの偏りに属される。

Whoever have educated,

they might have taken some kind of IQ tests and

they must be belonged in a deviation with their numerical value

which is inclined to a higher or lower disposing

from the average number of criteria 100.


人によっては与えられたIQ指数で自分を同一化する場合もあれば、

数値に関わらず、自らのペースで学習をする人もいるだろう。

Depending on personal tendency,

there are some people who identify themselves

with the given numerical value of IQ,

but some people they will learn at their own pace

regardless of the IQ value.


いくら数値が平均より高くても、

置かれた状況に順次に反応できなければ

その数値はその人にとって妥当ではなかろう。

Even though the numerical value is higher than average,

if someone can’t react sequentially to the situations at a circumstance,

the IQ value would not valid for that person.


私は3つの言語使用に不自由しないが、

決して平均より高いIQ数値の持ち主ではない。

I am not destitution in using three languages,

but I never have higher IQ than average.


『IQが高い人は言語習得に優れている』と仮定するなら、

同大やハーバード大学の学生は複数の言語を話せる結果になるだろう。

If there is a hypothesis

『People with high IQ are excellent at language acquisition』for take an example

then the result would say that

students at Tokyo University and Harvard University

must be able to speak multiple languages.


言語能力とIQとの関係を調べた調査では、

二つ以上の言語をマスターすると

3つ目の言語を習得することがより簡単になるようだ。

A survey about how related with language ability and IQ,

it accords that if master two or more languages

then the third language will be easier to master.


その私個人的な例として、

日本で興味本位に、

英語で質問されたIQ検査を受けてみたら

韓国で受けた検査の結果より高かった。

As a personal example of my case,

when I lived in Japan,

I tried some IQ tests

just out of my curiosity and interesting,

I have taken some IQ tests which was in English

the result was higher than the one I took in South Korea many years ago.

ニュースやドキュメンタリーを聞いて理解するのに、

ここアメリカでは2年もかからなかったが、

日本では3年以上かかった気がする。

Also, the understanding of news and documentaries by listening,

here in US it took less than two years

but at Japan I feel like it took more than three years.


また、普通の思想関連の書籍を辞書無しで読み通読するのに、

2番目の言語日本語では3年以上かかったことに対し、

3つ目の言語である英語で書かれた書籍は2年くらいしかかからなかった。

To add more examples,

it took more than three years for me to read-through

some philosophical publications without using dictionary

which was written in Japanese as my second language,

but for my third language of English,

the understanding of the books only took 2 years.


これらの個人的な言語習得経験から分かったことをまとめると、

To summarize what I learned through out these personal experiences

to acquisition of languages,


①     二つ以上の言語を使用するようになると知能も高くなる

Intelligence capacity gets higher as become to use more than two languages.

②     二つ以上の言語を使えるようになると3つ目の言語習得過程が短くなる

When be able to use more than two languages,

the third language acquisition processing becomes getting shorter.

③     多言語を話せるようになると事柄の理解力が高まる

When become to able to speak multiple languages,

the understanding of subject matters will increase.

④     ストレスに対する対処能力が高まる

The ability of coping stress will increase.

⑤     問題解決能力が高まる

The ability of solving problem will increase.

⑥     問題に機敏に対抗できる

Able to content with agility to a problem.

⑦     問題を見る視点が多角になる

The view point sees a problem become to have multiple angles.

⑧     覚醒度合いが高い状態を維持できる

Able to maintain awareness highly.

⑨     集中力が高くなる

Concentration becomes high.

⑩     不可能な事柄から可能性を見つける頻度が高くなる

The frequency of finding possibility gets higher from the impossibility.


上記に挙げた項目は個人的な経験に基づくデーターにすぎないが、

知識関連の仕事をする人達からも共通点が多く見られる。

The listed above subjects are merely personal data

based on individual experiences

however, there are many similarities in common

from people who work on related with intelligece kinds.



これらのことから考えられる仮定として

As a possible assumption to be thought from those,


①     もしかしたら、言語能力は『言語をどう思うか』によって

その習得効果が変わるかもしれない

Perhaps, a language capacity depends on

『how to think about a language』

and the efficiency for learning

it will change by the thinking way.

②     自分自分の能力に対する心理状態によって、

言語を習得していく過程が短くも長くもなる

By the mental status of how to grasp one’s ability,

the process of learning language gets longer or shorter.

③     言語は心理状態と密接なかかわりがある

Language intimates closely with mental state.

④     自信感と自尊心は言語習得能力を高められる

One’s confidence and self-esteem able to enhance language acquisition skills.

⑤     一つの言語を習得した成就感は二つ目の言語習得に掛け算になる

The fulfillment of acquiring first language

will become multiplied for learning second language.



ではどうすればそれらの言語習得能力を高められるだろうか?

Then how can we improve advance such learning capacity of languages?



言語習得の鉄則:学習の質より学習の量をこなすことに重点をおく

The ironclad regulation of language acquisition:

Emphasis on the amount of learning rather than the quality of learning.


効果的な言語習得の基本要素

Fundamental elements for effective language acquisition.


①     基本を知る

Know the basis.

②     基本に慣れる

Get used to the basis.

③     基本をこなす

Do completely the basis.

④     基本を使う

Use the basis.

⑤     基本を応用する

Applicate the basis.

⑥     基本を増やす

Enhance the basis.

⑦     基本に他の例を加算していく

Add other examples to the basis.

⑧     基本を見抜く

Point out basis.

⑨     基本を見つける

Find basis.

⑩     基本に徹する

Go through the basis.


しかし、上記のやり方を実践したとしても

それらの結果を得られるのに3年以上はかかる覚悟が無いと、

途中で挫折し諦めることになりかねない。

However, it is possible to failed or be setback

and may lead to quit in the process,

even though actually practiced above-mentioned ways

unless the one has a mindset that

taking three years at least to get those results.

何ことでも最低3年はかけてみると、

その結果や過程が見えてくるので、

焦らず毎日量をこなすことが言語習得の肝要であろう。

For anything to visualize such processing and getting results

it takes at least three years,

so the vital point for language acquisition is

do amount every day

without being rushed.

 

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トランプさんを表す用語Terminology to describe Mr. Trump

2018年08月27日 09時14分20秒 | 住まい関連

指導者にとって

持っていなければならない

ただ一つの絶対的な条件があるとしたら、

それは何だろうか。

If there is only one absolute requirement that

must have as a leader, what would it be?

 

日本の実業家であった松下幸之助さんは

上記の質問に以下のように答えた。

Mr. Konosuke Matsushita,

a Japanese businessman,

answered the above question as follows.

“(前略)…それは、自分より優れた人を使えるということですな。

そう、これだけで十分ですわ”

“(Approximated)…well, that is how can use person

who is excellent than the employer.

 That’s it, that is only enough with it.”

 

自分より優れた人を使える能力、

しかしそれが絶対必要条件だろうか。

The ability of how can use excellent person than the one,

but is that the absolute requirement in need?

 

また、「リーダーとボスの違い」について

ルーズベルト前大統領は次のように言った。

Also, former President Roosevelt once said as follows

about the difference between leader and boss.

“リーダーの仕事は開かれているが、ボスの仕事は隠されている”

“The work of leader’s is opened but the work of boss’s is hidden.”

“リーダーは導くが、ボスは強いる”

“The leader leads, but the boss forces”

 

今、アメリカではトランプさんが国の代表である。

Now, Mr. Trump is the representative president for United States.

彼に指導者の力量があるのだろうか。

Does he have competency as the leader?

 

彼は国民から与えられた大統領としての地位に相応しく、

指導者としての使命を果たせているのだろうか。

Can he fulfill his presidential missions appropriately as the leader,

with the status which was given by the people?

 

彼の政策の主なポイントは不法移民の追放、

移民への差別的な法律待遇などで人種を区別し、

格差をつけることがメインになっているように見える。

He seems to be seen his main political policy has been set,

deportation of illegal immigrants,

divide races by legal discriminatory treatment for immigrants

and set up to be disparities.

 

国の敵を味方にし、国の味方を敵にまわす。

Antagonize country enemy to his ally, make an ally to country enemy.

 

かつてのアメリカ大統領に共通して持っている品格や品位の欠片の無い言動を公で見せている。

His behaving and speech such as have been shown in public

are perfectly lacking novelty or dignity

which former Presidents of Unites States had in common.

ニュースは彼の言動についての批判が相次ぎ、

過去に彼が犯した犯罪が黒幕を明けている。

News has been criticized on his behave one after another,

the crimes he committed in the past

have been opening behind the black curtain.

 

以下は世論や報道関係で使われているトランプさんに対することばである。

The following are using words for Mr. Trump in media and press.

堅苦しい論文調や長々の説明文より

単純な形容詞や名詞一個のほうが

彼の在り方を表すのに的確かもしれない。

A simple adjective or a noun

may be more accurate to represent his way to be

than any other ritualistic thesis or long explanatory texts.

 

Racist    人種差別主義者

Hatred, hate  憎しみ、憎い

Dangerous   危険な

Worst     最悪

Narcissistic   自己陶酔的な

Bully      いじめ

Ignorant    無識な

Violence    暴力的な

Bigotry     偏屈(頑固な偏見)

Evil      粗悪の

Fickle      気まぐれな

Sleazy    いかがわしい、みすぼらしい、薄っぺらな

Creepy     気味悪い

Disrespectful   無礼な、失礼な

Insensitive    無神経な、鈍感な

Shady     うさんくさい

Liar       嘘つき

Hypocrite    偽善者

Idiot      まぬけ

Idiotic     ばかばかしい、まぬけで

Dishonest    ごまかしの、不正直の

Childish    子供じみた、おとなげない

Disloyal    不義の、不忠の

Sad      悲しい

Shameless    恥知らずの

Inconsistent   無節操の

Fraudulent    詐欺的な

Unfair     不公平な

Boastful     自画自賛の、自慢げ

Unfaithful    不貞な、不実な

Anti-intellectual   反知識的な

Unscientific    非科学的な

Injustice     不正な、不法な

Incompetent    無能な

Arrogant      傲慢な

Egotistical     身勝手な

Egoist       利己主義者

Unqualified    不適任な、適してない

Unfit       不向きで

Clown       道化師、おどけ者、ピエロ

Disgusting     うんざりする、嫌な

Criminal Enterprise  犯罪企業

Only royal to himself  自分だけに忠実

Wife-cheater      妻騙し

Secrecy of evidence 証拠秘密

 

上記のようなことばは教科書に出ていなかったから、

分かるのにグーグル通訳を使った。

Above words are not in the text book

so, I used Google translation to understand.

 

オバマ大統領の演説は日本の高校生の英語教科書に載っているのに、

トランプを表す単語はスラング語録に含まれる。

President Obama’s speech is printed in Japanese high school textbooks,

but the words representing President Trump is included in a slang list.

 

彼はFox ニュースのインタビューで自分自分に誇りをもっていると言った。

He said at FOX News interviews that he has pride himself.

彼の言う誇りは国民が決めることであって

彼自身が自称すべきではないと思うが…

I think that the pride he says is,

it should be decided by people and it should not calling it to himself…




追記

Zさんへ:恐山のブログでZさん宛てに次回の記事を母性関連にすると言いましたが、書いてみたら、自他に関わらずどうでもいい内容になったので放棄しました。自らのことば発信に対し裏切る結果になってしまいお詫びします。母性関連の記事にできない事情はZさんは理解頂けるかなと思ってはいますが...

 



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