あるところに、由緒正しい修行道場がありました。その道場は深山幽谷の中で何百年もの間、宗祖の定めた修行を守り続けてきました。
ところが、戦後、高度成長が始まり、日本人が次第に豊かになり、旅行やレジャーに金と時間が割けるようになると、この道場にも多くの「参拝者」「観光客」などの来訪者が押し寄せるようになりました。
そのうち、テレビや雑誌にも取り上げられ、ますます世間の耳目を引くことになり、「心の時代」の代表的なプレイヤーのように言われたりもしました。
道場の指導者や門前町の住人は、増え続ける来訪者を見て、それに対応するため、大がかりな宿泊設備をつくったり、お土産や飲食の店舗を拡張し、来訪者の便宜をはかりつつ、相応の収益を得るようになりました。それはそれで、まことにめでたいことでした。
この状態は、「バブル経済」時代が崩壊するまで、「右肩あがり」で続きましたが、90年代に入ると一転、世の中と歩調とあわせて、見事に「右肩さがり」に低迷していきます。
いまや、来訪者は「全盛期」の半分以下です。すでに肥大化した設備の維持や門前の収益の今後を考えると、なんらかの「対策」が必要であると、道場や門前町の指導者たちが考えるようになるのも、当然でしょう。
そこで彼らはいわく、
「大勢の人が来やすいように、山を切り開いて大駐車場をつくるべきである」「もっとイベントなどをやって、この道場と門前町をアピールすべきである」「マスコミを積極的に受け入れて、どんどん宣伝すべきである」
と・・・・・・・、このような状況の道場と門前町があったとして、私はどう考えるか。
私は、駐車場も、イベントも、マスコミも、大して効果がないだろうと思います。なぜなら、この道場のそもそもの「ウリ」は、「山奥の」「浮き世離れした」「厳しい」修行生活だからです。この道場の宗旨に対する信者を別とすれば、そうした修行生活に「敬意」や「興味」があるから、一般人は参拝したり、観光にくるのでしょう。
「深山幽谷」かと思ってきたら、だだっぴろい駐車場があったり、「浮き世離れした」ところだと聞いていたのに、中途半端な「武士の商法」ならぬ「坊主のイベント」など見せられては、興ざめこそすれ、それが「ウリ」にはなりますまい。一時しのぎの「カンフル剤」にはなっても、本来の「ウリ」はそこなわれる一方で、長期的なダメージの方が大きいでしょう。
私は、道場も門前も、「低迷」にあわせて計画的に引きこもる方がよいと思います。金が無いなら無いなりに、「ウリ」である、「山奥の」「浮き世離れした」「厳しい」修行に徹底的に回帰すればよいと思います。清く貧しく美しく、やっていけばよいのです。道場は「発展」する必要など、微塵もありません。
道場の修行に参加しようとする来訪者は裏表無く受け入れて、宗祖の教えを肌で感じてもらえるようにし、参拝や観光の来訪者は数と期間を区切り、そのかわり心のこもった、真剣で懇切丁寧な道場流の接待をして、地道に、世の中に「また来たい」という「ファン」を増やしていけばよいと思います。
私は、修行道場で大切なのは、一に修行それ自体、二にその修行しているかぎりでの「修行僧」、三にその「修行僧」を支える信者だと思います。この順番を正確にわきまえている者が、道場の「指導者」と呼ばれるべきなのです。
そもそも今どき、駐車場、イベント、マスコミなどと言っていることこそ、「浮き世離れ」だということです。
追記:次回の「仏教・私流」は、11月30日(水)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。