恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

無理な「真理」

2011年11月30日 | インポート

 このブログで私が度々、「『真理』は嫌いだ」などと書くのを見て、それはどういう意味だと、今もよく質問されています。そこで、「嫌い」な理由を再度。

「真理」は認識ではなく、信仰です。もっと言えば、欲望です。何がしかの認識を、「真理」と呼んで「正しい」ものとして主張したいということです。

「真理」は「真理」であるが故に検証しようがありません。なぜなら、「真理」という以上は普遍的に、つまり、いつでも・どこでも・だれにでも・どのような条件でも、「正しい」と認識されなければ、「真理」という言葉の定義に反するでしょう。

 ところが、いつでも・どこでも・だれにでも・どのような条件でも「正しい」かどうかを、有限的な存在の人間には、検証のしようがありません。

 したがって、「真理」はそう信じ、そう主張する者、すなわち「信仰」する者にとってしか「真理」たりえません。

 問題なのは、ここから先です。上述の事情から、「真理」はそれ自体に真理の根拠を持ちえません。すると、「真理である」ことの主張は、しばしば、自らに反する意見や主張を徹底的に排除することで、なされる場合が出てきます。

 私は、「真理」が持ちやすい、この傾向が嫌いなのです。この構造は、原発の「安全神話」と共通です。

 原発を持ちたい。しかし、安全は完全には担保しきれない。ならば、「絶対安全」と主張し続けて建設するしかない。そのうち「神話」は「原発は安全」という「真理」に転化し、それに対する反論は、徹底的に排除されていった、というわけでしょう。


笑えない時代

2011年11月21日 | インポート

 先日、ある大学の教授と話す機会がありました。その教授いわく、

「いや、住職、私も大学に勤めて長いけれど、今年ほど学生が笑わない年はないね」

 私、

「そうなんですか」

「そう。本当に笑わない。今までだと、講義前や、それこそ講義中でさえ、男の学生の馬鹿笑いや、女子学生のキャッキャッという、にぎやかな声が聞こえましたよ。今年はそれがない。それどころか、私がこれまで講義中で言えば必ず学生が笑った冗談にさえ、今年は反応しない。」

「学生には厳しい時代になりましたからねえ」

「まあ、そうですね。レポートを出させても、みな真面目すぎるほど真面目に書いてくるんですよ」

「必死なんでしょう」

「そうなんでしょうが、私はもう一つ、理由があるような気がするんです。それはね、今年の学生なんかは、世の中にあまりにひどい嘘が多いことを、身にしみて味わってきた連中なんじゃないでしょうか」

 私は、なるほど、と思いました。日本中が、今となっては根拠無くはしゃいでいたとしか言いようのない政権交代から、今年の震災や原発事故にいたるまで、政官財、業界をとわず、まさかこれほど「指導者」とか「権力階層」とか「統治システム」に嘘や欺瞞や手抜きが多いとは、誰も思わなかったでしょう。

 笑いというのは、そもそも筋の通った「真っ当さ」がちゃんとあって、はじめて成り立つものです。その「真っ当さ」を理解した上で、皮肉り、からかい、「真面目」の構造を脱臼させる。つまり、笑いには必ず批評の精神が存在します。

 ところが、今や世の中の筋の通った「真っ当さ」が溶解しているとすれば、それは笑う対象が見えなくなってしまったということです。それは、もはや「笑っている場合じゃない」事態でしょう。

 ですから、このところの「お笑い芸人」がテレビでやっていることのほとんどが、まるで悪ふざけ同然で、「芸」になっていないのは、実は当然でしょう。批評は芸になりますが、おふざけは芸になりえません。芸になるべき批評のない笑いは、ふざけるしかないのです。

 ただし、必要なあらゆる「真っ当さ」も、一定の社会的条件の下で成立することであって、いかなる普遍性も絶対性も持ちません。だからこそ、そこに笑える余地があるわけです。だとすれば、笑いを許さない「真面目さ」などは、我々にとって、百害あって一利ない、いわば暴力でしょう。


浮き世ばなれ物語

2011年11月10日 | インポート

 あるところに、由緒正しい修行道場がありました。その道場は深山幽谷の中で何百年もの間、宗祖の定めた修行を守り続けてきました。

 ところが、戦後、高度成長が始まり、日本人が次第に豊かになり、旅行やレジャーに金と時間が割けるようになると、この道場にも多くの「参拝者」「観光客」などの来訪者が押し寄せるようになりました。

 そのうち、テレビや雑誌にも取り上げられ、ますます世間の耳目を引くことになり、「心の時代」の代表的なプレイヤーのように言われたりもしました。

 道場の指導者や門前町の住人は、増え続ける来訪者を見て、それに対応するため、大がかりな宿泊設備をつくったり、お土産や飲食の店舗を拡張し、来訪者の便宜をはかりつつ、相応の収益を得るようになりました。それはそれで、まことにめでたいことでした。

 この状態は、「バブル経済」時代が崩壊するまで、「右肩あがり」で続きましたが、90年代に入ると一転、世の中と歩調とあわせて、見事に「右肩さがり」に低迷していきます。

 いまや、来訪者は「全盛期」の半分以下です。すでに肥大化した設備の維持や門前の収益の今後を考えると、なんらかの「対策」が必要であると、道場や門前町の指導者たちが考えるようになるのも、当然でしょう。

 そこで彼らはいわく、

「大勢の人が来やすいように、山を切り開いて大駐車場をつくるべきである」「もっとイベントなどをやって、この道場と門前町をアピールすべきである」「マスコミを積極的に受け入れて、どんどん宣伝すべきである」

 と・・・・・・・、このような状況の道場と門前町があったとして、私はどう考えるか。

 私は、駐車場も、イベントも、マスコミも、大して効果がないだろうと思います。なぜなら、この道場のそもそもの「ウリ」は、「山奥の」「浮き世離れした」「厳しい」修行生活だからです。この道場の宗旨に対する信者を別とすれば、そうした修行生活に「敬意」や「興味」があるから、一般人は参拝したり、観光にくるのでしょう。

 「深山幽谷」かと思ってきたら、だだっぴろい駐車場があったり、「浮き世離れした」ところだと聞いていたのに、中途半端な「武士の商法」ならぬ「坊主のイベント」など見せられては、興ざめこそすれ、それが「ウリ」にはなりますまい。一時しのぎの「カンフル剤」にはなっても、本来の「ウリ」はそこなわれる一方で、長期的なダメージの方が大きいでしょう。

 私は、道場も門前も、「低迷」にあわせて計画的に引きこもる方がよいと思います。金が無いなら無いなりに、「ウリ」である、「山奥の」「浮き世離れした」「厳しい」修行に徹底的に回帰すればよいと思います。清く貧しく美しく、やっていけばよいのです。道場は「発展」する必要など、微塵もありません。

 道場の修行に参加しようとする来訪者は裏表無く受け入れて、宗祖の教えを肌で感じてもらえるようにし、参拝や観光の来訪者は数と期間を区切り、そのかわり心のこもった、真剣で懇切丁寧な道場流の接待をして、地道に、世の中に「また来たい」という「ファン」を増やしていけばよいと思います。

 私は、修行道場で大切なのは、一に修行それ自体、二にその修行しているかぎりでの「修行僧」、三にその「修行僧」を支える信者だと思います。この順番を正確にわきまえている者が、道場の「指導者」と呼ばれるべきなのです。

 そもそも今どき、駐車場、イベント、マスコミなどと言っていることこそ、「浮き世離れ」だということです。

追記:次回の「仏教・私流」は、11月30日(水)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。