思いつき禅問答シリーズ、このあたりでもう一回。
ある老師が修行僧たちに説教しました。
「あちこちで老師方は衆生済度が大事であると教えているが、たとえば次のような3人の病人がやって来たら、どうやって教え導けばよいのか?
まず眼を病んでいる者は、老師が模範として示すことが見えない。耳が聞こえないものは、老師がどれほど言葉を尽くして教えても、聞こえない。話すことができない者は、自分の境地がどれほどのものか、老師に示すことができない。さあ、諸君、どうしたらよいか?
もし、これらの人々を教え導くことができないというなら、仏法には大した功徳はないということになろう」
この話を聞いていた一人の修行僧は、別の老師のもとを訪れて、どう思うか質問しました。すると、その老師はまず言いました。
「礼拝しなさい」
修行僧が言われるままに礼拝して立つと、老師はいきなり、持っていた棒を修行僧に向かって突き出しました。修行僧が思わず後ろにさがると、
「君は見えるんだな」
そして今度は、
「私の近くに来なさい」
言われた彼が前に進み出ると、
「耳は聞こえるんだな」
即座に老師はひと言、
「どうだ、わかったか?」
「わかりません」
「うん、話もできるんだな」
言われたとたんに、修行僧は悟るところがあった、という問答です。
さて、例によって、私流にこの問答を解釈すると、こうなります。
最初の老師の言いたいことは、要するに仏教の普遍性、真理性の問題なのです。誰にでも通用する教えであり、「真理」だというなら、人の条件を問わないはずです。仏教はそのようなものでありうるのか、と老師は修行僧に問いかけたわけです。
修行僧は、問題をそのまま次の老師に持ち込んできます。そこでこの老師が修行僧に直面させたのが、問題の当事者は誰なのか、ということです。
客観的普遍的真理それ自体があろうとなかろうと、それを問う当事者が存在しない限り、まったく無意味で、「真理自体」は無いも同然であり、無いのです。「真理」は問いにおいて存在するのであり、それ以外に存在の次元を持ちません。ですから、問われようが、すなわち問いの方法が、「真理」のありようを決めるのです。
今まさにそれを問おうとしているのは、話に出てくる病人ではなく、この修行僧自身でしょう。その自覚がないことには、この類の「真理」話は、暇つぶしの雑談と変わりません。
老師が修行僧に最初に礼拝させたのは、まさにこのためです。誰が何をどう問おうとしているのかの自覚がないところに、「真理」問題を検討する余地はない、そのことを端的に教示したのが、「礼拝しなさい」の言葉なのです。