恐山もいよいよ開山間近、本当なら連休直前に降った30センチをこえる雪の写真を載せて、境内準備の様子をご紹介したかったのですが、福井の住職寺に葬儀が出来て、急遽移動しなければならなくなってしまいました。
いや、恐山のスタッフは明日からの開山に向け、大詰めの準備の真っ最中、院代の不在は申し訳ない限りです。しかし、どのような人の死にも予定は立たず、これは致し方のないことと、海容を請うほかありません。
頭の中では予定が立てられて、そのとおり事が進むのが当たり前だと自分では思っていても、その埒外にある決定的なもの、死や自然や、そして他者は、あっさりそんなものは反故にしてしまうものです。けれど、私は、そんな時、自分の思惑を突如として裏切るものにこそ、リアルな何かを鮮明に感じます。その連想で、最近の驚き。
また自著の話で申し訳ありませんが、私は、今まで出版した本に自分でタイトルを付けたことがありません。みんな編集者が考えてくれたものです。『老師と少年』だけは例外で、あれは最初、便宜上自分で付けた仮題でした。ですが、結局他に付けようがなかろうということで、そのまま正式のタイトルになったのです。
今回の茂木健一郎氏との対談本『人は死ぬから生きられる』も編集者から提案されたいくつかのタイトルのうちの一つでした。そのとき、中でも『無記の思想』というのが一番よいように思い、これはないだろうと思ったのが、『人は死ぬから生きられる』でした。
編集部で協議の結果、タイトルは『人は死ぬから生きられる』に決まりました、と知らせがあったときには、まあ、営業上、読者へのインパクトから言えば仕方がないか、と思っただけでした。
というわけで、後日、東京でやっている仏教講義の席上、余談のついでにこのタイトルに触れて、こんなことを本気で考えて生きているようなヤツがいるとすれば、そんなヤツはいずれ精神的に破綻するに決まっているなどと、笑い話にしていました。
ところがそれからまもなく、別の編集者から、「あのタイトルは南さんが話したことから採ったに違いないと思って読んだら、やっぱりあった」と言われて、仰天。
自分の書いた本を読み返すことが滅多にない私は、大慌てで点検してみました。あっ、本当だ、ある! ここでまた、驚愕。そんなことを言った記憶は、まったくなかったのです。
私はあらためて、自分にある得体の知れない感覚、おそらく今にいたるまでずっと引きずっている、「死」という観念にたいする特殊な感覚の根深さを思い知りました。
このフレーズは、茂木さんの「してみると、現代人の多くはすでに死んでいるということですか。死にながら生きている・・・・」という発言に反応して出てきます。「というよりも、人は死ぬから生きられる」。
私は茂木さんの言葉のどこに違和感を感じたのでしょうか。前後のくだりを読んで推測するに、やはり私は今でも、ややもすれば死のリアリティに圧倒されているのだろうと思います。それに何とか抵抗し、対抗するために、必死で生の強度を上げようとしてるわけです。それが、私の「自己」の有り様なのでしょう。むしろ、そこにしか「生」を実感する場がないのかもしれません。「死にながら」ではなく、「死ぬから」と出た一言は、期せずしてそれを言いたかったのだと思います。
心理学ではないですが、思わず出る言葉とは、怖いものです。