恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

思わずの一言

2009年04月30日 | インポート

 恐山もいよいよ開山間近、本当なら連休直前に降った30センチをこえる雪の写真を載せて、境内準備の様子をご紹介したかったのですが、福井の住職寺に葬儀が出来て、急遽移動しなければならなくなってしまいました。

 いや、恐山のスタッフは明日からの開山に向け、大詰めの準備の真っ最中、院代の不在は申し訳ない限りです。しかし、どのような人の死にも予定は立たず、これは致し方のないことと、海容を請うほかありません。

 頭の中では予定が立てられて、そのとおり事が進むのが当たり前だと自分では思っていても、その埒外にある決定的なもの、死や自然や、そして他者は、あっさりそんなものは反故にしてしまうものです。けれど、私は、そんな時、自分の思惑を突如として裏切るものにこそ、リアルな何かを鮮明に感じます。その連想で、最近の驚き。

 また自著の話で申し訳ありませんが、私は、今まで出版した本に自分でタイトルを付けたことがありません。みんな編集者が考えてくれたものです。『老師と少年』だけは例外で、あれは最初、便宜上自分で付けた仮題でした。ですが、結局他に付けようがなかろうということで、そのまま正式のタイトルになったのです。

 今回の茂木健一郎氏との対談本『人は死ぬから生きられる』も編集者から提案されたいくつかのタイトルのうちの一つでした。そのとき、中でも『無記の思想』というのが一番よいように思い、これはないだろうと思ったのが、『人は死ぬから生きられる』でした。

 編集部で協議の結果、タイトルは『人は死ぬから生きられる』に決まりました、と知らせがあったときには、まあ、営業上、読者へのインパクトから言えば仕方がないか、と思っただけでした。

 というわけで、後日、東京でやっている仏教講義の席上、余談のついでにこのタイトルに触れて、こんなことを本気で考えて生きているようなヤツがいるとすれば、そんなヤツはいずれ精神的に破綻するに決まっているなどと、笑い話にしていました。

 ところがそれからまもなく、別の編集者から、「あのタイトルは南さんが話したことから採ったに違いないと思って読んだら、やっぱりあった」と言われて、仰天。

 自分の書いた本を読み返すことが滅多にない私は、大慌てで点検してみました。あっ、本当だ、ある!  ここでまた、驚愕。そんなことを言った記憶は、まったくなかったのです。

 私はあらためて、自分にある得体の知れない感覚、おそらく今にいたるまでずっと引きずっている、「死」という観念にたいする特殊な感覚の根深さを思い知りました。

 このフレーズは、茂木さんの「してみると、現代人の多くはすでに死んでいるということですか。死にながら生きている・・・・」という発言に反応して出てきます。「というよりも、人は死ぬから生きられる」。

 私は茂木さんの言葉のどこに違和感を感じたのでしょうか。前後のくだりを読んで推測するに、やはり私は今でも、ややもすれば死のリアリティに圧倒されているのだろうと思います。それに何とか抵抗し、対抗するために、必死で生の強度を上げようとしてるわけです。それが、私の「自己」の有り様なのでしょう。むしろ、そこにしか「生」を実感する場がないのかもしれません。「死にながら」ではなく、「死ぬから」と出た一言は、期せずしてそれを言いたかったのだと思います。

 心理学ではないですが、思わず出る言葉とは、怖いものです。


恐縮ですが

2009年04月20日 | インポート

 茂木健一郎さんとの対談本、茂木さんにあやかって、それなりに好評らしく、嬉しく思っています。読んでいただいた方、ありがとうございました。

 ただ、漏れ聞いただけでも、彼の多忙さは尋常ではなく、ともかく健康を第一に考えて今後も活躍していただきたいと願うばかりです。

 さて、こういう人々に広く知られた人物と仕事をしたり、少しテレビに出たりしたせいか、最近身辺にいささかの変化が生じてきました。

 もちろん、私ごときのことですから、大したことではないのですが、今のうちにお願いとおことわりをしておいた方がよいと思いますので、恐縮ですが書かせていただきます。

 まず、ご自身の著作か否かを問わず、当方に書物を送ってくださる方がいますが、私はもらい物の本を読んだことがありません。もらい物の本の内容と私の当面の関心が一致することは、憧れの女優と新幹線で隣り合わせに坐るくらいにあり得ないことで、ほぼ捨てることになります。

 したがって、私もまた、長い付き合いで文字通り「笑納」してくれると確信できる友人以外に、他人に自著を「献呈」しません。後輩に「ケチ」と言われたこともありますが、他人に自著を「読め」と言うがごとき態度をとる勇気が、どうしても出ないのです。

 読みたい本なら、まして自分にとって大事な本なら、なんとしても探して買うでしょう。買うべきです。そうでないなら、それは所詮、どうでもよい本です。私は本当に金の無かった学生時代、3万円以上する本を買って、一週間、ただキャベツだけを食べていたことがあります。

 もう一つ、ご自身の宗教思想や哲学思想めいたものを開陳した、エッセーというか、論文というか、そうした書類を送ってくださる方もいますが、これは一切読みません。確実に捨てることになります。

 この類いの文章は、読んで面白いか役に立つかだけが取り柄のものですから、そうだとすれば、相応の出版社から書籍や雑誌として世に出ているものの中から探すほうが、はるかに効率的だからです。

 人生、遇える人と読める本の数は限られています。私もすでに50歳、残り時間を考えねばなりません。重ねて恐縮ですが、あしからずご海容下さい。


アンパンマンの「哲学」

2009年04月09日 | インポート

 アンパンマンと言えば、今やドラえもんと並ぶ国民的アニメ・キャラクターでしょうが、恥ずかしながら私は、つい最近まで、アニメーションそのものを見たことがありませんでした。

 先日、はじめてストーリーを通しで見て、大変面白かったです。とりわけ、毎回のエピソードの見せ場、敵役との対決の最中、危機に陥ったアンパンマンが、汚れた顔を新しい顔に取り替えるというアイデアには、自分が常日ごろ考えてきたことと重ね合わせ、少し大げさに言うと、衝撃をうけるほど、興味深く思いました。

 おそらく、すでに多くの方が気づかれているのでしょうが、私が刺激されたのは、「自分が自分であることの根拠」、すなわち自己同一性の問題を考える上で、あのシーンは実に格好の事例だと思ったからです。

 顔を新しく取り替えたのに、なぜアンパンマンは以前と変わらず同じアンパンマンであり続けることができるのか?

 その最大の理由は、アンパンマン自身にあるのではありません。それはジャムおじさんが「新しい顔を焼くよ!」と言って、まさに新しい「アンパンマンの顔」を焼くからです。取り替える前と後の同一性を保証しているのは、先ず誰よりも、アンパンマンではない、ジャムおじさんなのです。

 ここには、「自分が自分であること」は自己決定されるのではなく、他者から課せられるという事実が、これ以上考えようがないほど、単純明快に示されています。

 二つ目の理由は、アンパンマンを除く周りの全員が、「新しい顔のアンパンマン」を「古い顔のアンパンマンと同じだ」と認め続け、そのとおり振舞うからです。ここでも、問題は顔を取り替える前後のアンパンマン自身の意識と記憶の連続性ではありません。

 仮に意識と記憶が本人において連続していても、本人以外の全員が「同じアンパンマン」と認めなければ、その連続はいずれ破綻します。たとえば、もし、ジャムおじさんが気まぐれを起こして、顔をカレーパンマンに替えてしまい、その後全員が一致・一貫して彼をカレーパンマンとして待遇し続ければ、結局最終的には、アンパンマンはカレーパンマンになることを受け容れるか、そうでなければ精神的に異常をきたして崩壊するか、どちらかでしょう。

 いや、今後の法話に使える実に好材料です。これまでも子供番組は侮りがたいと思ってはいましたが、正直、驚きました。

追記1: 師匠の急逝に多くのお悔やみを賜り、心より深く感謝申し上げます。ありがとうございました。

追記2: 脳科学者・茂木健一郎氏との対談本『人は死ぬから生きられる』(新潮新書)が15日に発売になるそうです。関心がおありの方、よろしくお願いいたします。