恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「しょうがない」の精神

2012年01月30日 | インポート

 以下は、さる地方新聞から、正月用の記事にと寄稿を依頼されて書いたものです。

 ここでいまさら、昨年がどんな年だったか、事あらためて言うつもりはない。正月とはいえ、おそらく今年の日本人は皆、そう無邪気に「おめでとう」とは言えないのではないか。

 あの大震災と原発事故、さらに欧州の金融危機と東アジアの不安定化、さらにはそれらが結果的に露呈した様々な問題に、我々はいよいよ、正面から取り組んでいかなければならない。すなわち、我々は今までよりもっと、がんばらなけれならない新年を迎えたわけだ。

 しかし、私がつらつら思い出すのは、震災直後に湧き起こり、ほぼ一年を通じて大合唱になった「がんばろう」に対する、どうも素直になれない自分の気持ちである。

 これは私ばかりではなかったようで、たとえば、「被災した人に、あれ以上何をがんばれと言うんだ」と怒っていた知人もいた。だが、私の違和感はそれとは少し違う。

無所得の教え

 がんばればなんとかなる。ならないのはがんばりが足りないからだ・・・・。我々は長いこと、そう考えてがんばってきた。その果てに、昨年、ああなったのである。がんばったってどうにもならないこともあると、さすがに身に沁みた。それを忘れて「がんばる」だの「がんばろう」だのは言うべきではない。そう思うのだ。

 私は何も、「がんばらなくてよい」と言いたいのではない。いや、実際、今の世の中、がんばらなくてはダメだろう。しかし、目標をさだめてがんばっても、ダメなときはダメなのである。そのとき、このがんばりは全て無駄だったと、そう思うかどうか。

 仏教に「無所得」とか「無所悟」という語がある。修行しても得られるものはないし、悟るものもない、という意味である。

 普通考えれば、僧侶が修行するのは、悟りを開いて仏になるためである。それが目的なのだ。

 ところが、この語は、仏教の真意はそうではない、と言っているのである。修行は取り引きではない。修行と交換に何かを手に入れようとすることではない。目的を自らの導き手として、たとえそれが最終的に手に入ろうと入るまいと、修行自体に打ち込んでいくその姿に、悟りがあり、仏が現れるのだ。

覚悟を決めて

 努力は結果を出さなければ意味がない、と考えるのは世間の物差しである。努力した事実は決して消えない。しかし、それが果たして、いつどこでどのように報われるのか、いや、報われるのかどうかさえ、およそ人間の浅知恵ではわからない。そう考えるのが仏教である。

 とすれば、我々は考えを変えるべきであろう。これからも、我々はがんばらないわけにはいかない。だが、「がんばる」ことには、がんばらない。がんばりの成否は問わない。人事を尽くして、天命は待たない。

 積み重ねた努力の結果、失敗も挫折も喪失もある。悲哀も苦難もある。喜びや楽しみや成果よりも、それらがずっと大きいかもしれない。そう覚悟を決めて、がんばる。たとえ報われなくても、がんばりそのものを受け入れ、敬う。昨日のことは「しょうがない」と呟いて、それでも今日また歩くのだ。

                                                   (以上)

追記:次回「仏教・私流」は、2月29日(水)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。


「火」は燃えない

2012年01月20日 | インポート

「火」と言っても、「火」と書いても、それは燃えません。当たり前です。しかし、この当たり前が大事です。

 言葉が表示しているものは、あるいは言葉によって表示されているものは、火ではないのです。では、言葉によって表示されえない「火そのもの」があるのか?

 そんなものは、「本当の自分」と同じように馬鹿げた幻想です。「火そのもの」も言葉だからです。以上の事情は、「神」も「真理」もみな同じ。

 言葉が表示しているのは、その言葉で表示しようとしているものとの関係の仕方です。ヴィトゲンシュタイン風に言うなら、「火」が意味するのは火ではなく、火の使い方です。

 この関係の仕方は、様々な条件付けによって変わりますから、言葉によって語られたことに普遍性や絶対性を求めることは、無いものねだりというものです。

 ここでさらに問題なのは、「存在する」という言葉です。そもそも、存在するという事態は、「〇〇は(が)存在する」という様式の発語以前には、まったくナンセンス、何も「存在」しません(誰かが路上で突然立ち止まり、ただ「存在する!」とだけ絶叫したら、それはいったい、冗談以外にどう考えたらよいのでしょう)。つまり、存在とは言葉なのです。

 そうだとすると、およそ言葉によって表示されないものは「存在する」とは言えないことになります。なぜなら、「存在する」ということが言葉である以上、そもそも言語の埒外のものに「存在する」という言語を接続できるはずがないからです。

 では、言語化できないものは、「存在しない」のか? それもあり得ません。「存在しない」も言葉ですから、言語化できないものに接続できません。

 すなわち、言語化できないものについては、原理的に「存在する」とも「存在しない」とも言えないのです。

 ならば、言語化できないものについて「語る」ことは無意味です。言い換えれば、「わからない」ことは語りえません。我々は、すでに語られた何ものかについてしか、語ったり考えたりすることができません。「・#4lkjyt54えお43%&’」について語れと言っても、無理でしょう。

 言葉で言えば、実は言おうとしている当のものについては何も言いえず、「言葉を超えた何ものか」についてものを言えば、ことごとくナンセンスになる。

 私に言わせれば、仏教の「空」という教えの核心は、この言語の限界性にあります。言語によって語られることは、いかなる条件で通用し、どの範囲で意味を持ちえるのか、それを明らかにする態度こそ、「空」の立場であり、言語の限界を自覚しうる観点を体験的に確保することが、決定的に重要です。これがいわゆる「禅定」です。

 すなわち、言葉が表示するものと、言葉によって表示されているものとの間、ここをダイレクトに体験し、特定の条件下での言説を解体しながら、言語の限界を繰り返し言語化する作業を続けることこそ、「空」を語る唯一の方法でしょう。

 ということは、たとえば「悟り」について、「悟りとは・・・」と語った瞬間、それは「悟り」ではなくなるわけです。同時に、「悟り」は言葉にできないのだと開き直るならば、その「悟り」は完全に無意味、「・#4lkjyt54えお43%&’」と同じことです。


冬の怪談

2012年01月10日 | インポート

 巷で聞いた、何か、怖いお話。

一、寿司屋

 暖簾が出ているから、入ってみると、トックリセーターのお爺さんが、カウンターの向こうにすわっていて、じろりとこちらを見て、「何もできないよ。あがりでも飲むかい?」とだけ言う。

一、本屋

 表に雑誌や漫画の入ったスタンドが置いてあるので入ったら、棚にはほとんど本が無く、店番も誰もいない。

一、飲み屋

 八十は超えているだろうと思わざるをえない、真っ赤なワンピースのママが、無言ですわっていて、出てくるものは、ビールとウーロン茶と柿の種とサキイカしかない。しかもビールはキリンのみ。

一、元証券会社員

 朝八時半きっかりに家を出て、定年まで勤めていた会社の最寄の支店に行き、一日中株価ボードの値動きをノートに記録して、閉店とともにいなくなる。弁当持参。

一、某会社会長

 すでに家族の顔をほぼ忘れた段階にある創業者。会社の車が迎えにくると、4人がかりで載せられ、出社すると、会長室まで車椅子。デスクにつくと「会長係」の社員がノートをひろげる。そこに会長はボールペンで縦・横・斜めに線を引き、専用印鑑をでたらめに押して、帰宅。この状態がすでに数年。

 働くことは、結構なことだ。しかし・・・・・

  遅ればせながら、明けましておめでとうございます。本年もよろしく願い上げます。