恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

欲望と自由

2008年09月28日 | インポート

 最近人々の耳目を集めていることにアメリカ発の金融危機があります。私は経済をまともに論じられるような見識を持ち合わせないので、大きなことは言えないのですが、一つ、以前から議論の前提として、ここを誤解するとマズいと思っていることがあるので、若干意見を述べてみたいと思います。

 現在の世界で最もひろく受け入れられ、それを最善と考える人が多い経済システムこそ、「自由市場経済」でしょう。したがって、「自由」でない市場は、すべからず「自由化」しなければならない、という議論になります。しかし、ここに根本的な誤解があります。「自由市場」と称されるシステムは、その原動力は「欲望」であり、むしろ「欲望市場」と言うべきでしょう。

「欲望」と「自由」は、その違いをはっきり自覚しないとき、大きな災難を招きます。「欲望」の正体は「したいことをする」というものです。しかし、これに対して、「自由」とは「なすべきだと信じたことをなす」ことなのです。

「自由」が人間において現実となるのは、「自分のすることを自分で決める」、つまり「選択の自由」としてでしょう。である以上、そこには選択の基準があるはずです。これがすなわち「価値観」というものです。ということは、価値意識のない者に自由はありえないことになります。

 このとき、問題は「価値」にあるのですから、「自由」は単純に自分が「したいこと」ではありません。それは他人が見ても「なすべきこと」「したほうがよいこと」、少なくとも「してもよいこと」を問い、課題とする行為でなければなりません。

「自由」に「責任」がともなうのは、まさにここのところです。「自由」が「価値に基づいた選択」として現実となる以上、自分の「自由な決断」が「価値」を媒介に必然的に他者を巻き込み、そこに「責任」が生じるわけです。「責任」が常に他者から問われるのは、ことが「価値」にかかわるからなのです。

「自由」がそういうものだとすれば、市場に「自由」は存在しません。市場の主体は資本であり、資本それ自体は価値観を持ちません。つまり、倫理を持ちません。資本にあるのは、「もっと自分(資本)を大きくしたい」という「欲望」のみです。「欲望」が内部に倫理を持たないのは自明でしょう。それを持つとき、「欲望」は「自由」になります。「これをしたいのだが、してもよいことなのだろうか」と考えて決断し、その決断の責任を自覚するなら、それが「自由」ということでしょう。

 経済メカニズムとしてしての市場(個々の市場「参加者」ではありません)が内部に価値観も倫理も持たない以上、資本に対して圧倒的に無力な個々の市場「参加者」の「価値観」と「倫理」と「責任感」は、常に風前の灯状態に置かれるでしょう。節度をわきまえた紳士淑女だけが参加する市場などというものを、現在の世界の経済規模においてまじめに考える人がいるとは、とても思えません。

 ならば、社会が「正しい市場経済」を必要とするなら、外部から規律を与えるしかありません。その方法は二つでしょう。すなわち、市場の入り口で「参加者」をチェックする規制を設けるか、これを緩和して、誰でも「市場」に入れることにした上で、しかる後に彼らの振る舞いを監視するか。

 かつて、「変人」首相が「構造改革」を喧伝して、「規制緩和」すれば「市場経済」が万事うまくやっていくから、「小さな政府」で大丈夫というようなことを叫んでいた時代がありました。そのとき、この男には致命的に教養が足りないなあと私が感じたのは、入り口を規制緩和するなら、中で誰かが監視しなければならない以上、公的責任と負担はそうかわらない、つまり政府はそれほど小さくならないはずだと考えていたからです。

 ですから、物事を単純に考えて規制あるいは監視を手抜きすれば、市場は資本の原理として「欲望化」するだけであり、「価値」も「倫理」も「責任」も結果的に無視されるだろうことは当たり前なのです。多くの業界で「偽装」が繰り返され、金融会社が「投機」というバクチに狂奔した果てに破綻するのは、いわば市場の本質に由来するのであり、それを防げなかったのは、市場そのものに「自由」はありえず、あるのは「欲望」であるという事実を誤認したからでしょう。

お知らせを追加します。次回の「仏教・私流」は、10月22日(水)午後6時半より、東京赤坂の豊川稲荷別院にて、行います。


「大小」問題

2008年09月19日 | インポート

 以前このブログの記事にいただいたコメントで、上座部(小乗)仏教と大乗仏教の違いについてどう考えるかという質問がありましたが、最近ある人から答えるように催促されましたので、若干の考えを述べてみようと思います。

 このことを考える前提として、まず言っておかなければならないのは、そもそも私には、上座部と大乗を比較して、「どちらが正しいか、どちらが優れているか」というテーマを論じる興味も関心もない、ということです。

 それというのも、私は仏教に限らず、あらゆる宗教や思想に、「真理」や「正しい教え」を求めていないからです。私には、幼少以来みずからに取り憑いて離れない問題があって、極端に言えば、これにしか持続的な関心が持てないのです。

 このとき、仏教は私にとって問題にアプローチする方法、いまのところ最も有効で頼りになる方法、しかし所詮方法なのです。それ以上でも以下でもありません。

 したがって、方法として有力なら何でもよいのです。もし仮に、今後仏教より有効な方法が見つかったと確信したなら、間髪入れず、それに乗り換えるでしょう。だとすれば、上座部と大乗の違いなど、気にするような違いではありません。

 この立場から言うと、まず、仏・如来と言われれば、私が心底共感し、リアルな存在と感じるのは、パーリ語経典に伝えられる元釈迦族の王子、ゴータマ・ブッダだけです。主に大乗経典に出てくる如来、法華経の「久遠実成」の釈迦如来や、華厳の毘盧遮那如来、浄土教の阿弥陀如来などには、思想上の概念として強い関心がありますが、それだけです。その意味では上座部「教徒」でしょう。

 一方、仏教思想として、私が核心中の核心と考える、「無常」・「無我」・「縁起」・「空」の教えを考える上では、般若経系経典で説かれる思想、特に言語や無意識の存在を視野に収める「中観」「唯識」など、インド大乗の思想に勝る示唆を与えてくれるものはありません。そういう点で言うと、間違いなく大乗「教徒」です。

 これに対して、上座部仏教を代表するとされる『倶舎論』で展開される議論などは、詳細で複雑とはいえ、結局は要素還元主義的に体系化された、カテゴリーの一覧表にしか見えず、その意味で単純で、底の浅さを感じます。

 とはいえ、この『倶舎論』の思想や、他の大乗の教え、華厳、法華、浄土、中国禅などの思想も、問題設定を変えれば方法として有効になることもあるわけですから、「間違っている」という言い方で否定する必要も根拠も、私は感じません。

 というわけで、先に申したとおり、とりあえず、ゴータマ・ブッダと道元禅師の遺した言葉から読み取れる思想と実践を、自分の問題に最も有効な方法として信用する、これが今のところの私のスタンスです。


恐山点描

2008年09月09日 | インポート

Cimg0984  しばらく紹介していなかったので、夏から秋へと移っていく恐山の様子を少し。

 参道の脇に兄弟のようによりそうお地蔵さんが。撮影した木村さんが、にこにこしながら、「いいでしょう」。

 水子供養の池に浮かぶ蓮の花。 咲くかどうか心配でしたが、なんとか育って、小さいながら花が開きました。         Cimg1034                                                      

大きな角塔婆とお参りの人々。今年、マグロの供養にと、大間の漁師さんたちも、角塔婆を立てました。 風がまったくない朝の宇曾利湖。湖面には大尽Cimg0990_2山が逆さに移っていCimg1235_2ます。

  Cimg1229 湖畔に続く風車や供物の列。今年も長い帯になりました。

 雨が多く、肌寒かった夏が過ぎ、9月の恐山は、一転してさわやかな秋晴れが続いています。