恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

死ななきゃ治らない?

2014年08月30日 | インポート

 仏教を知り始めたころ、「四聖諦(ししょうたい)」というアイデアが何を言いたいのかわからなくて当惑しました。

 字面だけの解説なら簡単です。「一切は苦である(苦聖諦)」「苦には原因がある(集聖諦)」「苦は滅することができる(滅聖諦)」「滅するには方法がある(道聖諦)」

 理屈のつながりだけなら子供でもわかるでしょう。このアイデアがただの理屈でなくなるかどうかは、「一切は苦である」という認識に腹の底から共感できるかどうかが分かれ目です。私は未熟な頭で考えました。

 「一切は苦である」と言うからには、人間の喜怒哀楽丸ごと全部が「苦」だと言うのだろう。ならば、それは人間の実存それ自体を「苦」であると断定するに等しい。

 すると、我々は「自己」という存在の仕方以外には存在できない以上、このアイデアは結局、「自己」という在り方そのものを「苦」だと言っているのだ・・・・・、こう考えた時、私にとってこのアイデアは決定的な意味を持つようになりました。

 だったら、「苦には原因がある」とは、「自己」の存在構造を根底から考えることだろう。このとき、存在構造の現象化を自意識だとすれば、自意識の現実態は言語機能だろう。ならば、根本原因として提出された概念である「無明(真理の暗いこと)」とは、言語機能のことになる。

 とすれば、「苦を滅する」とは、自意識を解消するか、言語機能を停止した状態だろう。

 しかし、そうだとすると、そんなことが本当にできるとすれば、死ぬしかあるまい。そうか、だからブッダの「ニルヴァーナ」は、傍目にはただ死んだようにしか見えないのか。

 すると、仏教の教えをうんと簡単に言うと、「バカは死ななきゃ治らない」ということか?

 もしそうなら、これが自殺の勧めでないとすれば、何なのか。

 考えられる第一は、「バカであるとはっきり自覚する」こと。次に「バカはバカなりに死ぬまで生きていく」と覚悟を決めること。

  となると、「苦を滅する方法」など、生きている間に手に入れるのは無理である。「滅する」のではなく、「苦しくても生きていける工夫はある」程度の話にしかならない。それでも、工夫しながら生きると意志することが、われわれにできることであり、すべきことなのだ。

  私は、こう大雑把に見当をつけて仏教に取り組み始め、今もそのままのスタンスです。実に進歩も成長もない。情けないです。


「無為」の作為

2014年08月20日 | インポート

 お盆中に檀家さんの一人と四方山話をしていたら、彼がこんなことを言いました。

「方丈さんね、何か新しいことを始めるか、あるいは今までしてきたことをさらに続けるか、というようなことが議論になったとき、必ず『今それをする意味があるのか』と言い出す人がいるでしょ」

「いるねえ」

「でね、この『意味あるのか』で話が始まるとダメなんだよね。みんなが色々なことを言うようになって、なかなかまとまらない。でね、私はそういうとき、『それをしなかったら、どうなる?』という方に話を持っていくの。しなくても別にかまわないなら、それでいいんだし。不都合が生じるなら、それが行う意味だし。この方がまとまりやすい」

「なるほどねえ」

 私は感心しました。確かに「意味あり」の前提で議論を始めると、要はそれぞれの考えようですから、意味のインフレーションになりやすいでしょう。

 しかし、「しなくても構わない」を前提にするなら、「意味」を主張する方はかなり説得力あるアイデアを提出しないとならないでしょうから、迂闊なことは言えなくなります。議論の仕方として、面白い工夫だと思いました。

 ところで、この「しなくても構わない」をもう少し主張すると、「しないほうがよい」となり、さらに強く言うなら、「しないのが本当だ」となります。

 するとこれは、いわゆる「無為」とか「無為自然」という、老荘思想の重要な観念に結びついていくでしょう。

 もちろん、老荘思想、あるいはタオ(道)イズムで言う「無為」は単に何もしなことではなく、要は万事にタオが行き渡って然るべくなるようになっているのだから、人間が小賢しい考えで勝手なことを仕掛けず、ひたすらタオに随順すべきだ、というようなことを説いているのでしょう。

 このアイデアは、古来仏教、とりわけ「禅」の考え方にシンクロする部分がかなりあり、実際、禅僧には、仏教を説いているんだかタオイズムを主張しているのか、判然としない物言いをする人もいます。

 しかし、少し考えればわかるように、「無為」や「無為自然」の状態に実際になることなど、どだい不可能です。つまり、「無為」には、あくまでも「なろう」としない限り、なれないからです。タオに「随順」しようとするなら、もうそれは「作為」でしょう。

 だいたい、我々の意識自体が特定条件下における「構成物」です。そのような「構成物」を持つ我々が、「なろう」と作為しなくても完全に「無為」になれるとすれば、偶発的に気絶するか昏睡するか死ぬしかありません。そうなったら、「無為」もタオもまったく無意味です。

 ならば結局、これも「悟り」と同じで、「無為」にしろ「無為自然」にしろ、それ自体を無闇に珍重するような愚を犯さず、冒頭紹介した檀家のように、ものの考え方の工夫に取り込んで適当に利用するくらいが丁度よいと、私は思います。


迷惑な「言行一致」

2014年08月10日 | インポート

 私が時々「『絶対正しい真理』なんぞは妄想にすぎない。所詮ものは考えようだし、合意の作り方だ」みたいなことを言うと、

「だったら、狂信的な思想から暴力的行為に出る者も、『考えよう』で許されるというのか」

 と、思いつめた表情で迫ってくる人が現れます。

 結論を言うと、「考え」ているだけのことなら、いくら「狂信的」であろうと一向にかまわないと、私は考えます(私は「狂信的」な思想を持つ真面目な中堅サラリーマンを知っています。思想的議論さえしなければ、ただの勤め人)。

 問題は「狂信的考え」の後に出てくる「行為」です。私は、「狂信的考え」の持ち主が、反「狂信的考え」の存在やその考えの持ち主を一切認めずに否定するというなら(もっともそれが「狂信的」と言う所以なのでしょうが)、そのような「行為(発言と行動)」には、徹頭徹尾反対です。

 もし、その「行為」が自らの考えと違う者に対する暴力や、威嚇的・脅迫的発言となるなら、法的規制の対象とすべきだと思います。

「無常」「無我」のアイデアを前提にするなら、このアイデアの実践の一つは、反「無常」「無我」という思想的立場を、あって当然と認識することです(「無常」「無我」も無常で無我)。

 である以上、「無常」「無我」のアイデアに反対する考えや意見を否定しませんが、その考えから出る行為は別です。アイデアに対する「批判」はよいとして、アイデアの持ち主の存在を「否定」する行為は、許されるべきではありません。

 仮に「絶対正しい真理」が原理的に反「絶対正しい真理」の存在を許さないというなら、そんな「真理」は有害無益である以上に、「真理」として不完全なのであり、その時点で「真理」ではありません(「絶対正しい」はずなのに「普遍的」ではないのだから)。

 このような立場をとる私が、「人種」差別や「民族」差別のような出自に関する差別行為(発言と行動)を頭から馬鹿げていると考えるのは、これまた仕方のないところです。

 「真理」の有無を争うどころか、たまたまそのように生まれたに過ぎない者が、たまたまそのように生まれたに過ぎない者を、たまたまそのように生まれたに過ぎないことを根拠に(つまり、無常が無常を無常であることを理由に)、否定し・攻撃し・排除するというのですから、これはもう妄想以外の何物でもありません(「いや、そのように生まれたことに根拠はある」という主張も仄聞しますが、その主張の言う「根拠」の「正しさ」は原理的に証明できません。つまり、妄想と区別できませんから、言葉の定義上「根拠」としては使えません)。

 となれば、考えるべきは、あらゆる妄想の場合と同様、この妄想の出どころである「欲望」、その正体でしょう。