仏教を知り始めたころ、「四聖諦(ししょうたい)」というアイデアが何を言いたいのかわからなくて当惑しました。
字面だけの解説なら簡単です。「一切は苦である(苦聖諦)」「苦には原因がある(集聖諦)」「苦は滅することができる(滅聖諦)」「滅するには方法がある(道聖諦)」
理屈のつながりだけなら子供でもわかるでしょう。このアイデアがただの理屈でなくなるかどうかは、「一切は苦である」という認識に腹の底から共感できるかどうかが分かれ目です。私は未熟な頭で考えました。
「一切は苦である」と言うからには、人間の喜怒哀楽丸ごと全部が「苦」だと言うのだろう。ならば、それは人間の実存それ自体を「苦」であると断定するに等しい。
すると、我々は「自己」という存在の仕方以外には存在できない以上、このアイデアは結局、「自己」という在り方そのものを「苦」だと言っているのだ・・・・・、こう考えた時、私にとってこのアイデアは決定的な意味を持つようになりました。
だったら、「苦には原因がある」とは、「自己」の存在構造を根底から考えることだろう。このとき、存在構造の現象化を自意識だとすれば、自意識の現実態は言語機能だろう。ならば、根本原因として提出された概念である「無明(真理の暗いこと)」とは、言語機能のことになる。
とすれば、「苦を滅する」とは、自意識を解消するか、言語機能を停止した状態だろう。
しかし、そうだとすると、そんなことが本当にできるとすれば、死ぬしかあるまい。そうか、だからブッダの「ニルヴァーナ」は、傍目にはただ死んだようにしか見えないのか。
すると、仏教の教えをうんと簡単に言うと、「バカは死ななきゃ治らない」ということか?
もしそうなら、これが自殺の勧めでないとすれば、何なのか。
考えられる第一は、「バカであるとはっきり自覚する」こと。次に「バカはバカなりに死ぬまで生きていく」と覚悟を決めること。
となると、「苦を滅する方法」など、生きている間に手に入れるのは無理である。「滅する」のではなく、「苦しくても生きていける工夫はある」程度の話にしかならない。それでも、工夫しながら生きると意志することが、われわれにできることであり、すべきことなのだ。
私は、こう大雑把に見当をつけて仏教に取り組み始め、今もそのままのスタンスです。実に進歩も成長もない。情けないです。