恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「縁起」~ある講話のための準備メモ

2009年10月29日 | インポート

・私が考える「縁起」とは、AとBが存在して、AがなければBはなく、BがなければAがないというような、AとBが相互依存関係にあることをいうのではない。

・任意のAは、非Aによって起こされ、構成され、発動する、という意味である。したがって、A自体にAである根拠は無い。

・このとき、非AはAではないという意味でしかなく、「非Aとは○○である」という形式での言語化の埒外である。

・ということは、あらかじめAと非Aが存在しているのではない、ということである。そうではなく、まず「異なり」の現出として関係が裂開し、その一方の項を「A」と呼び、他方を「非A」と呼ぶのである。

・この関係の開かれ方には、「立ち遅れる」と言い表すべき様相と、「先立つ」と言うべき様相がある。その「立ち遅れる」という様相で生起する存在がAであり、「先立つ」という様相で現前するのが非Aである。すなわち、Aは「非Aに立ち遅れる」という存在構造を持つのである。

・「立ち遅れるA」と「先立つ非A」の関係の現実化は、厳密には、「原因と見なされる非A」と「結果と見なされるA」の関係として概念化され、認識される方が妥当な場合がある。

・任意のAは、任意であるがゆえに当然「非A」であってもかまわない。その場合、「非A」は「非『非A』」から生起する。しかし、このとき「非『非A』」はAではない。「非A」が何であるかは決してわからないからである。

・にもかかわらず、Aは「非A」ではないもの、としか言い得ない。ならば、「非『非A』」はAではないのだから、AはAではない。つまり、「自己は自己でない」。自己同一性は虚構であり、物語である。

・「A」を「自己」であるとして、「非自己」を「他者」と仮称すれば、「自己」は「他者」から課せられる。「自己」という存在の様式では、「立ち遅れ」は「課せられる」という関係の仕方になり、「他者」は「課す」という仕方で「先立つ」。

・「課せられた自己」は、誰になぜ課せられたかを知らないがゆえに、「自己」に根源的な違和感を持つ。といよりも、この違和感が「自己」であることの現実性である。

・この違和感が「本当の自己」を問わせる。「本当の自己」が意味しているのは、自己が課せられた存在であるということの認識であり、その「自己」には受容しがたい違和感があるという表明なのである。それだけである。それ以外に何の意味もない。

・「自己」において関係は行為として現実化する。「自己」の根源的「立ち遅れ」とは、「産まれてしまう」という原初の受動的行為である。

     行為の仕方が「自己」と「他者」の存在の仕方を規定する。したがって、行為の仕方を規定するものが、「自己」であるとはどういうことかを決定する。

追記:次回「仏教・私流」は、11月23日(月)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。


参禅研修点描

2009年10月18日 | インポート

 遅ればせながら、去る9月28・29日に行いました参禅研修の様子をご披露します。(まことに恐縮ですが、参加者の方々に写真の公開の了解を得ることを失念してしまいました。もし、掲載の写真に不都合のある方は、恐山までご連絡下さい。該当写真は直ちに削除します)

008_2  28日・初日は、作法等のガイダンス、開式法要、夕食に引き続き、夜の坐禅を地蔵殿で30分づつ2回、行いました。間に経行(きんひん)という歩く坐禅も実習しました。

 29日・二日目は早朝5時半から坐禅、続いて朝のお勤めとなりました。最初013 に地蔵殿で祈祷、次に菩提堂(本堂)で供養の法要となります。参禅者一同の016 健康祈願と先祖供養をしました。(写真は本堂への移動と本堂内の様子)

 食事は夕食・朝食とも、木村師の指導でいただきました。(写真は「五観の偈」といわれる食前のお経を唱えているところ)024

045  食事後ただちに行われる作務(さむ・禅寺の作業のこと)。今回も参道清掃をしていただきました。作務の最中のみ、走ることと、ある程度大きな音や声を出すことが許されます。

 8時半から院代の講話。内容は先日「猫と草履」のタイトルでブログに書いたものと同じです。熱心に聴いていただきました。質疑応答も活発でありがたかったです。050

 午前10時、全過程が終了。研修修了式で修了証を授与。恐山の法要で唱えるお経を冊子にした「恐山のお勤め」の最終ページが修了証になっています。064

 全日程終了後の、希望者による写経と山内案内の様子。皆さん本当に熱心に参加していただきました。感想文の中に書いていただいたご希068 望やご意見は、次回の研修に活かして参りたいと存じます。2日間、お疲れ様でした。また、ありがとうございました。072


思い出す言葉

2009年10月08日 | インポート

 今夜、台風接近。恐山、大嵐。叩きつけるような雨と風の音を聞きながら、思い出す老僧(師匠の師匠にあたる)の言葉など。

「こうして見ると、写真というのは、みんな遺影だな。写っとるわしは、もうおらん」

 ある寺院の法要にお供して、初めて一緒に撮ってもらった写真を届けたときの言葉。久しぶりに「無常」という言葉に強烈なリアリティを感じたものです。

「口あれば糊(のり)あり、肩あれば衣(え)あり。坊主はそう思って生きるのだ」

 私の修行道場時代、これから一人前の僧侶として、実際やっていけるのかどうかという頃にもらった手紙の一節。僧侶が真面目に一途に修行する限り、飢え死にしない程度の食べ物は必ずあるし、凍え死にしないほどの着物は手に入る、という意味です。

「馬鹿者は批判されると、すぐに怒る。利口者は批判されると、まずは考える」

 老僧もその昔は、歯に衣着せぬ論客で鳴らした人でした。30代そこそこで、ずいぶん尖がっていた私を見て、心配して言ってくれたのでしょう。批判されたら、まずそれが核心を衝いているかどうか、道理の通った話かどうか、よく考えるの先だということです。これこそ、本当に他人から学ぶということだと思います。そうできるように、いまなお、努力中です。