・私が考える「縁起」とは、AとBが存在して、AがなければBはなく、BがなければAがないというような、AとBが相互依存関係にあることをいうのではない。
・任意のAは、非Aによって起こされ、構成され、発動する、という意味である。したがって、A自体にAである根拠は無い。
・このとき、非AはAではないという意味でしかなく、「非Aとは○○である」という形式での言語化の埒外である。
・ということは、あらかじめAと非Aが存在しているのではない、ということである。そうではなく、まず「異なり」の現出として関係が裂開し、その一方の項を「A」と呼び、他方を「非A」と呼ぶのである。
・この関係の開かれ方には、「立ち遅れる」と言い表すべき様相と、「先立つ」と言うべき様相がある。その「立ち遅れる」という様相で生起する存在がAであり、「先立つ」という様相で現前するのが非Aである。すなわち、Aは「非Aに立ち遅れる」という存在構造を持つのである。
・「立ち遅れるA」と「先立つ非A」の関係の現実化は、厳密には、「原因と見なされる非A」と「結果と見なされるA」の関係として概念化され、認識される方が妥当な場合がある。
・任意のAは、任意であるがゆえに当然「非A」であってもかまわない。その場合、「非A」は「非『非A』」から生起する。しかし、このとき「非『非A』」はAではない。「非A」が何であるかは決してわからないからである。
・にもかかわらず、Aは「非A」ではないもの、としか言い得ない。ならば、「非『非A』」はAではないのだから、AはAではない。つまり、「自己は自己でない」。自己同一性は虚構であり、物語である。
・「A」を「自己」であるとして、「非自己」を「他者」と仮称すれば、「自己」は「他者」から課せられる。「自己」という存在の様式では、「立ち遅れ」は「課せられる」という関係の仕方になり、「他者」は「課す」という仕方で「先立つ」。
・「課せられた自己」は、誰になぜ課せられたかを知らないがゆえに、「自己」に根源的な違和感を持つ。といよりも、この違和感が「自己」であることの現実性である。
・この違和感が「本当の自己」を問わせる。「本当の自己」が意味しているのは、自己が課せられた存在であるということの認識であり、その「自己」には受容しがたい違和感があるという表明なのである。それだけである。それ以外に何の意味もない。
・「自己」において関係は行為として現実化する。「自己」の根源的「立ち遅れ」とは、「産まれてしまう」という原初の受動的行為である。
・ 行為の仕方が「自己」と「他者」の存在の仕方を規定する。したがって、行為の仕方を規定するものが、「自己」であるとはどういうことかを決定する。
追記:次回「仏教・私流」は、11月23日(月)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。