恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「原因」という病

2018年02月20日 | 日記
 若いころからずっと、仕事一筋で頑張ってきた人がいました。そしてその努力は、周囲の評価するところとなり、会社の中で相応の地位を得て、めでたく定年を迎え、引退となりました。

 しばらくは悠々自適、自分の時間を好きなように使える毎日を謳歌していたのですが、あるとき突然、かなり深刻な不眠症に悩まされるようになりました。

 その人は、まだ仕事をしていた時代にも一度不眠症にかかったことがあり、このときは過労が原因だろうと自分も思い、医師にもそう診断されて、薬を処方されるなどして、全快したそうです。

 ところが、今度はまったく突然で、どうしてそうなったのか、思い当たるフシもありません。医者に行っても原因らしい原因が無く、ただ睡眠薬を処方されるばかりで、一向によくなりません。

 医者をあれこれ変えてみたものの、症状は改善せず、思いあまった彼は、親しくしていた親戚に相談すると、その親戚はある寺に連れていき、住職に引き合わせたそうです。

 すると、その住職は「あなたの遠い先祖である侍が犯した罪な行いが祟っている」と言い出したのだそうです。

 そんな馬鹿なと思った彼は、今度は別の親戚に相談すると、「ホラ、この前、田舎のお墓を霊園に移したのがいけなかったんじゃないの?」

 もう親戚はダメだと思い、次に職場の元同僚に相談すると「通常の検査ではわからない病気かもしれない。はやく専門医に」

 ところが、検査をしても、異常は無し。

 そうなると彼は、著しい不安にとらわれるようになり、不眠の原因を求めてあらゆる分野の人に相談を持ち掛け、自分は疲弊し他人に煙たがれ、二進も三進もいかなくなり、行き詰まってしまいました。


「・・・・と言うわけなんですが、ご住職、どうなんでしょう? やっぱり原因は祟りですか?」

「祟りですかって、あなた祟りだと言われて信じられないから、私のところに来たんでしょう。私が言えば信じるんですか?」

「いやあ・・・・、すぐには・・・」

「そうでしょうねえ。で、いま、不眠症はどうなんです? 全然眠れませんか?」

「いえ、最近は睡眠薬を飲みながらですが4、5時間は」

「えっ? それだったら、今の私の睡眠時間とほぼ同じですよ。 それじゃ足りなくて、日中眠くて仕方がないんですか?」

「いや・・・、特には」

「じゃ、・・・」

「ええ、不眠症の方はもういいんです」

「だったら、何が問題なんです? 不眠症がもういいなら、あなたの不安の正味のところは、原因がわからないことなんですか?」

「そうですなあ」

「だったら、原因をさがすのを止めればいいじゃないですか!」

「えっ?」

「もう無駄な話である以上に、害になってるじゃないですか」

「でも・・・」

「そう、あなたみたいなタイプは、すぐに原因探しを止められない。だったら、今日からは趣味でしなさい。「原因探し」という個人的趣味なんだから、あなたが原因関係の相談を持ちかける相手には、相談相手代兼迷惑料としてお金を払いなさいよ。30分千円とか」

 こういう仕事の一筋やり手タイプには、「自己決定・自己責任」的意識の強すぎる人が多々います。決定と責任は、因果関係をはっきりさせて初めて有効になる行為であり概念です。

 結果、このタイプには、「原因」探しの病に陥る人がしばしば出てくるわけです。

片々問答

2018年02月10日 | 日記

「お前の言う、無常が無常とはどうことだ」

「『一切は無常である」という主張にも、無条件の根拠はない。この世にはすでに一神教があるからな。そのアイデアを頭から否定する根拠もない。『無常』『神』も所詮、認識だ。言葉で言えばね」

「無常が無常なら永遠になっちまう、という話ではないのか?」

「いくらぼくでも、そんな阿呆な言葉遊びをする趣味はない」


「死者が実在するとは?」

「君には過去があるだろ?」

「ある」

「そういうことだ」


「坐禅はしなければならないのか?」

「この世にしなければならないことなど、ない」

「じゃ、好きでしてるのか?」

「違う。する羽目になっただけだ」


「人生とは何だ?」

「それを考える意味はない」

「なぜ?」

「死ぬまでが『人生』なら、死ななければ考える対象にならない。生きている最中は、それを考えなくても生きていける」


「業と輪廻の違いは?」

「現実とお伽噺の違いだ」

「悟りと真理の違いは?」

「経験で錯覚するか、理屈で錯覚するかの違いだ」