恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

正しく間違う。

2022年05月03日 | 日記
 中国の唐末期、雲門文偃という禅師がいました。この雲門禅師が行脚の修行僧に問いました。

「最近、どこから出て、ここに来たんだね?」

「西禅和尚のところからです」

「西禅和尚は、最近どんなことを言っているんだ?」

 修行僧は両手を開いて差し出しました。

 その途端、禅師は平手打ちを修行僧に一発。すると、修行僧が、

「いや、私にはまだ話があるんです」

 聞いた禅師は、両手を開いて差し出しました。

 それを見た修行僧は沈黙します。

 その途端、禅師は平手打ちをもう一発。

 

 この問答を、私は次のように考えます。

 雲門禅師が「最近どんなことを言っているんだ」と問うのは、西禅和尚がどのような境地に至って、どう教えを説いているのか、ということです。

 それに対して、修行僧が両手をさし伸べる動作をしたのは、和尚が言語では言えない境地を得て、言語を超えた真理を示しているということを伝えるためです。この時、具体的な動作は何でもいいのです。たとえば逆立ちでもよかったわけです。

 ところが、雲門禅師は平手打ち一発で、修行僧のやり口を否定します。これは「言語を超えた真理」が形而上学的な実体になってしまうからです。言語化できなければ、それは要するに「わからないこと」です。「わからないこと」を「真理」と断定する根拠など、あるはずがないでしょう。それは「ポンドカハリホレは、真理だ」と言うのと同じで、まるでナンセンスです。

 慌てた修行僧は、「まだ話がある」、つまり「言葉で言えない、と言っているのではない」と言い出します。

 禅師はすぐに両手を伸ばして、それはダメだと止めます。つまり、言葉で言えようが、言えまいが、何らかの「真理」を設定すること自体が、すでにダメなのです。

 「真理」は定義上、いつでもどこでも真理であるという絶対性がないといけません。しかし、人間は、ある時・あるところにしか存在できないのですから、この「相対的な存在」に「絶対的な真理」が認識できるわけがないのです。

 私たちが「真理」についてかろうじて言えるのは、自分たちの認識には限界があるということです。つまり、「言葉で言えない何かがある」と認めることだけです。しかもその限界は、その「何か」は、ただ沈黙することではなく、「言い得ないこと」を言い続け、かつ言い間違い続ける徒労でしか、示されません。

 我々は、「真理」という標的そのものに、「言葉」の弾丸を命中させることは決してできません。できるのは、全力を挙げて狙い撃ちをし続けて、常に外れる無数の弾痕の分布から、標的のおぼろげな輪郭を想像することぐらいです。

 しかし、撃たなければ、標的は無いも同然です。誰も撃たない標的は「標的」ではありません。まるで言語化されないなら、「真理」どころか、何があるのか無いのかさえわかりません。

 修行僧の動作と雲門禅師の動作の違いはここにあります。「絶対的な真理」を想定してものを言うのか、それともその想定自体が無意味だと考えるか。

 修行僧の沈黙に禅師が再び平手打ちを与えたのは、修行僧の沈黙が、未だ「言葉で言えない真理」を前提にしていたからなのです。