恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

ある夜の電話

2009年08月30日 | インポート

 ・・・・・生きる意味かあ・・・。わかんないなあ、ぼくも。

 これね、頭がイイからわかるとか、ワルイからわからない、というのと違うと思うよ。そもそも考えてわかるようなことじゃないんだよ。

 生きているって、それ全部、自分持ちでしょう。みんなそれぞれ違う。重ならないの。君の時間の中にいろんな人が出てくるだろうけど、君の時間自体はほかの人と重ならない。でも、「意味」ってのは、他の人と共通でなければ、そもそも意味としてわかんないじゃん。他の人と重ならないと、「意味」にならないでしょ。

 だからさ、他の人と重ならないものに、重なってこそ通用するものを当てはめても、結局ズレちゃう。しばらく一つの「意味」を納得していても、またわからなくなって違う「意味」がほしくなるんじゃないかな。その繰り返しだよ。それで、楽に生きられるなら、繰り返しも結構だけど。

 生きる意味ってね、どこかにあったり無かったりするものじゃないと思うよ、たぶん。作っていくものだよ。人との出会いや別れ、いろんな関係の中でさ。でね、考えたりわかったりすることでもないんだよ。感じることなんだよ。ああ、生きるってわるくないな、とかね。

 君のお祖母ちゃんさあ、いよいよ最期、大変だったでしょう。体中痛かっただろうし、呼吸も苦しかったろうし。でも、最後まで死にたいなんて、ひとことも言わなかったでしょ。あれ、生きる意味を考えて、それがわかったから、あんなに頑張ったんだと思う? 違うでしょう、ね?

 君が何で頑張れるのって訊いたら、なんて言ったの? そう、それ即座に言ったでしょ。アンタのためだって。本当にそう思ってたんだよ。君が大切で、まだまだ君の人生を見ていたかったのさ。そういうことだし、それが大事なんだよ。

 ぼくね、君がいま切ないだろうなと思うのは、君の場合、愛されたいのに愛されないから苦しいというより、愛したいのに愛することができない、という苦しさだからだと思うよ。これは、ある意味、尋常でない苦しさだろうねえ。

 どうしたらいいか、ぼくにもわからないな、すまないけど。だけど、ちょっと思うのは、人と関係を作っていくとき、結構大事なのは、その人に対する好意を縛ることだな。相手を好きだという気持ちの下に、自分の欲や損得勘定があるのかないのか、よく見ることだよ。あるならあるで、コントロールしないとね。それがわからないと、関係は壊れやすいよ。

 それくらいしか、いま言えないな、ぼくは。悪いね。

 


大祭点描

2009年08月21日 | インポート

 ずいぶんと時期はずれになってしまいましたが、先月の例大祭の様子を写した木村さんの写真が手に入りましたので、ご披露します。

 この夏は、下北半島も天候不順で、期間中まともに晴れたのは1日しかありませんでした。ところが、例のETC効果のせいか、ありがたいことに、昨年より多いご参拝をいただきました。目立ったのは四国からのお参り。話に聞くと、1000円で走れる最長距離が四国ー青森間らしいです。

Cimg1569  右の写真は、大祭中に行われる大掛かりな法要の一つ、「大般若祈祷会(だいはんにゃきとうえ)」です。お坊さん仲間では「転読大般若(てんどくだいはんにゃ」と略称されます。「転読」とは、仏教経典の中でも最大、全600巻ある「大般若経」を、限られた時間内にそのまま読誦するわけにはいかないので、お坊さんが「大般若経」に説かれる「空」の教義を要約した文句を唱えつつ、経典を扇のようにひろげ、滝の流れ落ちるがごとく展開することで全巻を読んだこととし、その功徳でご祈祷を行うという儀式です。大乗仏教の時代に入り、教えを説いた経典自体に信仰があつまり、講義のみならず、読誦、書写、所持にまで功徳があると考えられるようになって、こうした儀礼も生まれてきたのでしょう。

 次のものは、「賽の河原」を読経しながら廻り、万霊を供養する山主と各地よりご参集の僧侶の方々の列。この期間、下北半島を中心にCimg1578 青森県内、さらに隣県からもお手伝いをいただいています。

Cimg1584  その「賽の河原」の一角に、お地蔵様などが立ち並ぶところがあり、篤信者の方がお供えや供養をしていきます。これらは、どうしても恐山に仏像などを納めたいと希望される方がいた場合、事情によっては、この場所でよろしければということで、安置していただいたものです。ただし、基本的に、恐山は仏像、墓標などの受け入れはしておりませんので、ご承知おきください。Cimg1583

 最後に、今年も出現した手ぬぐいの林。あの世と恐山を往来する人々の旅路を思いやって供養されるのです。50年前はほとんど無かったはずだ、土地の古老が言っていました。これも恐山を訪れる参拝者から自然に生まれ、人々にひろまった信仰です。


すみません。

2009年08月11日 | インポート

 福井の寺に戻っています。お盆の行事に突入、ヒマ僅少。そこでまことにすみませんが、以前書いた拙文を転載して、今回の記事とさせて下さい。

 以下は、6年前、当時のアメリカ大統領ジョージ・ブッシュがサダム・フセインのイラクに戦争を仕掛けた直後、宗門の青年会機関誌に寄稿を求められて書いたものです。この季節に便乗するようで恐縮です。

▼「反戦」と「非戦」の間

 この度の戦争を簡単に言ってしまえば、危険きわまりない武器を隠し持つ疑いがある上に、ひそかに山賊海賊を煽って悪事の限りを尽くさせているらしい、極悪非道の「ならず者」を、自称「自由と民主主義」のチャンピオンが、圧倒的なハイテク暴力で抹殺する、ということだろう。

 すると、この戦争を支持するか否かの議論は、結局「善い戦争」、あるいは少なくとも、「役に立つ戦争」があるのかないのか、という問題をめぐるものとなろう。

 だとすれば、この議論は善悪や有益無益の根拠をめぐって、道徳的・政治的・経済的観点から、甲論乙駁、果てしない論争となるに違いない。この場合、「反戦」とは、論争の一方の当事者となることである。

 もしこのように考えるならば、私が思うに、仏教のとる立場は「反戦」ではない。その立場は「非戦」である。

「非戦」は、何か根拠を挙げて戦争に反対する「反戦」とは違う。それは「戦わない」と決断することである。あるいは「殺さない」と決断することである。ゆえに、論理的に言えば、「反戦」で死刑支持はあり得ても、「非戦」で死刑支持はあり得ない。最も極端に言えば、虫も殺さないのが「非戦」の立場である。

 したがって「不殺生戒」の立場で「反戦」だと言うのは、誤解である。何らかの理由で殺すことが悪いことだから、「不殺生」なのではなく、釈尊が「不殺生」と決めたから、その教えにしたがう者にとって、殺すことが悪いことになったのだ。「戦わない」「殺さない」は、論理の問題ではなく、決断の問題である。それが仏教の立場であり、その決断の責任をとるのが、仏教者の主体性の根拠である。

 である以上、我々は、まず自ら殺さない、戦わないと誓い、その立場をあらゆる機会をとらえ、あらゆる手段を駆使して訴えなければならない。殺さず戦わずにすむように、持てるすべての方法を、戦いの前・中・後を問わず、動員しなければならない。

 そして何よりも、戦争の原因となる格差・差別・対立、すなわち隠れた小さな戦争を除去する行動を、日常から積み上げていかなければならない。

 その主張が社会から嘲笑され、時の権力から攻撃され、教団の存続と僧侶の生活が危険に瀕したとしても、互いに励まし合い、一丸となって非戦の立場を全うする覚悟と努力を持続することーーー我々のとるべき道はこれであろう。

 敢えて言えば、仏教は「平和」を求めるのではない。「非戦」を貫くのだ。

 道元禅師いわく、

「人は我を殺すとも我は報を加へじと思ひ定めつれば、用心もせられず盗賊も愁へられざるなり。時として安楽ならずと云ふことなし」(『正法眼蔵随聞記』)〈私訳:誰かが自分を殺そうとも、自分は報復を加えないと決めてしまえば、身を護る心配もしなくてすみ、盗賊に襲われる不安もなくなって、時として安らかな気持ちでいられない、ということもない〉

 この「安楽」は、現在の我々にとって重く、厳しい。多分「平和」とは、ただの無戦状態の安逸ではなく、「非戦」の緊張の中で創造される過程だろうと、私は考える。(了)

 当時の状況もあり、若い僧侶が読者であることもあり、読み直してみると、ずいぶん気負った文章になっていますが、私には今も思い入れのあるものです。

追記:7月13日付けの本ブログ記事でご案内した、恐山参禅修行の件、おかげさまにて定員に達しましたので、募集を終了します。なお、17日恐山着にてお申し込みの場合、定員オーバーでもお受けいたします。多くのお申し込み、ありがとうございました。

 


「ご都合主義者」の意見と実践

2009年08月01日 | インポート

「恐山の大祭が終わったはずなのに、報告をしないとは何事か!」と、ある筋から叱られてしまいました。実は恐山の名カメラマン・木村さんが終了直後から所用で外出中で、彼が見事に撮影したはずの写真が入手できていません。ここはもうしばらくご海容を願い、後日を期して写真付のご報告をしたいと思います。そこで今回も、徒然なるままに駄文をひとつ。

 まだ中学生の頃だったと思いますから、たぶん1970年代なかば、「ノストラダムスの大予言」というのが、たいへんなブームになりました。その騒ぎの最中、友達のひとりが言いました。

「1999年に本当に人類が滅亡するなら、それを今知ろうと、前日に知ろうと、5分前に知ろうと、知らないまま死のうと、同じだろ」

 なんて頭のよいヤツだろうと、私はすっかり感心してしまいました。そして同時に、この類の話は、びっくりしたり面白がったりしていればよい、所詮は全部「娯楽」なんだなと、妙に腑に落ちたものです。

 超能力や霊能力の話も同じことで、すべからく「娯楽」の範疇で扱うのが穏当なところであって、人生の一大事のごとく「真面目」に取り組むのは、害のほうが大きいでしょう。

 だいたい、念力でスプーンを曲げても傍目にはつまらぬイタズラでしょうし、時速60キロで水平移動できるならいざしらず、漠然と人が空中浮遊しているのは、ただの邪魔でしょう。

 前世がエジプトの女王だとわかっても、当人の毎日のOL暮らしがどうにかなるわけでもなく、明日の予定さえ予定通りにならないのが市井の我らの日常なら、来世が見えても仕方ないでしょう。夏定番の怪談とまったく同様、こういう話は基本的に「娯楽」にしておけばよいのです。

 ただし、そういう能力があるのか無いのか、そういう事実があったのか無かったのかという不毛で無駄な議論とは別に、そのような話がどういう意味を持つかについては、考えなければならないときがあります。つまり、その話が、どういう状況で、どういう人たちの間で、どういうふうに語られるのかよっては、「娯楽」ではすまず、「真面目」に考えざるを得ないときがあるのです。

 たとえば、急に難病に罹って気落ちしている人に、もっともらしく「前世のタタリ」を持ち出す不逞の輩が登場すると、普段は「娯楽」ですませる人でも、「真面目」になってしまうかもしれません。要は、話の扱い方です。

 先般、宿坊に泊まった中年のご婦人が私のところにやって来ました。

「和尚さん、すみませんが、ちょっとだけお話いいですか?」

 顔は笑顔でしたが、目が笑っていません。

「わたし、最近に娘を亡くしてしまって、それから毎日お墓参りしてるんですけど・・・。どうにも悲しくて・・・。そしたら・・・、ご近所の霊を見る人に、あんまりお墓参りに行くと娘が成仏できないって言われて・・・。そうなんでしょうか。よくないんでしょうか」

 すでに彼女は涙目です。

「ねえ、お母さん。あなた、お墓参りしたいんでしょう。ね?」

「そうなんです! しないではいられないんです! でも、よくないって言うから・・・」

「お参りすればいいよ。悲しいのは当たり前だよ。悲しいときんはちゃんと悲しまないとダメだよ。簡単にお母さんがケロリとなったら、それこそ娘さんガッカリだよ」

「あ、うふふふ・・・、そうですね」

「成仏できないと言うんなら、娘さん、成仏したくないんだよ。お母さんのそばにいたいのさ。あなたの気持ちが落ち着いて静まったそのころには、きっと自然に成仏するよ」

「そうですよね、そうですよね」

「そうさ。お墓参りするほうがずっといいさ」

 もしこのご婦人が朝から晩まで食べるものも食べずにお墓にかじり付き、家族一同困り果てているというなら、私は真逆なことを言うでしょう。

「そうだよ。そんなに悲しんでいるお母さんの姿を見たら、娘さん、成仏したくてもできないよ」

 まさに「ご都合主義」。しかし、確たる信念を持つ「霊実在主義」者の話とくらべて、「ご利益」は少ないかもしれませんが、害も圧倒的に少ないでしょう。

追記: 7月13日付の当ブログでご案内した参禅修行の件、お蔭様であと数人で定員に達します。関心のおありの方、お急ぎ下さい。なお、次の参禅許可証発送は8月18日以降になりますので、8月17日までに到着したお申し込みについては、定員オーバーの場合でも、お受けいたします。