恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「無明」のモデル

2013年03月30日 | インポート

 右手と左手の違いは、区別として一目瞭然で、誰も疑わないでしょう。しかし、もし誰かが「右手は左手より偉い」と言ったら、大概の人は「アレ?」と思うでしょう。なぜなら、「偉い」という価値判断の根拠が不明であるか、あったとしても正当とは考えられないからです。

 さらにこのアイデアから、右利きによる左利きへの攻撃、抑圧、排除という行動に移れば、これはまさに差別です。つまり、簡単に言えば、差別とは、根拠不明か根拠に欠けた価値判断によって、人を攻撃し・抑圧し・排除する行為なのです。

 ここで問題の核心は、差別行為の手前、「右手は左手より偉い」というような、根拠不明の差別的思想の段階にあります。あらゆる差別は、価値判断を伴い、そのような判断を正当化する思想を持つのです。

 しかも注意を要するのは、差別的思想は、往々にして非常に見えにくいことです。たとえば、右左にしても、我々は「彼は社長の右腕だ」とか、「この技術に関しては、彼女の右に出る者はいない」と言ったりします。ところが、その一方で、「彼は左遷されたんだよ」とか、「あの会社はもう左前だぜ」などと日常的に言うでしょう。

 これらの言い回しは、明らかに右に肯定的で左に否定的なニュアンスを含んでいます。ですが、その根拠は、誰がどう考えてもわからないでしょう。左右の区別は行動と認識の便宜にすぎず、価値判断とは無関係だからです。

 もう一つ言えば、今もあるかどうか知りませんが、つい最近までは「夫婦茶碗」と名付けられた大小セットの食器が土産店などで売られていました。これは大小、どちらが夫で、どちらが妻なのか。おそらくそれを売る方も買う方も、大が夫で小が妻だと漠然と考えているでしょう。

 しかし、ご飯やお茶の摂取量の違いは、もともと個人差であって性別によりません。茶碗の大小の性別による区別は根拠不明で、だとすれば、もうすでに差別的色彩を帯びています。

 ところが、これが多くの場合「差別的」だと思われないとすれば、「常識」として我らが日本国に浸透しているからです(アメリカで「夫婦茶碗」は売れないでしょう)。つまり、「常識」とは、ある共同体において「十分根拠を持つ考え方」として認知され、通用しているアイデアなのです。

 このような「常識」がしばしば我々の判断根拠となるわけで、だとすれば、当然そこには社会的・時代的条件の制約がありますから、ある時代においては十分根拠を持つ社会的「常識」が、別の時代と社会では「非常識」な「差別」に転化します。「身分制度」は封建社会の「常識」で近代社会の「差別」であることは、出すまでもない例でしょう。

 仏教的考え方からすれば、「常識」だろうと「非常識」だろうと、およそあらゆるアイデアや判断は、それ自体に無条件の根拠を持ちません。それらはみな、時代的社会的に条件づけられた人間集団内の関係性から構成され・析出されてくる、暫定的な観念形式に過ぎないのです。

 にもかかわらず、あるアイデアを頭から「正しい」と断定して異論を許さず、それを根拠に他者を排除するとすれば、これは完全に倒錯的な行為であり、仏教でいう「顛倒妄想」、「無明」の典型と言えるでしょう。

 最近関西の某市で、「常習的」にギャンブルする「生活保護受給者」を当局に通報する「責務」を定めた条例が、可決されたと報道されました。

「常識的」な考えだと市側は主張しますが、パチンコしている人物を、「常習的」であり、「生活保護者」であると、通報者は何を根拠に判断し、それが間違いならば、誰が「責任」を負うのでしょうか。

 さらに言うなら、「生活保護者」のパチンコはなぜ許されないのでしょうか。あるいは、どの程度の「頻度」なら、許されるのでしょうか。または、どのような「娯楽」なら、よろしいのでしょうか。そして結局のところ、何を根拠に?

 念のため申し添えますが、私は、「生活保護受給者」が「常習的」にギャンブルすること自体を、結構であると思っているわけではありません。しかし、そう思うことと、「思い」を公的に主張して制度化し、第三者に一定の行動を「責務」として促すことは、次元が違うのです。

 この条例は、私に言わせれば、すでに差別的思想、少なくともその傾向を強く内包しています。実際の運用において差別とならないよう、当局は繊細な注意を払う「責務」があるでしょう。

追記:次回「仏教・私流」は4月18日(木)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。


「風化」の記憶

2013年03月20日 | インポート

 3月11日が過ぎて、9日目。一週間ほど続いた、メディアの溢れるような震災報道・番組の潮も、すっかり引いています。

 その引き加減が報道最中から後ろめたかったのか、どの記事・番組も「記憶の風化」を憂え、自戒の態度を示すことで、我々に「風化の防止」を訴えているようでした。

 被災された方々はもちろん、直接被災しなくても、あの震災と原発事故で、生活の、あるいは生きていくこと自体の前提条件を変えられてしまった人々にとっては、その経験は「風化」どころか、圧倒的な現実であり、いまも「被災」が続いているというべきでしょう。

 しかし、揺れも感じず、避難もせず、家も壊れず、職も身内も亡くさず、せいぜい歩いて帰宅した程度の「被害」しかなかったこの国の多数にとっては、その経験は所詮「印象」、強くても「衝撃」の範囲におさまるでしょうから、それが時間とともに「風化」するのは、当たり前です。

 おそらく、次第に毎年の「終戦記念日スペシャル」とおなじような扱いになり、追悼式典と「甲子園の黙祷」のような定番行事化していくはずです。

 今年も甲子園で、試合を突然中断されて、サイレンとともに黙祷するであろう高校生は、何を思って黙祷するのでしょう。多分、戦争犠牲者を脳裏に思い浮かべはしないはずです。だって、「戦争犠牲者」は彼らにとって、「戦国大名」くらいのリアリティでしかないでしょうから。

 こういうことを「風化」というなら、3.11も必ず「風化」します。では、メディアの「年中行事」も「追悼式典」も「黙祷」も無意味なのか。

 私は違うと思います。それらは、我々にまさに「風化」を思い出させるからです。我々は、これからも「風化」を確認し続けるべきです。そして、この確認において、「風化する記憶」とは別の仕方で、震災を引き継ぐ努力を継続すべきでしょう。

 引き継ぐべきは、「記憶」ではなく、「問題」です。震災と原発事故が、最早隠しようもなく露わにした、この国の社会と人間における根本的問題に真正面から相対することが、「非被災者」にとっての、「風化」へのほとんど唯一の抵抗だと、私は思います。

 震災のどこにどんな「問題」を発見するか、あるいは設定するかは、人それぞれでしょう。しかし、我々はみな、すでに自らの足下に大なり小なり問題を抱えているのであり、多少の想像力があれば、それと「震災問題」とのつながりを見ることは、そう難しいことではないはずです。なぜなら、あの災害の規模の大きさと深刻さは、すでにそれ自体として、ある程度の質的「普遍性」を持ってしまっているからです。

 思うに、直接の防災対策は言うに及ばず、自らの家族の問題、職業の問題、人間関係、そして老いと死の問題。その先に震災とつながるものが、必ずや見えるでしょう。

 道元禅師は、その著書『正法眼蔵』の中で、ある祖師の清貧きわまりない修行ぶりを紹介して、「慕古(もこ)」という言葉を示しています。

「(米粒が全く見えないほど薄い粥をすすって修行に邁進したこの祖師は)あるいは木の実を拾って、弟子も自分も日々の食料としていた。後進にあたるはずの我々は、祖師の修行を讃えるにあたって、昔日の厳しい修行ぶりに及ばないにしても、それを慕古することを心構えとするのである」

 この場合の「慕古」は、漠然と先人の事績を讃えたり懐古することではありません。その「古」とは過去が現在と未来に訴える声なのであり、「慕」はその声を聴き取り、自らの課題に設定しなおすことなのです。先人がやったとおりの修行を今の我々がそのまま出来ないにしても、すなわちそれは「風化」するにしても、先人が志したものを、我々も志すことはできるはずです。

 5月になれば、今年も恐山に被災地からお参りがあるでしょう。どのような方にお目にかかり、どんなお話をうかがうことになるのでしょうか。そして、これから私はいかに「慕古」していけばよいのか。問いが続くことだけは、確かです。


市井の哲学(?)

2013年03月10日 | インポート

▼ 「神様がいるかって、いるよ。わからないの?」(某宗教「信者」)

※ まさに「信じるている人」は、「信じている」とは言わない。

▼ 「私は変わりたいって、人がよく言うけどねぇ、大抵はどうでもいいトコしか変わらないんだよねぇ」(会社員)

※ 変わる当人は同じ人。

▼ 「支え合いってね、お互い少し力を抜かないとね。どうかすると、突っ張り合いになっちゃうからね」(介護士)

※ ただ「頑張る」人はプロではない。

▼ 「遅すぎた選択ってさあ、言うじゃん。でも、それまでしなくてすんでた選択なら、大した意味ないよ」(高校生風)

※ 選択することの「悲しみ」は、若い君にはまだ、わかるまい(わからなくていいけど)。

▼ 「何かをコツコツ積み上げていって、その上に立てば、見はらしがよくなるでしょ。そのとき、どこに向かって行こうかって、考えたらいいさ」(住職)

※ まずは、まわりを片付けよう。


「派遣」は職業ではない

2013年03月01日 | インポート

 彼は若い頃から多彩な才能に恵まれていました。それを見込んで、多くの人から様々な仕事を依頼され、それに対して人並み以上の出来栄えで応え、相当の尊敬と収入も得ていました。

 私は彼の才能を讃え、その働きぶりを称賛しました。そうしたら、彼はポツリと言いました。

「でもね、そろそろ本業を決めなければと思うんですよ」

 私は聊か驚きました。彼にしてなお、そう思うのか。

 彼の言葉は、近代以後の社会において、「自分が何者であるか」ということが、特定の「職業」によって決定されていることを、端無くも物語っているのです。逆に言えば、今の社会では、「本業」が曖昧な者は胡散臭い人間で、「無職」であることは「一人前の社会人」として認められないことを意味しているのです。

 彼の話を聞いたとき、私にはふと思ったことがあります。

 たとえば、話の流れで、誰かに「ご職業は?」とか「お仕事は何をなさっているのですか?」と訊いたとします。すると、当節多くの場合、

「会社員です」

と答えます。

 ところが、同じ質問を別の人にしたとき、「会社員」とまったく同じような場所で同じような仕事をしている人が、「会社員」ではなく、

「派遣です」

と答えることがあります。これはおかしいでしょう。

 この人の「職業」はどう考えても「会社員」のはずです。そして働き方が「派遣」でしょう。

 にもかかわらず、彼が「職業」を尋ねられて「派遣」と答え、どうやら世間もそれを不思議と思わないらしいのは(様々な書類の中には、職業欄に「会社員」と並んで「派遣社員」という項目が入るものもあるそうです)、「派遣」は「会社員」とは別の職業だと思っている、ということでしょう。

 とすると、この違いは、仕事内容と職場環境にほとんど差異がないなら、要するに「身分」の違いということになります。そして、現在の社会状況では、「派遣」は「会社員」より劣位にある「職種」という意味になるでしょう。

 私は、「職業」が人々の所謂「アイデンティティ」の根幹をなす社会において、この状況は問題だと思います。

 けだし、世に言う「同一労働・同一賃金」という原則は、単に待遇や賃金の問題だけではありません。この原則は、「自分が何者であるのか」という決定的問題に深く関わります。

 少なくともこの原則の貫徹は、「派遣」という働き方をしている人が、「ご職業は?」と訊かれて躊躇なく「会社員です」と即答するための、十分条件ではないかもしれませんが、必要条件でしょう。

 雇用政策が論じられるとき、よく経営者側が、「派遣」などの「非正規労働」の形態を擁護して、

「働き方を選ぶ自由のためにも、このような雇用形態が必要なのだ」

 という言い方をしますが、もし本当にそう思うなら、「同一労働・同一賃金」の原則を遵守して、「自由に働き方を選んだ結果派遣となった、まぎれもない会社員」という自意識を働く人が持てるように、制度をきちんと設計すべきです。

 この分野では門外漢の所感ですが、ことが実存の問題だと思うので、あえて申し上げました。

追記:次回「仏教・私流」は、3月21日(木)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。