右手と左手の違いは、区別として一目瞭然で、誰も疑わないでしょう。しかし、もし誰かが「右手は左手より偉い」と言ったら、大概の人は「アレ?」と思うでしょう。なぜなら、「偉い」という価値判断の根拠が不明であるか、あったとしても正当とは考えられないからです。
さらにこのアイデアから、右利きによる左利きへの攻撃、抑圧、排除という行動に移れば、これはまさに差別です。つまり、簡単に言えば、差別とは、根拠不明か根拠に欠けた価値判断によって、人を攻撃し・抑圧し・排除する行為なのです。
ここで問題の核心は、差別行為の手前、「右手は左手より偉い」というような、根拠不明の差別的思想の段階にあります。あらゆる差別は、価値判断を伴い、そのような判断を正当化する思想を持つのです。
しかも注意を要するのは、差別的思想は、往々にして非常に見えにくいことです。たとえば、右左にしても、我々は「彼は社長の右腕だ」とか、「この技術に関しては、彼女の右に出る者はいない」と言ったりします。ところが、その一方で、「彼は左遷されたんだよ」とか、「あの会社はもう左前だぜ」などと日常的に言うでしょう。
これらの言い回しは、明らかに右に肯定的で左に否定的なニュアンスを含んでいます。ですが、その根拠は、誰がどう考えてもわからないでしょう。左右の区別は行動と認識の便宜にすぎず、価値判断とは無関係だからです。
もう一つ言えば、今もあるかどうか知りませんが、つい最近までは「夫婦茶碗」と名付けられた大小セットの食器が土産店などで売られていました。これは大小、どちらが夫で、どちらが妻なのか。おそらくそれを売る方も買う方も、大が夫で小が妻だと漠然と考えているでしょう。
しかし、ご飯やお茶の摂取量の違いは、もともと個人差であって性別によりません。茶碗の大小の性別による区別は根拠不明で、だとすれば、もうすでに差別的色彩を帯びています。
ところが、これが多くの場合「差別的」だと思われないとすれば、「常識」として我らが日本国に浸透しているからです(アメリカで「夫婦茶碗」は売れないでしょう)。つまり、「常識」とは、ある共同体において「十分根拠を持つ考え方」として認知され、通用しているアイデアなのです。
このような「常識」がしばしば我々の判断根拠となるわけで、だとすれば、当然そこには社会的・時代的条件の制約がありますから、ある時代においては十分根拠を持つ社会的「常識」が、別の時代と社会では「非常識」な「差別」に転化します。「身分制度」は封建社会の「常識」で近代社会の「差別」であることは、出すまでもない例でしょう。
仏教的考え方からすれば、「常識」だろうと「非常識」だろうと、およそあらゆるアイデアや判断は、それ自体に無条件の根拠を持ちません。それらはみな、時代的社会的に条件づけられた人間集団内の関係性から構成され・析出されてくる、暫定的な観念形式に過ぎないのです。
にもかかわらず、あるアイデアを頭から「正しい」と断定して異論を許さず、それを根拠に他者を排除するとすれば、これは完全に倒錯的な行為であり、仏教でいう「顛倒妄想」、「無明」の典型と言えるでしょう。
最近関西の某市で、「常習的」にギャンブルする「生活保護受給者」を当局に通報する「責務」を定めた条例が、可決されたと報道されました。
「常識的」な考えだと市側は主張しますが、パチンコしている人物を、「常習的」であり、「生活保護者」であると、通報者は何を根拠に判断し、それが間違いならば、誰が「責任」を負うのでしょうか。
さらに言うなら、「生活保護者」のパチンコはなぜ許されないのでしょうか。あるいは、どの程度の「頻度」なら、許されるのでしょうか。または、どのような「娯楽」なら、よろしいのでしょうか。そして結局のところ、何を根拠に?
念のため申し添えますが、私は、「生活保護受給者」が「常習的」にギャンブルすること自体を、結構であると思っているわけではありません。しかし、そう思うことと、「思い」を公的に主張して制度化し、第三者に一定の行動を「責務」として促すことは、次元が違うのです。
この条例は、私に言わせれば、すでに差別的思想、少なくともその傾向を強く内包しています。実際の運用において差別とならないよう、当局は繊細な注意を払う「責務」があるでしょう。
追記:次回「仏教・私流」は4月18日(木)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。