恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

例大祭終わりました

2013年07月30日 | インポート

 恐山夏季例大祭は、本年も7月20日から24日まで行われ、無事終了しました。ご参拝の皆様、ありがとうございました。お疲れ様でした。

  今年は初日二日が快晴。最近稀なことでした。23日・24日も晴れ。お天気にはめぐまれました。

 ただ、22日のみ朝から雨。そしてこの日が、大祭でもメインの一つといえる行事、山主上山式の日であり、「東日本大震災殉難歿故者諸精霊供養法会」当日だったのです。

F1000061  上山式はかろうじて雨を避けることができましたが、震災供養法会は外では無理でした。昨年開眼した宇曾利湖畔のお地蔵さま尊前では行うことができず、急遽場所を本堂に移して、ご参拝の方々と共にご回向致しました。

 今年も被災地の2団体の方々から生花のご供養をいただきました。特に告知もしなかったにもかかわらず、電話でお問い合わせを賜り、恐縮に存じました。

 法要は大祭にお集まりのご寺院様によって丁重な読経と、ご参拝各位のご焼香をいただきました。被災地から、偶然この日に参拝にいらして法要に参列された方は「親戚が亡くなりました。呼んでもらったのかもしれません」とおっしゃっておられました。Photo_3

 最後に院代から御礼のご挨拶を申し上げましたが、以前山主が申しておりました通り、このお弔いとご供養は長い時間が必要だと思います。またそれが当然なのです。

 たとえ、日々の生活に懸命となり、復興に努力する毎日であったとしても、被災者の方々、お身内を亡くされた方々のお気持ちの真ん中には、今もなお3年前にあの日が留まっておられるのではないでしょうか。

 
私にはそれを察することしかできませんが、そうした方々がこの恐山にお参りに来てくださることは、心から有り難く存じております。

 Photo_2大祭中にも、またお話をうかがいました。ご家族6人を失われた方でした。一番お若いお嫁さんには、お腹の中に赤ちゃんがおられたのだそうです。

 「お腹の子も家族ですから、6人の供養なんです」

 哀切極まりないお言葉でした。

 

 

 


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9 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
 ご冥福をお祈りいたします。 (senrigan)
2013-07-30 02:32:16
 ご冥福をお祈りいたします。
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そのような人々は何人もいらしゃると思いますが、... (良寛)
2013-07-30 12:24:41
そのような人々は何人もいらしゃると思いますが、そのような人々に今の日本の仏教は、何ができるのでしょうか?

仏教は、人間らしく生きるための菩薩道であると思っていますが、苦しみの中にいる人々をどのように導くのか?

その問を今突きつけられているように思うのは、私だけでしょうか!


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>仏教は、人間らしく生きるための菩薩道であると... (三河屋彦江門)
2013-07-31 10:08:35
>仏教は、人間らしく生きるための菩薩道であると思っていますが、苦しみの中にいる人々をどのように導くのか?
 
南さんなら「人間らしい」「菩薩道」「苦しみ」の定義は何かと問うのでしょうか?
 
人間は、自己の認識や見解から生み出される意味に苦しみます。釈尊は、その苦しみを乗り越える方法を説いたのだと思います。だから認識や見解が変わるだけで、自己の能力や環境は全く変わりません。仏教の役割は、その程度のものです(もっともその程度が凄いことなのですが)。
 
しかし毒矢の喩えにあるように、認識や見解が間違っているから苦しむのだ(例えば、霊魂なんてないし、極楽があるかなんてわからない)と言ったところで、身内を失って苦しむ人には意味がありません。成仏して極楽に行きましたよ、と伝えることで、苦しみが和らぐなら、仏教上間違っていても遥かに意義があります(南さんは、恐山で書いていますよね?)。
 
ところで小松和彦の「憑霊信仰論」やこれを題材に京極夏彦がミステリーを書いていますが、呪いや妖怪の存在は、それを信じる者の間にしか成り立ちません。だから仏教に解決を求める人にしか、仏教は応えることができません。それでも仏教が何かできるはずだというのは、なかなか難しいことだと思います。
 
つまるところ、今できることをやる以外ありません。キリスト教のように、月収の十分の一を寄付して貰って(聖書にある教えです)、ボランティアを組織化できれば、色々できるかもしれませんね。
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南老師は、【正法眼蔵を読む】の中で縁起的観点に... (良寛)
2013-07-31 19:42:25
南老師は、【正法眼蔵を読む】の中で縁起的観点に基礎づけられた生活実践とは、具体的には出会いや関係、差異の尊重という事で二元図式に仮託して言えば、他者の立場に想像力をはたらかせつつ相手を受け止める事、つまり慈悲、大悲的な利他行であるとおっしゃっています。

法華経には、如来寿量品に『我本行菩薩道』とありこれが、大乗仏教の神髄ではないのでしょうか?

葬式仏教としか認識が横行している昨今、今こそ仏教が物理的な支援ではなく、精神的支援をする方法があるのではないかと思ったまでです。

私事ですが昨年9月に癌で父を亡くし、死と言う現象を身近に感じ、不安神経症になってしまった母が私のつたない、仏教の教えで安心するのを見ていると、仏教が葬式仏教になっていることが、悲しく思えたのです。

まあ以上の事は、仏教に限らず宗教全般に言える事ですが、仏道を学ぼうとしている凡夫が考えた事です。

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 長い年月のうちに、形式的なものとなったり、大... (Unknown)
2013-08-01 07:28:13
 長い年月のうちに、形式的なものとなったり、大きな組織となったりしている仏教ですが、本来は自分の世界を受け止める為の個人的なものであったと思います。自分の道をより良く受け止めることが、視野を広げ、他の人の道をも認め、良き縁を生むことに繋がるのでしょう。
 現実は常に変わり続けます。釈尊は理想を固定することで生まれる弊害に注意をはらう、ということについて、かなりの比重をかけてお伝えくださいました。常に「いまここ」に最大限の注意を払い、自分のいる空間の現実を感じ、今この瞬間、最良であることは何なのか、自分自身で考え続けること。それは楽なことではありません。
 どんなことが起きても、今を感じ、前を向いて歩く。釈尊のような強さを持つことが出来れば、「自力」で良き未来を開き、菩薩道を生きることが出来るのでしょう。全ての人は、「大いなる世界」の一部であるのですから。
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悲しみを背負い生きる人たちが、少しでも早くご自... (ride)
2013-08-01 08:31:59
悲しみを背負い生きる人たちが、少しでも早くご自分の良き道を生きることが出来ますように。
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私とて突然に親や子、孫たちを一度に失った場合を... (はてな)
2013-08-01 09:16:39
私とて突然に親や子、孫たちを一度に失った場合を思えば・・・ それは辛い、それでもしかしと考えられるのが人という存在、望んだことが即刻叶えられ予知が可能であるならば ・・・ こりゃ、生きるに値しないぞ。
であればこそ、突然の辛さ、悲しみも致し方なしであることを肝に銘じておりますが、さてさて、万が一にもそのような事態が生ずれば ・・・

何時もながら思うことは、自分が死ぬことは何でもないことだな ・・・ 「すまないが先に逝くよ」
如何に在っても仕方ないもの。 自死するつもりはないものの「死」は最善の贈り物だね。 誰の?
あくまでも自問自答ですが、その意思を確たるものにしてくれるのが、現成考案でしょうかね。 
いや、超越的存在を考えると 「おだいっさん」 という訳の分からない存在もあるな・・・
命在る間は、この「エゴという奴」 と如何に付き合うかだけでしょうね。
どうでもいい私事ですね。  すみません。
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仏教を信ずるものも、信じないものもに関わらず死... (良寛)
2013-08-05 12:54:29
仏教を信ずるものも、信じないものもに関わらず死に際して葬儀なるものを執り行う。葬儀なるものは、ある人が世間に対し死んだ事を宣言する儀式だと思います。今の日本人の多くは、仏前にて葬儀を行うでしょうが、その時僧侶は死んだ人間がこれから行くであろう所を言う僧侶はすくない!(浄土宗や浄土真宗は、西国浄土に行ったと明言するが)にもかかわらず、盂蘭盆会と証し
、先祖の魂が帰ってくるとか、先祖の魂に安らぎをもたらすと言う。

お盆やお彼岸にしても、その時に死者を現存させるには良い機会だが、その都度檀家を集めて布施をさせるのはどうなのか?
先日、叔父が檀家となっている、渋谷駅近くの曹洞宗寺院行った時思った事です。(そこの住職は剃髪してないし)
帰りがけに、同じ盂蘭盆会に出席していたご婦人方が、お坊さんへの支払いもバカにならないわと話していたので、これを商取引かと思っているのだなと思えてなりませんでした。

これが悲しいかな仏教の現実なのでしょうか?





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今日、BS日テレで、20:00から「日本100... (Unknown)
2013-08-07 08:54:25
今日、BS日テレで、20:00から「日本100巡礼 ジュディ・オングが青森県恐山へ死者と向き合う旅▽案内人・玄侑宗久」が放送されるのですが、南さんは出演されるのかなぁ~?
あぁ~見たい!でも見ることができない・・、残念!
YouTube に誰か投稿してくれることを期待しよう・・。
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