恐山夏季例大祭は、本年も7月20日から24日まで行われ、無事終了しました。ご参拝の皆様、ありがとうございました。お疲れ様でした。
今年は初日二日が快晴。最近稀なことでした。23日・24日も晴れ。お天気にはめぐまれました。
ただ、22日のみ朝から雨。そしてこの日が、大祭でもメインの一つといえる行事、山主上山式の日であり、「東日本大震災殉難歿故者諸精霊供養法会」当日だったのです。
上山式はかろうじて雨を避けることができましたが、震災供養法会は外では無理でした。昨年開眼した宇曾利湖畔のお地蔵さま尊前では行うことができず、急遽場所を本堂に移して、ご参拝の方々と共にご回向致しました。
今年も被災地の2団体の方々から生花のご供養をいただきました。特に告知もしなかったにもかかわらず、電話でお問い合わせを賜り、恐縮に存じました。
法要は大祭にお集まりのご寺院様によって丁重な読経と、ご参拝各位のご焼香をいただきました。被災地から、偶然この日に参拝にいらして法要に参列された方は「親戚が亡くなりました。呼んでもらったのかもしれません」とおっしゃっておられました。
最後に院代から御礼のご挨拶を申し上げましたが、以前山主が申しておりました通り、このお弔いとご供養は長い時間が必要だと思います。またそれが当然なのです。
たとえ、日々の生活に懸命となり、復興に努力する毎日であったとしても、被災者の方々、お身内を亡くされた方々のお気持ちの真ん中には、今もなお3年前にあの日が留まっておられるのではないでしょうか。
私にはそれを察することしかできませんが、そうした方々がこの恐山にお参りに来てくださることは、心から有り難く存じております。
大祭中にも、またお話をうかがいました。ご家族6人を失われた方でした。一番お若いお嫁さんには、お腹の中に赤ちゃんがおられたのだそうです。
「お腹の子も家族ですから、6人の供養なんです」
哀切極まりないお言葉でした。
仏教は、人間らしく生きるための菩薩道であると思っていますが、苦しみの中にいる人々をどのように導くのか?
その問を今突きつけられているように思うのは、私だけでしょうか!
南さんなら「人間らしい」「菩薩道」「苦しみ」の定義は何かと問うのでしょうか?
人間は、自己の認識や見解から生み出される意味に苦しみます。釈尊は、その苦しみを乗り越える方法を説いたのだと思います。だから認識や見解が変わるだけで、自己の能力や環境は全く変わりません。仏教の役割は、その程度のものです(もっともその程度が凄いことなのですが)。
しかし毒矢の喩えにあるように、認識や見解が間違っているから苦しむのだ(例えば、霊魂なんてないし、極楽があるかなんてわからない)と言ったところで、身内を失って苦しむ人には意味がありません。成仏して極楽に行きましたよ、と伝えることで、苦しみが和らぐなら、仏教上間違っていても遥かに意義があります(南さんは、恐山で書いていますよね?)。
ところで小松和彦の「憑霊信仰論」やこれを題材に京極夏彦がミステリーを書いていますが、呪いや妖怪の存在は、それを信じる者の間にしか成り立ちません。だから仏教に解決を求める人にしか、仏教は応えることができません。それでも仏教が何かできるはずだというのは、なかなか難しいことだと思います。
つまるところ、今できることをやる以外ありません。キリスト教のように、月収の十分の一を寄付して貰って(聖書にある教えです)、ボランティアを組織化できれば、色々できるかもしれませんね。
法華経には、如来寿量品に『我本行菩薩道』とありこれが、大乗仏教の神髄ではないのでしょうか?
葬式仏教としか認識が横行している昨今、今こそ仏教が物理的な支援ではなく、精神的支援をする方法があるのではないかと思ったまでです。
私事ですが昨年9月に癌で父を亡くし、死と言う現象を身近に感じ、不安神経症になってしまった母が私のつたない、仏教の教えで安心するのを見ていると、仏教が葬式仏教になっていることが、悲しく思えたのです。
まあ以上の事は、仏教に限らず宗教全般に言える事ですが、仏道を学ぼうとしている凡夫が考えた事です。
現実は常に変わり続けます。釈尊は理想を固定することで生まれる弊害に注意をはらう、ということについて、かなりの比重をかけてお伝えくださいました。常に「いまここ」に最大限の注意を払い、自分のいる空間の現実を感じ、今この瞬間、最良であることは何なのか、自分自身で考え続けること。それは楽なことではありません。
どんなことが起きても、今を感じ、前を向いて歩く。釈尊のような強さを持つことが出来れば、「自力」で良き未来を開き、菩薩道を生きることが出来るのでしょう。全ての人は、「大いなる世界」の一部であるのですから。
であればこそ、突然の辛さ、悲しみも致し方なしであることを肝に銘じておりますが、さてさて、万が一にもそのような事態が生ずれば ・・・
何時もながら思うことは、自分が死ぬことは何でもないことだな ・・・ 「すまないが先に逝くよ」
如何に在っても仕方ないもの。 自死するつもりはないものの「死」は最善の贈り物だね。 誰の?
あくまでも自問自答ですが、その意思を確たるものにしてくれるのが、現成考案でしょうかね。
いや、超越的存在を考えると 「おだいっさん」 という訳の分からない存在もあるな・・・
命在る間は、この「エゴという奴」 と如何に付き合うかだけでしょうね。
どうでもいい私事ですね。 すみません。
、先祖の魂が帰ってくるとか、先祖の魂に安らぎをもたらすと言う。
お盆やお彼岸にしても、その時に死者を現存させるには良い機会だが、その都度檀家を集めて布施をさせるのはどうなのか?
先日、叔父が檀家となっている、渋谷駅近くの曹洞宗寺院行った時思った事です。(そこの住職は剃髪してないし)
帰りがけに、同じ盂蘭盆会に出席していたご婦人方が、お坊さんへの支払いもバカにならないわと話していたので、これを商取引かと思っているのだなと思えてなりませんでした。
これが悲しいかな仏教の現実なのでしょうか?
あぁ~見たい!でも見ることができない・・、残念!
YouTube に誰か投稿してくれることを期待しよう・・。