恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

坐禅の前に

2019年02月20日 | 日記
 お集まり方々、それではこれから、ご一緒に坐禅をしてまいります。どうぞよろしくお願いいたします。

 昨今では、坐禅や瞑想がある意味ブームの様相を呈しておりまして、皆さんもその辺の事情はよくご存じでしょう。

 さて、そのような様々な坐禅・瞑想をざっと見渡した時、私が感じるのは、手足の組み方や姿勢の制御、呼吸の仕方など、身体的技法や作法については、大差がないということです。少なくとも、違いより共通性がはるかに大きい。

 違うのは、坐禅・瞑想を語る文脈です。つまり、何を問題にして、あるいは狙って、それを行うかということです(「見性」「非思量」「マインドフルネス」「気づき」、エトセトラ)。そしてこの違いが、坐禅・瞑想中の意識をどう誘導していくかに、大きく関っているのです。

 そこで、具体的な坐禅の作法や仕方を説明申し上げる前に、これから坐禅を行う狙いについて、若干のご説明をさせていただきます。

 皆さんは別に修行僧になろうというわけではなく、お仕事をお持ちであり、それぞれに家庭での生活もおありでしょう。その日々の中で今坐禅を学ぼうというわけですから、それは「坐禅を日常生活に活かす」という類の文脈に乗ることになるのでしょう。

 とすると、この場合、よく坐禅希望者から聞く話は、仕事や家庭での喜怒哀楽、さらに嫉妬や忍耐、誇りや傲慢、などの感情や態度に翻弄される自分の心身の疲れをなんとかしたい、考えすぎて煮詰まった頭をなんとかしたいということです。

これには、これからご紹介する坐禅は、一定の効果があります。つまり、意識のクールダウンは、坐禅の基本的な効能だからです。

 私は、時として、様々な困難や苦しさを抱えた方のお話をうかがいますが、そういう時いつも思うのは、苦しさを何とかしたいと思うなら、まず自分が何を欲望しているのか、あるいは何を問題にしているのか、そしてその欲望と問題をめぐる当事者の人間関係がどうなっているのかを、具体的に明示的に明らかにしなければならないということです。

 このとき、そのような明らかにすべき欲望や問題の正体を幾重にも覆って見えなくしているのは、まさに先に挙げたような種々の感情なのです。逆に言うなら、感情が波立って苦しいと言うなら、そのような感情の問題はほとんどが実は考え方や認識の歪みに由来するということです。

 したがって、まずはこの感情を冷やし、しばらく除去して、見るべきもの、己の欲望や人間関係の在り様を露わにしなければなりません。坐禅はそのために、非常に有効だと言えるでしょう。

 それは、坐禅で冷たく静かな視座や視点を確保して、自らの在り方を「見直す」ことなのです。

 何かを欲望して(=何かを目的にして)全力疾走する者には、周囲の景色も自分の足元も、いま現在自分がどこを走っているかもわかりません。それは立ち止まらない限り、見えないし、わからないのです。

 時々、できれば定期的に立ち止まり、どこから来て、どこに向かい、いまどこにいて、自分の心身状態はどうなのか、これらを見直し、点検すべきでしょう。それが確実な走りというものです。

 私が今日皆さんにご紹介するのは、このような「見直す」ための基礎的方法としての坐禅です。では、これからご一緒に坐禅をしてみましょう。
 

杞憂でしょうが。

2019年02月10日 | 日記
 ある人の病が重篤となり、回復の見込みと治療の手段がなくなって、延命の苦痛が耐え難い場合、苦痛を取り除く以外の治療行為を、彼が自らの意思で拒否したり、さらには死期を早める医学的行為を医師にさせる行為を、尊厳死や安楽死だとして、私はこれらを一概に否定するものではありません。

 仏教は、基本的に自殺他殺、さらに死を賛美する行為を禁じていますから、安楽死や尊厳死を積極的に肯定する立場にないものの、初期経典には不治の病に侵された弟子の自殺を否定しないブッダの言辞があることを考えると、この件の判断も一方的に是非を決めかねるところです。

 しかしながら、現在議論される尊厳死・安楽死が、本人の「意志」、すなわち「自己決定」と「自己責任」を担保できる清明な意識を前提とし、要件として強調するなら、私はそこにどうしても危惧を感じてしまいす。

「自己決定」「自己責任」を担保する意識は、近代以後の資本主義市場社会が要求する実存様式の根本条件でしょう。ということは、尊厳死・安楽死を肯定的に主張する議論には、その背後から資本の論理が浸透しているのではないかと思うわけです。

 すなわち、資本の論理からすれば、高齢者の医療費や年金の増大は無視できない社会的「コスト」に他ならず、ならば当然コストカットを意図するでしょう。この意図の先に尊厳死・安楽死があるのではないでしょうか。

 それは「一億総活躍」「女性活躍社会」「生涯現役」という、それ自体は反対するいわれのないようなスローガンの背後に、今後の「経済成長」のために労働力を総動員しようとする資本の意思を感じるのと同然です。

 その場合、私の杞憂は、次のようなことです。

 まず、将来のある時期で、尊厳死・安楽死が法制化され、合法となります。つまり、それは「して『も』よいこと」になるのです。

 それからしばらく経って、尊厳死・安楽死を「選択」する人がある程度多くなったところで、これに保険を適用しようと政府が言い出します。すなわち尊厳死・安楽死は「してよいこと」になります。

 それが十分普及すると今度は、たとえば80歳以上の高齢者を対象とする医療保険や年金に制限をかける措置が導入されます。ということは、尊厳死や安楽死は「したほうがよい」ことになるでしょう。

 すると最後に、「法定年齢」以上に「長生き」したい人には税金をかけよう、そのお金を幼児や児童の保護・教育や、安楽死・尊厳死医療の制度整備や技術向上に使おうじゃないか、という話になるかもしれません。つまり、「したほうがよい」どころか、「するべき」ことになるわけです。

 馬鹿げた妄想かもしれません。たぶんそうでしょうし、そのほうがよいに決まっています。ですが、私は「本人の意思」を錦の御旗に一歩を踏み出した途端、資本の論理に搦めとられて、不可逆的な道を進むことになるような気がするのです。

 もしこのように資本の論理が人間の実存に野放図に浸透していくなら、それは断固阻止されるべきだと、私は思います。無常の実存には最初から根拠が欠けている以上、「生産性」も「コスト」も我々の生を計る無条件的な基準にはならないからです。

 であるとすれば、今後の尊厳死・安楽死問題は、「本人の意思」にばかり焦点を当てて議論されるべきではないでしょう。尊厳死も安楽死も、所詮は死のうとする当事者以外の者に「死なせてもらう」のですから、慎重な社会的合意の形成、特に「本人の意思」に一定の制限をかける工夫が必要だと思います。

 それはすなわち、「本人の意思」が当事者自身に、あるいは周囲の者に偽造され、結果的に尊厳死・安楽死が強制される最悪の事態を、事前に排除するためです。