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禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

自己言及とパラドックス

2025-08-03 16:36:50 | 哲学
 紙になにか文字が書かれている。読んでみると「この紙に書かれていることは嘘である」とある。さて、この紙に書かれていることは本当だろうか嘘だろうか? という趣旨のパズルを見聞きしたことがおありだと思う。これはいわゆる「自己言及パラドックス」と呼ばれている類のものである。ステートメントの中身がそのステートメント自体の真偽について言及したものだから「自己言及」というのである。 「この紙に書かれていることは嘘である」という文言は、現実的にはただのナンセンスでしかない話であって、それを深刻に考え込むというような必要は全然ない。その内容が真実かどうかということはその内容を俯瞰できる立場から判断すべき問題であって、その言明自体が主張するのはナンセンスであり、その紙に書かれていることは始めから無意味であると言いきっても全く差し支えない。

 しかし、数学基礎論ではこのことが重大な問題となっているのである。というのは数学理論の完全性ということに関わってくるからである。数学の完全性というのは、まず第一に無矛盾であるということと、正しい命題は必ず証明できることという二つの条件を満たしているということである。1900年にパリで第2回国債数学者会議の場において、ドイツの数学者ヒルベルトは当時の数学界が解決すべき23の問題(ヒルベルトプロブレム)のうちの一つとして、この数学の完全性を証明するということが提唱されたのである。ところが、1930年に天才論理学者クルト・ゲーデルが、あっさりと数学の完全性を証明するという目論見を打ち砕いてしまったのである。

 ゲーデルの証明法は非常に難解で理解しがたいものだが、かいつまんで言えば簡単である。われわれが普通に数学と呼んでいるような自然数論を含むような数学理論の中に、自己言及命題が存在するをことを証明してしまったのである。その命題を例えば "T" とするとその内容が 「命題 "T" は証明できない」というようなそんな命題である。つまり自分自身が証明できない命題であると自己言及しているわけである。どうしてこれが数学の完全性に関わってくるのかというと、もし命題"T"が本当に証明できないのならば、命題"T"は正しいということになる。つまり、「正しい命題であるにもかかわらず証明できない」ならば、数学理論は「完全」ではないということになってしまう。逆に命題"T"が証明できたとしたら、「命題 "T" は証明できない」という内容は偽であるということになり、その数学理論は矛盾していることになってしまう。いずれにしろ完全性は否定されてしまうわけである。

 もう一つ、自己言及が哲学上の問題となった例を紹介しておこう。ニュートンが万有引力の法則を発見してからは、世界で起きているあらゆる事象が物理学に還元されてしまうのではないかと考える人が多くなった。人間の精神についても脳内で起きている微細な物理現象の反映ではないかと考えられるようになったのである。だとするなら、宇宙の全ての物質の正確な位置と運動量を完全に把握できたなら、これから起こることの全てを予測することが(理論的には)可能になるはずである。つまり、未来は既に決定していることになる。

 私たちは自分が自由であると思っている。歩くのも走るのも、立ち止まるのも、ベンチに腰掛けて休むのも、それらは自分の自由意志によって決定しているはずである。しかし、この世界のあらゆることが既に決定済であると言われると、その「自由」というものがかなりあやしいものに思えてくる。もしこの世界のあらゆる素粒子の状態を記憶しその変移を正確に計算できるようなコンピューターがあれば、未来のことはすべて予測出来るのだろうか? 理論的にそんなことはあり得ない。なぜなら、そのコンピューター自身がその世界の要素そのものであるから、自分自身を構成する要素の全てを記憶する素子が必要になる。自分自身がその世界の構成要素でありながら、その世界の全ての要素の状態を保持するという所からしてすでに無理がある。その世界のただ中に居ながらその世界の中の全てを見通すということがすでに自己言及的である。その世界の中で未来予測をするということ自体もまたその世界の一要素であり、その世界から切り離すことはできない。自己言及はそういう無限遡及をどうしても含んでしまうのである。

 厳密な未来予測が理論的に不可能であるとするならば、「未来は決定している」という言葉はなにを意味しているのだろうか。なにを確認すれば「未来は決定している」という言葉が正しいのかということを説明できなければ、「未来は決定している」という言葉の意味を理解しているとは言えないのではなかろうか。個人的には「未来は決定している」という言葉は空虚な言葉であると私は考えている。 
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空(くう)とダイバーシティとの関連

2025-07-03 18:14:41 | 哲学
 トランプは「人間には男と女の二種類しかない」と言ったそうだが、かつての私もそのように思っていた。体の性(生物学的性)と心の性(性自認)が一致しない状態の人々を指して、「おかま」とか「男女」という偏見に満ちた言葉のレッテルを貼って済ましていた。 自分と異質の人に対してある種の恐怖や警戒心を覚えるのは自然なことかもしれない。しかし、性同一障害というのは自分が好んでそうなったわけではない。私にしても努力して異性を好きになったわけではない。ただ少数派だからという理由で多数派から蔑まれるいわれはないはずである。

 キリスト教における同性愛の解釈は、教派や個人によって異なるらしいが、どうやらトランプは福音派というものに所属しているらしい。その宗派の人々は「聖書は神の霊感によって書かれ、誤り無い神のことばである。」と信じているらしい。そして聖書にははっきりと同性愛を禁じる文言が記されている(レビ記18章22節)。人間が神によって製作されたものならば、神の意図にそわない人間は欠陥品であるということになる。つまり、聖書が正しければ性同一障害者はみんな欠陥品であり粗悪品ということになる。

 しかし、仏教的空の視点から見ればそうはならない。無常の世界ではあらゆるものが常に変化し続けておるからには、全てのものが過渡的であり偶然的なものでしかないからである。そこには正規品だと完成品などという概念は成立しない。それどころか、厳密なことを言えば人間とか男とか女という概念そのものが成立しないと空観は主張する。(参照=>無常と空の関係」
もし人間とか男とか女とかいう概念が厳密な規定によって固定されたものであるならば、現実の世界にはそれに当てはまるものはただ一つとして存在しないというのが大乗仏教の祖である龍樹の主張するところである。昔は性同一障害の人を指して「ホモ」だとか「おかま」だとか大雑把に呼んでいた。ところが何時の間にか「LGBT」などという分類ができていてねごく最近は「LGBTQ」言うらしい。それで最後の「Q」は何かと聞くと「LGBT」におさまりきらない分だという。固定的な概念をいくら細かく分類していても間に合わない。性的志向は無限のバリエーションがありうるからである。それを限定的な言語によって正しく表現するのは不可能である。トランプが正しいとする男と女の正常な性愛についてもそれは言えるはずである。私のような保守的な人間から見れば、いわゆる犯罪的領域にまで拡大しているトランプ自身の性的志向はとても神の意志に沿っているようには見えないのだが‥‥。

 あらゆるものを言語と論理によって理解しようとする態度をロゴス中心主義と言う。それは長い間西洋哲学の伝統であった。龍樹は二千年近く前から現実のものを固定的な概念に当て嵌めて解釈することを戒めていたのである。言語によってものごとを分類することは日常生活においては非常に便利かつ必要なものだが、こと倫理などのデリケートな問題をそれで処理すると不都合なことが生じるのである。ものごとを単純な言語と論理で割り切ることはできない。言葉によりものごとをカテゴライズするという行為自体が必然的にわれわれを有無の邪見を誘導するからである。

 今までに何度か紹介したことがあるがこの問題についてははるな愛さんの言葉をもう一度参照しておきたい。
≪ 私は「トランスジェンダー」と呼ばれますが、その言葉に当てはめられるのはちょっと違うかなという感覚もあります。「LGBT」と呼ばれる人の中でもいろいろなタイプの人がいて、みんな違って当たり前です。4文字ではとても表しきれません。
「LGBT」が表す性的少数者のことを、全部知ることは大変で、私もすべてをわかってはいないと思います。わからなくていいとも思っています。
わからないことをなくすよりも、自分の隣にいる人が、今どうして欲しいと思っているのかを聞ける方がいい。知らなかったり、間違えていたりしたら、それを素直に受け入れる気持ちが大事。一番知らなくてはいけないことは、人のことを決めつけることが、その人を生きづらくさせることだと思います。 ≫ 

 あらためて、世界は固定的な言葉によっては表現できないほど多様であるということを主張しておきたい。現実を言葉で切り取るのではなく、素朴に現実を見つめるという視点が必要である。言葉を介さず素朴に見つめる視点それが空観である。多様性に対しては寛容でなくてはならない。
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神様がいなければ世界は無常である

2025-07-01 15:03:39 | 哲学
 神様がいないということはこの世界を差配している者がいないということである。この世界には目的も意味もないということである。唯一の秩序は物理法則だけであり、ものごとはそれに従って流動しているだけに過ぎない。その背景には何らの意図の如きものもなくすべては無目的的であり偶然的である。 神のいる世界では、人間も犬も猫も神が設計しつくりあげたものであり、それなりの完成形であると考えられる。しかし、無常の世界ではあらゆるものが絶えず流動変化している。どの瞬間をとっても完全に同一というものは存在しないのである。だから無常の世界では個物と言っても、単によく似たパターンを一定の時間の間維持しているだけという程度のものものでしかない。

 神様を前提としない仏教では無常ということがその根本となっている。仏教の中心思想である「空(くう)」というのも無常ということから必然的に導き出されるのである。万物が流動し続けている無常の中では固定的なものは何一つない。あらゆるものが変化の途中である。つまり無常の世界では「完成品」と言えるものは何もない、何か意味ありげなものに見えたとしてもそれは偶然かつ過渡的なものでしかない。神のいる世界では、人間は神の意志によって製作されたものであり、それなりの意義を伴った目的物であり完成品だと考えられる。しかし無常の世界では、その「人間」という概念そのものが否定されてしまうのである。「人間」だけではない、「犬」や「猫」、「山」といった概念もまた同様である。

 ここで述べていることはなかなか受け入れ難いことだと思う。しかし、仏教の空というのはそういうことなのであり、このことはソシュール以後の言語学の主張することと一致するということも事実でなのである。例えば「人間」という言葉は「人間と人間以外を区別するだけであり、厳密な意味を含んでいるわけではない。」というのは現代言語学においてはほぼ常識となっている。通常は、どの人を見ても一人一人姿形が違うのにそれが人間と分かるのはそれぞれの人が人間としての本質(イデア)を備えているからだと考えられている。常識的にはそれは正しいと言っても良いと思う。しかし、その「本質」を厳密に規定するのは不可能であり、どうしても恣意的にならざるを得ないのである。「人間」という概念についてもう少し厳密に考えてみましょう。

 最初の人類は、約700万年前から600万年前にアフリカに現れたとされています。最初から地球上に人間はいなかった、ということはいつかの時点に「最初の」人間が出現したはずです。ということは、最初の人間は人間以外の親から生まれたということになります。もし人間の本質またはイデアというようなものが本当にあるなら、最初の人間と(人間ではない)その親のあいだに客観的な境界が存在する筈です。実際にはそんな境界などあり得ないということがご理解いただけるでしょうか。人間と人間以外の境界は恣意的であらざるを得ない、このことは人間という言葉だけではなくあらゆるものについて言えます。

 ここで述べていることはあくまで「厳密なことを言えば」という但し書き付きであります。「一切皆空」というのはあらゆる概念や言葉を否定するという意味ですが、究極的な事を言えばその通りなのです。決して概念や言葉がいけないと言っているわけではありません、その限界をわきまえておかねばならないということなのです。日常生活においては言語を信頼しなければ八百屋さんへ行ってキャベツ一つ買うことさえできません。日常生活ではキャベツの厳密な本質を問題にする必要も無い、八百屋ならぬ果物屋でキャベツが売られていても一向に差し支えありません。では、仏教における「一切皆空」というのは一体何を問題にしているのでしょうか? 次回記事ではそのことについて論じてみたいと思います。
 

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神様がいるのといないのとではどう違うのだろう?

2025-06-17 10:34:24 | 哲学
 日本人には無神論者が多いと言われるが、昔話に出てくる日本人は大抵信心深い人々がほとんどである。それは日本人だけではない人類に共通した普遍的な傾向である。それはわれわれの理性がそれを要求しているからだと考えられる。神を信じることは非理性的と考える人がいるかもしれないがそうではない、理性が無ければ神は必要ない。人間以外の野生動物はおそらく神などというものは信じていないはずである。
 理性は英語で reason と言う、日本語の理由もまた reason である。日本語に翻訳する場合は文脈によって判断しなければならない。とにかく理性は理由を求める、なにごとにも理由がなければ納得しないのである。「ものごとにはなんでも理由がある」と私たちは考える。人間理性のあくなき探究心は科学に目覚しい進歩をもたらし、現在の宇宙は138億年前のビッグ・バンにより生まれたというようなことまで分かっている。しかし、われらの理性はそれでよしとは言わない。なぜその時ビッグ・バンが生じたのかはまだ分からないからである。科学の解明に終了はない、理性はいくらでもその原因を遡及しようとするからである。いつまで経ってもこの宇宙が存在する根本的な理由は分からないのである。

 この世界の起源と並んでもう一つ大きな謎がある。それはその世界を眺めている私である。そもそも私はなぜ私として存在しているのか、それはいくら考えても分からない。その分からなさに対して折り合いをつけるために、あらゆるものの原因としての「神」というものが必要だったのだろう。言うなれば「神」というのは数学の方程式の中のⅩ(エックス)のようなものである。「神がこの世界を創造した」と「がこの世界を創造した」とは大した違いはない。

 話がこの段階にとどまるなら、無神論者と有神論者の世界認識には同じである。別の言葉を使いながら同じことを語っているにすぎないことになるからである。しかし、現実はそうはなっていない。「X」という記号ではなく「神」という言葉を使うことによってそれは言霊をもつようになるからである。言霊と言ってもその言葉自体が魂を持っているわけではなく、その言葉を口にする人間が勝手にその言葉に魂を吹き込むからである。本来、宇宙の創造者を「神」と名付けただけなら、神の性質は我々の想像を絶したものでありその具体的な性質は我々には何もわかっていないはずである。しかし、どの民族の神にも共通して人間的な価値観が投影されているのが現実である。だからたいていの神様は往々にして人間的な性格を帯びている。その性格というのも結局はそれを信じている人々の恣意的な考えが投影されているので、本来同じ神を信じているはずのキリスト教徒とイスラム教徒のあいだにも往々にして深刻な信念対立が生じるのである。宗教がたびたび大きな争いのもとになってきたことは歴史が証明している。神が単に「Ⅹがこの世界を創造した」というだけの関係代名詞「Ⅹ」であるだけならその内容は空疎である。ひとびとはそのようなニヒルな神にはとうてい満足できないで、無意識の内に自分の潜在的な要求を神に投影してしまうのだろう。たいていの神様は超越的でありながら人間性を帯びているのが普通である。

 神がいればそれを信じる人々はより心のどころができる。この世界統べるのは神であり、神の意志に沿うことが善であり美であり真理なのである。神の言葉を託された指導者にひたすら従っていけばよいということになる。

 では、神さまのいない場合はどうなるのだろうか? 次回記事でもう少し論じてみたい。

中田中央公園の花壇(記事内容とは無関係)
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共同幻想としての国家、通貨

2025-06-04 13:03:09 | 哲学
 今から半世紀以上も前のことになるが私が学生だった頃に、思想家の吉本隆明が「共同幻想」という言葉を敷衍させたように記憶している。われわれの社会は共同幻想というある種の思い込みによって成り立っていると言うのである。その共同幻想の最たるものが国家であろう。もともとは共通の神話を信じる者同士の集まりに過ぎなかったものが、法律や行政制度を整え縄張りとしての国境を画定すれば、そこにあたかも実体的な国家というものが存在すると誰もが信じるようになる。しかも、それは各個人に対して強制力を持つようになる。例えば、日本に生まれた子供は一定の年齢に達するとみんな学校へ通い出す。言わばみんなの思い込みによって成立した国家が、今度は膨大な約束事を通じて私たちの生活全般にいわゆる「社会生活」というものを課してくるのである。

 現代社会では国家抜きの人間社会というのは現実的には考えにくいが、私たちはそれはあくまで共同幻想であるということを忘れてはならない。例えば国境とか言ってもそれはなんらかの必然的な根拠があるわけではなく、ただ地図上に引かれた線を人々が認め合うかどうかの問題でしかないということを忘れてはならないと思う。共同幻想はあくまで幻想にすぎない、その幻想が邪な欲望と結託すると非常にやっかいなものとなる。第二次大戦後、旧約聖書という神話をもとに「パレスチナは神によってユダヤ民族に与えられた『約束の地』である」という出鱈目をもとにイスラエルを建国した人々がいる。もともとそこにいたパレスチナ人を駆逐しようとしている。まことに邪悪な所業としか思えないのだが、シオニストはあくまで自分たちが正当な信念をもとに行動していると信じているのである。実にただ出鱈目な幻想を根拠に「信じている」と思っているだけのことに過ぎないのだが、幻想に基づく信念が残虐な行為を可能にしている。

 国家と並んで代表的な共同幻想である通貨についても述べておきたい。通貨もれっきとした共同幻想である。一万円札は貴重なものであると考えられているが、それはあくまで紙に印刷されたものに過ぎず、それ自体には何の価値もないものである。あくまでその価値は人々の「価値がある」という単なる思いこみに支えられている。それは現代社会を円滑に運用するために必要な思い込みでもある。今や通貨抜きには社会経済は成り立たない。私たちの社会は貨幣=通貨という共同幻想を前提に成立しているのである。しかし、それがあくまで共同幻想に過ぎないということも忘れてはいけない。愚かな政治家がそのことを忘れて緩い経済政策をとると、たちまち貨幣価値は暴落して経済的な混乱をきたすことになる。私は1987年にブラジルに行ったことがあるが、下の写真の2枚の紙幣はその時の記念に持ち帰ったものである。
上の紙幣の赤い矢印の部分を見ると、丸いスタンプが押されている。当時のブラジルは猛烈なハイパーインフレで、前年に『1000クルゼイロ ⇒ 1クルザード』という1000分の1のデノミネーションを行ったばかりであった。それで、1万クルゼイロ札に「10クルザード」というハンコを押して通用させていたのである。しかし、それでもインフレは収まらず、商品の値段は毎日付け替えられるような有様だった。結局ブラジルは1986からの8年間で5回のデノミを実施して、貨幣価値は実に2750兆分の1となったのである。貨幣というものが幻想に基づくものであるからこんなことも起こりえるのである。

 貨幣=通貨が幻想だとしても、それなしには私たちの生活は成り立たない。経済活動の価値基準を支えるために法定通貨には国家の権威が伴わねばならない。結局共同幻想が共同幻想を支えている形、それが現代社会の基本構造となっている。

 ところで近頃は仮想通貨という言葉をよく耳にするようになってきた。もともと幻想である通貨が仮想であるとは一体どういうことなのだろう。説明をいくら聞いても私にはそれがどうして価値も持ち始めるのかが理解できないのである。それは高等数学を応用した暗号技術によってつくられたデジタルデータだというのである。つまりそれは情報であり物体ではない。それを作り出すにはコンピューターを長時間駆動する必要があるらしい。それでそのデータを作り出す作業はマイニング(mining)と呼ばれる。マイニングとは本来は鉱物資源を掘り出すことを言うのだが、おそらく金を掘り出す作業になぞらえているのであろう。金を掘り出すのと同じように大変な作業であり、金と同様に貴重なものであると印象付けようという意図が見受けられる。

 私の理解した限りでは、仮想通貨は盗難や偽造の心配もなく、普及すれば現行の通貨より優れた面をもつような気もする。その発想はある意味画期的でさえあると思う。問題の一つはそれが目で見ることも手に取ることもできないということだろう。そういうものに対してそれが価値あるものと思い込むことは難しい。もっと大きな問題は、現在の仮想通貨はいずれも私的に発行されたものでしかないということである。法定通貨としての1円はインフレであろうがデフレであろうがとにかく1円として通用する。法定通貨そのものが経済価値の尺度であるからである。しかし私的に発行される仮想通貨には価値決定の客観的な尺度は存在しない。金と同様に得難い価値があると言っても、金は美しく手に取ることが出来るし、いつの時代でも装飾品としての需要がある。仮想通貨の価値は需給によって決定する。しかし、なんの保証もないものに投資する人は本来いないはずである。その価値を支えているのは「それを持っていればやがて値上がりする」という人々の思い込みそのものしかないのである。それは共同幻想というよりただの幻想かも知れない可能性がある。私に言わせれば、仮想コインに投資する心理はねずみ講に参加するのと似ているような気がする。
 
 聞くところによれば、アメリカのトランプ大統領は仮想通貨が好きらしい。自らトランプコイン($trump)というものを発行している。驚くべきことだが、現在1$trumpは25億ドル程度で取引されているらしい。どうやらトランプコインを沢山持っていると政治的になんらかの恩恵にあずかれるらしい。そういう意味ではトランプコインは実利に裏打ちされた仮想通貨だと言えるかもしれないが、私の目にはトランプによる邪悪な錬金術にしか見えない。
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