紙になにか文字が書かれている。読んでみると「この紙に書かれていることは嘘である」とある。さて、この紙に書かれていることは本当だろうか嘘だろうか? という趣旨のパズルを見聞きしたことがおありだと思う。これはいわゆる「自己言及パラドックス」と呼ばれている類のものである。ステートメントの中身がそのステートメント自体の真偽について言及したものだから「自己言及」というのである。 「この紙に書かれていることは嘘である」という文言は、現実的にはただのナンセンスでしかない話であって、それを深刻に考え込むというような必要は全然ない。その内容が真実かどうかということはその内容を俯瞰できる立場から判断すべき問題であって、その言明自体が主張するのはナンセンスであり、その紙に書かれていることは始めから無意味であると言いきっても全く差し支えない。
しかし、数学基礎論ではこのことが重大な問題となっているのである。というのは数学理論の完全性ということに関わってくるからである。数学の完全性というのは、まず第一に無矛盾であるということと、正しい命題は必ず証明できることという二つの条件を満たしているということである。1900年にパリで第2回国債数学者会議の場において、ドイツの数学者ヒルベルトは当時の数学界が解決すべき23の問題(ヒルベルトプロブレム)のうちの一つとして、この数学の完全性を証明するということが提唱されたのである。ところが、1930年に天才論理学者クルト・ゲーデルが、あっさりと数学の完全性を証明するという目論見を打ち砕いてしまったのである。
ゲーデルの証明法は非常に難解で理解しがたいものだが、かいつまんで言えば簡単である。われわれが普通に数学と呼んでいるような自然数論を含むような数学理論の中に、自己言及命題が存在するをことを証明してしまったのである。その命題を例えば "T" とするとその内容が 「命題 "T" は証明できない」というようなそんな命題である。つまり自分自身が証明できない命題であると自己言及しているわけである。どうしてこれが数学の完全性に関わってくるのかというと、もし命題"T"が本当に証明できないのならば、命題"T"は正しいということになる。つまり、「正しい命題であるにもかかわらず証明できない」ならば、数学理論は「完全」ではないということになってしまう。逆に命題"T"が証明できたとしたら、「命題 "T" は証明できない」という内容は偽であるということになり、その数学理論は矛盾していることになってしまう。いずれにしろ完全性は否定されてしまうわけである。
もう一つ、自己言及が哲学上の問題となった例を紹介しておこう。ニュートンが万有引力の法則を発見してからは、世界で起きているあらゆる事象が物理学に還元されてしまうのではないかと考える人が多くなった。人間の精神についても脳内で起きている微細な物理現象の反映ではないかと考えられるようになったのである。だとするなら、宇宙の全ての物質の正確な位置と運動量を完全に把握できたなら、これから起こることの全てを予測することが(理論的には)可能になるはずである。つまり、未来は既に決定していることになる。
私たちは自分が自由であると思っている。歩くのも走るのも、立ち止まるのも、ベンチに腰掛けて休むのも、それらは自分の自由意志によって決定しているはずである。しかし、この世界のあらゆることが既に決定済であると言われると、その「自由」というものがかなりあやしいものに思えてくる。もしこの世界のあらゆる素粒子の状態を記憶しその変移を正確に計算できるようなコンピューターがあれば、未来のことはすべて予測出来るのだろうか? 理論的にそんなことはあり得ない。なぜなら、そのコンピューター自身がその世界の要素そのものであるから、自分自身を構成する要素の全てを記憶する素子が必要になる。自分自身がその世界の構成要素でありながら、その世界の全ての要素の状態を保持するという所からしてすでに無理がある。その世界のただ中に居ながらその世界の中の全てを見通すということがすでに自己言及的である。その世界の中で未来予測をするということ自体もまたその世界の一要素であり、その世界から切り離すことはできない。自己言及はそういう無限遡及をどうしても含んでしまうのである。
厳密な未来予測が理論的に不可能であるとするならば、「未来は決定している」という言葉はなにを意味しているのだろうか。なにを確認すれば「未来は決定している」という言葉が正しいのかということを説明できなければ、「未来は決定している」という言葉の意味を理解しているとは言えないのではなかろうか。個人的には「未来は決定している」という言葉は空虚な言葉であると私は考えている。