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禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

帰郷 (中原中也)

2025-08-19 17:21:40 | 読書感想文
  帰郷
 
  柱も庭も乾いてゐる
  今日は好い天氣だ
      椽の下では蜘蛛の巢が
      心細さうに搖れてゐる

  山では枯木も息を吐く
  あゝ今日は好い天氣だ
      路傍の草影が
      あどけない愁みをする

  これが私の故里だ
  さやかに風も吹いてゐる
      心置なく泣かれよと
      年増婦(としま)の低い聲もする

  あゝ おまへはなにをして來たのだと……
  吹き來る風が私に云ふ


 中原は文学に目覚めてからは学校の成績はパッとしなかったが、幼少の頃は神童と言われたほど成績優秀だったらしい。おそらく自分自身の才能についてはそれなりの自負を持っていたはずである。その自尊心が大きい分だけ、自分の実際に置かれた立場には忸怩たる思いがあったのだろう。
「心置なく泣かれよ」とささやく年増女のささやきは故郷の優しさだろうか。明るくて牧歌的な風景の中にいて自分のふがいなさを感じずにはいられないのだろう。世間の風が「あゝ おまへはなにをして來たのだ」とささやいているように彼には聞こえる。
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本音を言えば誰だって自分ファーストだが

2025-08-18 17:26:58 | 政治・社会
 民主主義を標榜する人であれば、「日本ファースト」とか「アメリカ・ファースト」を主張してはならない。社会に恣意的な分断をもたらそうとする行為だからである。民主主義は一応自分ファーストを前提としていると言っても良い。ただし、私の自分ファーストを他者に認めてもらうためには他者の自分ファーストも認めなければならない、全ての人を自分と同等の権利を持った人間であるとみなすことが民主主義の基本である。他者の権利を守ることによって自分自身の権利も守られるべきであるという根拠が生まれるのである。

 しかるにアメリカ・ファーストとか日本ファーストと言うのは、その人の国籍によって分類し差別しようとしている。つまり。その人の出自という当人の責任とは全くかかわりのない条件によって人々を分断しようとするゆえに民主主義の精神とは真っ向から対立するのである。

 いまだに民主主義とは多数決のことだと勘違いしている人がいるが、これは大きな誤解である。民主的な意志決定はあくまで理性に照らして誰もが納得できるように決定されるべきであって、多数決はあくまで民主制度における最後の手段である。「数は力」とばかり多数決万能と考えている政治家が多いが、多数派工作によって自分たちの利益を計ろうとするのは「分断」であり、反民主主義的であることをわきまえていなければならない。私たちは分断ではなく統合を目指さなくてはならない。
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結局言いたいのは「自分ファースト」?

2025-08-17 05:19:47 | 政治・社会
 トランプが「アメリカ・ファースト」と言いだしたと思ったら、日本では「日本ファースト」を主張する政党がこの前の選挙では大躍進した。どうやらこれは世界的な傾向であるらしい。どこの国でも外国人が優遇され過ぎていると考える人が多いらしい。

 本当に外国人が優遇され過ぎているのだろうか? 「外国人のくせに日本の生活保護や医療保険を受けている」、「不当に安い賃金で日本人の働き口を奪っている」などと言われるが、具体的根拠としてはあやしいのである。生活保護を受けている外国人の比率は日本人のそれよりはるかに少ないし、日本にいる外国人の生産年齢比率が高いので彼らが払う税金によって日本の財政が支えてくれている度合いの方がはるかに大きい。

 近年外国人の日本への流入が多いのは日本経済側の要請によるところが大きいということは念頭に置いておくべきだろう。彼らが担っている仕事の多くは日本人があまり好まない低賃金の割には報われない重労働の仕事である。私の済んでいる近所ではほとんどのコンビニやファーストフードの店で外国人が働いている。介護業界も外国人労働者がいないと立ち行かなくなっている。

 想像してみよう。私たちが外国へ行って彼らと同じような仕事をこなせるだろうか? 言葉のハンディを乗り越えて見事に仕事をこなしている人たちである。とても能力の高い気力に満ちた人々、私の目にはそのように見える。本来ならもっと優遇されるべき人達のように思える。

 「アメリカ・ファースト」とか「日本ファースト」などと言っているのは、「アメリカ人である」とか「日本人である」というところにしか自分の取り柄を見出せないという悲しい現実を吐露しているだけのように私には見える。「日本ファースト」にはなんの根拠などありはしない、突き詰めていけば自分ファーストを主張しているに過ぎない。
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自己言及とパラドックス

2025-08-03 16:36:50 | 哲学
 紙になにか文字が書かれている。読んでみると「この紙に書かれていることは嘘である」とある。さて、この紙に書かれていることは本当だろうか嘘だろうか? という趣旨のパズルを見聞きしたことがおありだと思う。これはいわゆる「自己言及パラドックス」と呼ばれている類のものである。ステートメントの中身がそのステートメント自体の真偽について言及したものだから「自己言及」というのである。 「この紙に書かれていることは嘘である」という文言は、現実的にはただのナンセンスでしかない話であって、それを深刻に考え込むというような必要は全然ない。その内容が真実かどうかということはその内容を俯瞰できる立場から判断すべき問題であって、その言明自体が主張するのはナンセンスであり、その紙に書かれていることは始めから無意味であると言いきっても全く差し支えない。

 しかし、数学基礎論ではこのことが重大な問題となっているのである。というのは数学理論の完全性ということに関わってくるからである。数学の完全性というのは、まず第一に無矛盾であるということと、正しい命題は必ず証明できることという二つの条件を満たしているということである。1900年にパリで第2回国債数学者会議の場において、ドイツの数学者ヒルベルトは当時の数学界が解決すべき23の問題(ヒルベルトプロブレム)のうちの一つとして、この数学の完全性を証明するということが提唱されたのである。ところが、1930年に天才論理学者クルト・ゲーデルが、あっさりと数学の完全性を証明するという目論見を打ち砕いてしまったのである。

 ゲーデルの証明法は非常に難解で理解しがたいものだが、かいつまんで言えば簡単である。われわれが普通に数学と呼んでいるような自然数論を含むような数学理論の中に、自己言及命題が存在するをことを証明してしまったのである。その命題を例えば "T" とするとその内容が 「命題 "T" は証明できない」というようなそんな命題である。つまり自分自身が証明できない命題であると自己言及しているわけである。どうしてこれが数学の完全性に関わってくるのかというと、もし命題"T"が本当に証明できないのならば、命題"T"は正しいということになる。つまり、「正しい命題であるにもかかわらず証明できない」ならば、数学理論は「完全」ではないということになってしまう。逆に命題"T"が証明できたとしたら、「命題 "T" は証明できない」という内容は偽であるということになり、その数学理論は矛盾していることになってしまう。いずれにしろ完全性は否定されてしまうわけである。

 もう一つ、自己言及が哲学上の問題となった例を紹介しておこう。ニュートンが万有引力の法則を発見してからは、世界で起きているあらゆる事象が物理学に還元されてしまうのではないかと考える人が多くなった。人間の精神についても脳内で起きている微細な物理現象の反映ではないかと考えられるようになったのである。だとするなら、宇宙の全ての物質の正確な位置と運動量を完全に把握できたなら、これから起こることの全てを予測することが(理論的には)可能になるはずである。つまり、未来は既に決定していることになる。

 私たちは自分が自由であると思っている。歩くのも走るのも、立ち止まるのも、ベンチに腰掛けて休むのも、それらは自分の自由意志によって決定しているはずである。しかし、この世界のあらゆることが既に決定済であると言われると、その「自由」というものがかなりあやしいものに思えてくる。もしこの世界のあらゆる素粒子の状態を記憶しその変移を正確に計算できるようなコンピューターがあれば、未来のことはすべて予測出来るのだろうか? 理論的にそんなことはあり得ない。なぜなら、そのコンピューター自身がその世界の要素そのものであるから、自分自身を構成する要素の全てを記憶する素子が必要になる。自分自身がその世界の構成要素でありながら、その世界の全ての要素の状態を保持するという所からしてすでに無理がある。その世界のただ中に居ながらその世界の中の全てを見通すということがすでに自己言及的である。その世界の中で未来予測をするということ自体もまたその世界の一要素であり、その世界から切り離すことはできない。自己言及はそういう無限遡及をどうしても含んでしまうのである。

 厳密な未来予測が理論的に不可能であるとするならば、「未来は決定している」という言葉はなにを意味しているのだろうか。なにを確認すれば「未来は決定している」という言葉が正しいのかということを説明できなければ、「未来は決定している」という言葉の意味を理解しているとは言えないのではなかろうか。個人的には「未来は決定している」という言葉は空虚な言葉であると私は考えている。 
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空(くう)とダイバーシティとの関連

2025-07-03 18:14:41 | 哲学
 トランプは「人間には男と女の二種類しかない」と言ったそうだが、かつての私もそのように思っていた。体の性(生物学的性)と心の性(性自認)が一致しない状態の人々を指して、「おかま」とか「男女」という偏見に満ちた言葉のレッテルを貼って済ましていた。 自分と異質の人に対してある種の恐怖や警戒心を覚えるのは自然なことかもしれない。しかし、性同一障害というのは自分が好んでそうなったわけではない。私にしても努力して異性を好きになったわけではない。ただ少数派だからという理由で多数派から蔑まれるいわれはないはずである。

 キリスト教における同性愛の解釈は、教派や個人によって異なるらしいが、どうやらトランプは福音派というものに所属しているらしい。その宗派の人々は「聖書は神の霊感によって書かれ、誤り無い神のことばである。」と信じているらしい。そして聖書にははっきりと同性愛を禁じる文言が記されている(レビ記18章22節)。人間が神によって製作されたものならば、神の意図にそわない人間は欠陥品であるということになる。つまり、聖書が正しければ性同一障害者はみんな欠陥品であり粗悪品ということになる。

 しかし、仏教的空の視点から見ればそうはならない。無常の世界ではあらゆるものが常に変化し続けておるからには、全てのものが過渡的であり偶然的なものでしかないからである。そこには正規品だと完成品などという概念は成立しない。それどころか、厳密なことを言えば人間とか男とか女という概念そのものが成立しないと空観は主張する。(参照=>無常と空の関係」
もし人間とか男とか女とかいう概念が厳密な規定によって固定されたものであるならば、現実の世界にはそれに当てはまるものはただ一つとして存在しないというのが大乗仏教の祖である龍樹の主張するところである。昔は性同一障害の人を指して「ホモ」だとか「おかま」だとか大雑把に呼んでいた。ところが何時の間にか「LGBT」などという分類ができていてねごく最近は「LGBTQ」言うらしい。それで最後の「Q」は何かと聞くと「LGBT」におさまりきらない分だという。固定的な概念をいくら細かく分類していても間に合わない。性的志向は無限のバリエーションがありうるからである。それを限定的な言語によって正しく表現するのは不可能である。トランプが正しいとする男と女の正常な性愛についてもそれは言えるはずである。私のような保守的な人間から見れば、いわゆる犯罪的領域にまで拡大しているトランプ自身の性的志向はとても神の意志に沿っているようには見えないのだが‥‥。

 あらゆるものを言語と論理によって理解しようとする態度をロゴス中心主義と言う。それは長い間西洋哲学の伝統であった。龍樹は二千年近く前から現実のものを固定的な概念に当て嵌めて解釈することを戒めていたのである。言語によってものごとを分類することは日常生活においては非常に便利かつ必要なものだが、こと倫理などのデリケートな問題をそれで処理すると不都合なことが生じるのである。ものごとを単純な言語と論理で割り切ることはできない。言葉によりものごとをカテゴライズするという行為自体が必然的にわれわれを有無の邪見を誘導するからである。

 今までに何度か紹介したことがあるがこの問題についてははるな愛さんの言葉をもう一度参照しておきたい。
≪ 私は「トランスジェンダー」と呼ばれますが、その言葉に当てはめられるのはちょっと違うかなという感覚もあります。「LGBT」と呼ばれる人の中でもいろいろなタイプの人がいて、みんな違って当たり前です。4文字ではとても表しきれません。
「LGBT」が表す性的少数者のことを、全部知ることは大変で、私もすべてをわかってはいないと思います。わからなくていいとも思っています。
わからないことをなくすよりも、自分の隣にいる人が、今どうして欲しいと思っているのかを聞ける方がいい。知らなかったり、間違えていたりしたら、それを素直に受け入れる気持ちが大事。一番知らなくてはいけないことは、人のことを決めつけることが、その人を生きづらくさせることだと思います。 ≫ 

 あらためて、世界は固定的な言葉によっては表現できないほど多様であるということを主張しておきたい。現実を言葉で切り取るのではなく、素朴に現実を見つめるという視点が必要である。言葉を介さず素朴に見つめる視点それが空観である。多様性に対しては寛容でなくてはならない。
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