トランプは「人間には男と女の二種類しかない」と言ったそうだが、かつての私もそのように思っていた。体の性(生物学的性)と心の性(性自認)が一致しない状態の人々を指して、「おかま」とか「男女」という偏見に満ちた言葉のレッテルを貼って済ましていた。 自分と異質の人に対してある種の恐怖や警戒心を覚えるのは自然なことかもしれない。しかし、性同一障害というのは自分が好んでそうなったわけではない。私にしても努力して異性を好きになったわけではない。ただ少数派だからという理由で多数派から蔑まれるいわれはないはずである。
キリスト教における同性愛の解釈は、教派や個人によって異なるらしいが、どうやらトランプは福音派というものに所属しているらしい。その宗派の人々は「聖書は神の霊感によって書かれ、誤り無い神のことばである。」と信じているらしい。そして聖書にははっきりと同性愛を禁じる文言が記されている(レビ記18章22節)。人間が神によって製作されたものならば、神の意図にそわない人間は欠陥品であるということになる。つまり、聖書が正しければ性同一障害者はみんな欠陥品であり粗悪品ということになる。
しかし、仏教的空の視点から見ればそうはならない。無常の世界ではあらゆるものが常に変化し続けておるからには、全てのものが過渡的であり偶然的なものでしかないからである。そこには正規品だと完成品などという概念は成立しない。それどころか、厳密なことを言えば人間とか男とか女という概念そのものが成立しないと空観は主張する。(参照=>「無常と空の関係」) もし人間とか男とか女とかいう概念が厳密な規定によって固定されたものであるならば、現実の世界にはそれに当てはまるものはただ一つとして存在しないというのが大乗仏教の祖である龍樹の主張するところである。昔は性同一障害の人を指して「ホモ」だとか「おかま」だとか大雑把に呼んでいた。ところが何時の間にか「LGBT」などという分類ができていてねごく最近は「LGBTQ」言うらしい。それで最後の「Q」は何かと聞くと「LGBT」におさまりきらない分だという。固定的な概念をいくら細かく分類していても間に合わない。性的志向は無限のバリエーションがありうるからである。それを限定的な言語によって正しく表現するのは不可能である。トランプが正しいとする男と女の正常な性愛についてもそれは言えるはずである。私のような保守的な人間から見れば、いわゆる犯罪的領域にまで拡大しているトランプ自身の性的志向はとても神の意志に沿っているようには見えないのだが‥‥。
あらゆるものを言語と論理によって理解しようとする態度をロゴス中心主義と言う。それは長い間西洋哲学の伝統であった。龍樹は二千年近く前から現実のものを固定的な概念に当て嵌めて解釈することを戒めていたのである。言語によってものごとを分類することは日常生活においては非常に便利かつ必要なものだが、こと倫理などのデリケートな問題をそれで処理すると不都合なことが生じるのである。ものごとを単純な言語と論理で割り切ることはできない。言葉によりものごとをカテゴライズするという行為自体が必然的にわれわれを有無の邪見を誘導するからである。
今までに何度か紹介したことがあるがこの問題についてははるな愛さんの言葉をもう一度参照しておきたい。
≪ 私は「トランスジェンダー」と呼ばれますが、その言葉に当てはめられるのはちょっと違うかなという感覚もあります。「LGBT」と呼ばれる人の中でもいろいろなタイプの人がいて、みんな違って当たり前です。4文字ではとても表しきれません。
「LGBT」が表す性的少数者のことを、全部知ることは大変で、私もすべてをわかってはいないと思います。わからなくていいとも思っています。
わからないことをなくすよりも、自分の隣にいる人が、今どうして欲しいと思っているのかを聞ける方がいい。知らなかったり、間違えていたりしたら、それを素直に受け入れる気持ちが大事。一番知らなくてはいけないことは、人のことを決めつけることが、その人を生きづらくさせることだと思います。 ≫
あらためて、世界は固定的な言葉によっては表現できないほど多様であるということを主張しておきたい。現実を言葉で切り取るのではなく、素朴に現実を見つめるという視点が必要である。言葉を介さず素朴に見つめる視点それが空観である。多様性に対しては寛容でなくてはならない。