恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

それって

2012年04月30日 | インポート

その1

「オレ、自己実現したいんだ」

「それって、他人の迷惑にならない?」

その2

「ワタシのありのままを見て」

「それって、ワガママとは違うのか?」

その3

「オレ、夢は決してあきらめない」

「それって、どこがエラいの?」

その4

「ワタシ、絶対後悔しない」

「それって、反省もしないのか?」

その5

「出家したいんです!」

「それって、家出じゃないのね?」


「セレブ」の不安Ⅱ

2012年04月20日 | インポート

 過日死刑の判決を受けた、結婚をちらつかせて、三人の男性を自殺にみせかけ殺害したとされる女性。実は、私は、この事件と被告(控訴したようですので、一応そう呼びます)に関する報道に、かなり注目していました。

 というのも、私にはこの事件が、今の時代に特有の、ある自意識の様態をめぐる犯罪に思えたからです。それは以下のようなことです。

 いったい自分が何ものであるかを基本的に決めるのは、昔は「身分」とか「家柄」「血筋」というものでした。それは共同体の秩序が配分する「立場」あるいは「役割」で、その秩序の正当性と正統性を最終的に人々に保証していたのは、宗教的理念だったのです。

 時代が変わり、貨幣がすみずみまで浸透し、共同体構造の土台が市場経済になると、これら「身分」「家柄」「血筋」は実質的に解体されてしまいます。死と同様、貨幣は人を選ばないからです。誰が持つのかではなく、どれだけ持つのかだけが問題で、問われているのは貨幣が媒介する交換能力のみです。

 言い方をかえれば、この人を選ばない貨幣の力が、近代以降の「自由」と「平等」の現実的な意味を担保していたということです。

 そうなると、市場経済社会の中で「何ものであるか」を決める基本も貨幣だということになります。つまり、貨幣をどうやってどのくらい稼げるかが、人の在り方を決めるわけです。

 このとき、世襲資産を持たない人間が市場で立場を得るには、能力(知的、身体的)か属性(容姿、ときには性質)を売らなければなりません。したがって、この社会において、ある人間が誰なのかを決めるものは、「身分」「家柄」などではなく、「職業」ということになるのです。

 さて、「身分」「家柄」がものをいう昔は、「貴族」とか「上流社会」が成立する社会的前提がありました。ところが、「職業」が人の在り方を決める基本ということになると、それは成り立ちません。そこに成り立つのは、まず「金持ち」と「貧乏人」の区別です。次に稼ぐ能力と属性が市場から問われるとなれば、「成功」した「有名人」とそうでない「一般人」の差異が出てきます。

 このうち、まだ市場経済が発展途上で、人々に「欲しい物」が十分ある間(生産者主導の時期)は、買えるか買えないかの区別、すなわち「金持ち」と「貧乏人」の区別がまず注目されるでしょう。次には、その稼ぎ方、つまり「プロ」の能力と属性が評価されることとなります。

 しかし、大量生産・大量消費の結果、物が行き渡ってしまい、この上さらに経済を拡大するには、市場の側が人々に物を欲しくさせるように仕向けなければならない段階(消費者主導の時期)になると、消費すること自体を意味づけ、人々の欲望を掻き立てなければなりません。

 このとき、無理にでも拡大しなければならない消費の、消費者と消費行為のモデルとして、市場は新たな「上流階級」を作り出すことになります。それが、「セレブ」という概念です。

 この言葉はもともと「名士」くらいの意味ですが、いまアメリカで使われる場合は、「有名な金持ち」程度の意味です。

 ところが、日本では、すでに「有名」であることは要件ではありません。要件は「金持ち」であることと、「高級」とか「優雅」「ゴージャス」などという言葉が似合うような、消費行動の様式なのです。

 メディアで「セレブ」と言われる、アメリカの大ホテルオーナーの令嬢や、日本のグラマラスな姉妹が、一切職業を問われず、その生活様式だけが問題にされているのは、これが消費者主導経済が析出した「階級」だからです。

 したがって、「セレブである」という意識において、自分が何ものであるかを決める場合は、その自己の在り方は、極めて不安定にならざるをえません(金は「天下の回り物」で、名声は「浮き沈みが激しい」以上、安定はありえないでしょう)。

 ここまで前置きして、さて、件の女性被告。いかに「結婚詐欺」がばれそうになったとしても、そのたびに相手を殺し続けるというのは、リスクが高すぎます。私には、それでも「殺せる」彼女なりの「存在の仕方」があったと思うのです。

 この事件で私がまず注目したのは、メディアの扱いを見ていると、被告に対して特に女性の関心が高いように思われたことです。

 かりにこの事件で男女が逆だったら、金欲しさに何人もの女を騙して殺した大馬鹿野郎、ということで終わり、裁判の傍聴券をめぐって行列ができるようなことにはならなかったでしょう。

 この事件がひろく、特に女性の関心を呼んだのは、それが「セレブ」という「存在の仕方」、その自意識をめぐる犯罪だったからです。

 一般に男性より女性の方がはるかに自意識が鋭敏です。換言すれば、自分が他人からどう見られるかに敏感です。そのことは、たとえば、男子が友達同士、プロレスごっこで馬鹿騒ぎしている頃に、それを「子供ね」という軽蔑の視線で一瞥しつつ、女子はもっぱら、どうしたら自分がより魅力的に見えるかを真剣に考えていたことを思い出せば、すぐにわかることです。

 あの被告も、「セレブ」という自意識を持つためには、自分もそう納得し、他人からもそう見られるように振舞わなければならないと、よく知っていたに違いありません。一部で報道された彼女のブログは、趣味ではありません。是非必要な道具です。そこで自分の消費行動を見せつけることこそが、「セレブ」の自意識を支える不可欠の要件だからです。

 ところが、その要件は、もう一つ別の要件、すなわち資金の調達にかかっています。上述のように「セレブ」は「職業」を問いませんから、基本的に資金調達の方法は何でもかまわないはずで、それが「愛人契約」だったり「結婚前提のお付き合い」でも、本来よいわけです。

 ただし、その「関係」は「セレブ」の自意識を傷つないものでなければなりません。「契約」相手が実際に「セレブ」だったり、たとえ被告が「ランクが下」だと思う男であっても、自分を崇めてひたすら貢ぐ者だったならば、彼女の自意識にとって「許せる」範囲だったでしょう。

 ところが、「下」の相手に自分が奉仕し、へつらわなければならなかったとすると、それは「優雅」で「上流」であるべき「セレブ」の自意識を著しく傷つけることになります。

 しかしながら、資金は必要です。となれば、「セレブ」という自意識を守るためには、資金から「下」という「汚点」をきれいに消去する必要があります。となれば、それは彼女にとって「責務」のごときものでしょうから、その消去(=殺人)の実行(本当にしたとすれば)に大した躊躇も反省もなかったでしょう。あったとすれば、自意識を傷つける「下」の相手(=「愛人」)に対する憎悪だったと思います。

 おそらく彼女は、今のところ、「人殺しなんて、本当に悪いことをしてしまった」などという意味の反省を、決してしないでしょう。彼女が反省するとすれば、「こういう自分の在り方自体が、根本的に間違っていた」と自覚したときです。そのとき「責務」は「罪」に変わるのです。

 また、男性は彼女を見て、往々にして、「いい年をした男が、なんであんな女に・・・」的な、ミもフタもない感想を漏らします。

 ですが、どう自分が見られるかに鋭敏な女性は、「容姿」のような基礎資本に必ずしも恵まれていないように見える被告が、極めて高い「資金調達能力」を示した、そのスキルの高さに、少なからぬ興味と関心を持っているのではないでしょうか。

追記1:次回の「仏教・私流」は5月28日(月)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。

追記2:新著『恐山』が新潮新書から出ました。興味のある方、よろしくお願いいたします。


テスト

2012年04月10日 | インポート

一、自殺をすべきでないと考えるが、自殺者を否定しない。

一、言葉を信じないが、言葉以外に頼りにするものがない。

一、「真理」の主張を愚かだと思うが、そうする人の欲望は理解できる。

一、神仏の実在はどうでもよいと思うが、それを信じる人の実存には大いに興味がある。

一、霊能力や超能力の話は面白いと思うが、それを持つと公言する人には関心がない。

一、他人の「心」を知りたいとは思わないが、他人の言葉を理解したいと思う。

一、他人を「救済」できるとは思わないが、他人の苦しみを認識したいと思う。

一、希望を持つ習慣がないが、成り行きを考える性癖がある。

一、絶望するほどの困難を知らないが、断念する技術は知っている。

一、一切のアイデアや価値観には、それを無条件で「正しい」とする根拠に欠けていると思う点で、相対論者だが、人間はそれらから何かを選択せざるをえないと考えることにおいて、相対主義者ではない。

 さて、これらのうち、五つ以上あてはまる人は、仏教に向いている・・・・・かな?