恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

Kさんに

2015年09月30日 | 日記
 出家したいというあなたのお話はわかりました。まじめな気持であることも、そのとおりだろうと思います。そのうえで、申し上げます。

 寺院の跡取りでもなく、親族に寺院関係者もいない、要するにも文字通りの「在家」から僧侶になりたいという人たちに、私はこれまで何度かお会いしましたが、彼らは多くの場合、四つのパターンに別れるように思います。

 一つは、今ここでないどこかに行きたい、だから出家というパターン。いわば「ユートピア」型で、私に言わせれば「出家」というより「家出」的行為です。「出家」と言いながら、これまでそれほど強く仏教にコミットしてきたわけでもない。最近思いもよらない難事に見舞われて、狼狽した果てに唐突に思いついたような感じの人が多く、まず間違いなく失敗するパターンです。

 こういう人たちは、大抵は、出家後にどういうことが待っているかを具体的に話せば、急速に気持ちが萎えて事なきを得るので、処理は対して難しくありません。

 二つ目は、経典や論書、様々な仏教関係書をシコタマ読んで、頭の中にその人なりの「仏教」が出来上がっていて、その結論として「出家」というパターン。これはかなり厄介です。本人は「考えた末に出した結論」だと思い込んでいますから、出家後の様々な面倒を話しても「覚悟の上です」と言われてしまうのです。

 ですが、彼の頭の中に出来上がったような「仏教」は、日本にも、その他の国にも、まず存在しません。こういう人は、どこで出家しても「こんなはずじゃなかった。こんなのは本当の仏教ではない」などと言い出します。この世に「本当の仏教」そのものなど、どこにも無いにもかかわらず。この世にあるのは、「誰かが、これが本当だ、と主張している仏教」だけなのです。

 この「思い込み」型も、まず長続きしません(修行道場で文字通りの「三日坊主」になる者も多い)。

 三つ目は、なんらかの切実な問題、あるいは「生き難さ」のようなものを抱えていて、仏教の思想や実践に強く魅かれるという、いわば「あこがれ」型です。

 このタイプの人が難しいのは、彼らの「問題」や「生き難さ」が、仏教を最善の方法として取り組むテーマ足りうるのかが、明確になっていない場合が少なくないからです。

 その問題に取り組むのに、本当に仏教が必要であり最適なのか。さらに言うと、仏教が必要だとしても、出家して坊さんにならないとダメなのか。在家者として仏教を学び、生きるテクニックとして活用するという方法は通用しないのか。

 こういう彼らの「あこがれ」が「こころざし」にまで固まる例は、それほど多くありません。また、その見極めも簡単ではありません。

 最後の四つ目は、ある意味で簡単です。純粋に「職業」の一つとして「僧侶」を考えている、つまり「就職」型です。私はこれについては何もアドバイスしませんし、その必要も感じません。そもそも「僧侶」は「職業」ではなく「生き方」であり、よしんば「就職」するにしても、その損得勘定は本人がするもので、私には関係ないからです。

 私は、あなたのケースがどのパターンに当てはまるのか、いま申し上げるつもりはありません。ただ、往々にして在家から坊さんになろうとする人は、「出家」までのことしか考えていないことが多いのです。しかし、真の問題は「出家後」、どんな坊さんになるのかです。

「出家後」、容赦なく積みあがる失望と挫折を越えて、仏教を「身に着ける」ために必要なのは、単純な「覚悟」などではなく、明確に自覚された「問題」に対して、是非とも必要な方法が仏教なのだという、冷静で正確な判断です。さらに言えば、「もはや出家する以外に仕様がない」という、「諦め」(絶望の意味ではない)なのです。

教えて下さい2

2015年09月20日 | 日記
 19日未明に成立した法律の、担当大臣さえまともに答弁できない無様な出来や、「裏口入学」と揶揄される杜撰な立法過程については、すでに世上で多く論じられているので、ここでは触れません。
 しかし、それにしても今回特にわからないのは、この法律の言うところの「集団的自衛権」や「後方支援」が、我が国の「自衛」や「安全」にどう役に立つのか、ということです。以下、疑問を申し上げますので、ご存知の方にご教示願えると、ありがたいです。

「集団的自衛権」や「後方支援」とは、軍事的に同盟関係にある国が「共通の敵」と目する国や集団に向かって武力を発動したり、発動の手助けをするのですから、要するに「打って出る」わけで、国内にとどまり「外国の侵攻から自衛」することとは、まるきり別の話です。つまり、基本的に我が国の「自衛」には無益なはずです。このことをもう少し具体的に考えると、

一、アメリカについて
 アメリカにしてみれば、自国の行動を軍事的に補完してくれる話ですから大歓迎でしょうが、他方、自分たちが日本を助けるかどうかは別問題でしょう。
 極東アジアで騒動が起こった場合、アメリカがすでにある安保条約の義務(思えば、これだってもう「集団的自衛権」の範疇内だろう)を超えて、いわば今回日本が行った法制定の「意気に感じて」、直ちにかつ無条件に我々に加勢してくれるなどと期待するのは、どう考えても甘くないか。
 そもそも、安保条約の義務に応じてアメリカが動くレベルの状況でない限り、我が国の「存立危機事態」など、存在しないのではないか?
 また、安保条約の「義務」を確実に果たさせることの「担保」がこの法律だと言うなら、それ相応の「条約改定」とのセットでなければ無意味でしょう。

一、中国について
 万一、尖閣諸島に向かって中国が軍事力を発動するなら、文字通り「自衛」すればよいだけで、「集団的自衛権」とは無関係です。
 アメリカと一緒になって軍事的に対決すると言うなら、それはもはや「全面戦争」でしょうから、いったい中国とアメリカの指導者の誰が、そんなことまでする気になるのでしょう?
 その一方で、我が国と中国とが大規模に軍事衝突したにもかかわらず、安保条約を結ぶアメリカが一切行動しなければ、少なくともアジアにおけるアメリカへの信頼は完全に無に帰しますから、この選択はないはずです。ということは、安保条約の義務にしたがってアメリカが行動する以上、いまさら日本が「集団的自衛権」など「法制」化する必要はありますまい。

一、北朝鮮について
 北朝鮮が軍事的に仕掛けてくるとすれば、実質的な脅威はミサイル攻撃です。まともな損得計算からすれば、日本を攻撃しても一文の得にもならないのは自明ですから、この攻撃は「正気を失った」結果、起るわけです。下手をすると、やみくもな乱射になってしまい、もう「自衛」のしようがありません。
 だったら、ミサイルを発射する前に「先制攻撃」で発射基地を潰すしかない、ということになります。すると、これはもう「自衛」ではありません。こちらの「先制攻撃」の後、相手が反撃を自粛すれば、我が国は国際社会において、再び「侵略国」に追い込まれ、完全に面目を失いかねません。相手が自粛しなくても、「21世紀のパールハーバー」呼ばわりされるかも。
 このような場合に、「集団的自衛権」は、いったいどこでどう役にたつのでしょう。

一、それ以外について
 たとえば、アブラが切れたから鉄砲持って海の外へ飛び出すなどというのは、ただのヒステリーで、まともな「自衛」ではありません。

 では、「集団的自衛権」と「後方支援」は我が国の何の役に立つのか?
 アメリカの補完なら、そう正直に言って選挙で信を問うべきだし、「国際貢献」なら、難民大量発生のご時勢、他にやりようがいくらでもあるでしょう。
 どなたか教えて下さい。

あっちで言ってよ

2015年09月10日 | 日記
 このへんで、思いつき禅問答シリーズ。

 ある修行僧が高名な大老師に問答をしかけました。

「一切の言葉を捨てて、ズバリ真理を示して下さいよ」

 すると老師は

「わしは今日疲れた。あんたに教えることはできない。弟子に訊きに行ってくれ」

 僧は言われた通り、一人の弟子を訪ね、同じ問いを持ち出します。
するとその弟子は、

「なんで師匠に質問しないんですか?」

「その師匠が、私にあなたの所に行けと言ったんですよ」

 それを聞いて弟子はというと、

「私は今日、頭が痛くてねえ。兄弟弟子の所に行って訊いてくれないか」

 そこで僧は言われた通り、別の弟子を訪ねます。するとその弟子は

「ぼくはねえ、ここまでいろいろやってきて、なおわからないんだ」

 これを聞いて僧は師匠のもとに帰って、ことの次第を報告します。すると、師匠は

「それぞれにそれぞれのやり方だな」


 この問答は、「無常」「無我」の立場における「真理」の取り扱い方を、上手に表現していると思います。

「真理」それ自体など、言葉であろうとなかろうと、直接表示することなど不可能です。となれば、それが「ある」とも「ない」とも言えませんから、答えを強要されれば、やり過ごすしかありません。師匠の「疲れた、弟子に訊け」はそれです。

 師匠のやり口よく知っている弟子は、これまた、まともに答えるわけがありません。師匠同様、はぐらかすわけです。

 次に僧が問いをぶつけた別の弟子は、師匠と兄弟弟子の、僧の問いをはぐらかして「答えない」という、「無記」の態度を承知の上で言い方を変えます。いわく、自分もそれを求めてここまでやってきた。しかし、それは問いの答えとしては決して与えられない。

 この与えられない答えを求め続ける営みこそが、すなわち「問い」を抱え続ける覚悟こそが、仏道のアルファでありオメガです。すなわちこの問答では、師匠も弟子も、それぞれの方法で、仏教における修行の目的を「真理」に置くことの錯覚を説いている、ということでしょう。