恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

初心、原点

2022年12月01日 | 日記
「正法眼蔵』の講読本を出すと公言して以降、数件講義の依頼を受けました。いま、某2県で始めたところです。そのうちの一件は、お坊さんの勉強会で、一般の方の参加はありません。

 もう一件は、発起人が在家の方でした。その人が知人の住職に話をもちかけ、その住職から声がかかったのです。私は義理のある住職の依頼でしたから引き受けましたが、なにせネタが『眼蔵』ですから、集まっても数人というところだろうし、長く続くことも無いような気がしていました(失例!)。

 ところが、この話が地元の曹洞宗僧侶に伝わり、当日行ってみると、20人以上いて、その半数以上が若手のお坊さんだったのです。

 率直に言うと、『眼蔵』という書物は、お坊さんより在家の人たちに人気があります。音に聞こえた難解さで、いかに宗門の僧侶と雖も、そう気軽に読める本ではなく、限られているとは言え、熱心な読者はむしろ在家の人に多いのです。

 ところが、今回は様子が違いました。講義の後、私は参加者のお坊さんの一人に、話を訊いてみました。

「なんか、君たちがこんなに来るとは思わなかったよ」

「僕もちょっと意外でした。何人かは来るだろうけど、思っていたより多いです」

「東京みたいな大都市ならいざ知らず、県庁所在地とは言え、ここだもん(失礼!)」

「でも、集まってきた気持ちはわかる気がします」

「というと?」

「南さんも、昔永平寺で講義してた時、言ってたでしょう、少子高齢化は数学的正確さで進み、檀家制度を基盤とし、葬式などの死者儀礼を収入の中心にしている、現在の伝統教団の体制は、早晩立ちいかなくなると」

「言ったな。従来のシステムが通用しなくなると、システムが保証していた寺と僧侶の役割の意味と価値は揺らぐ。死者儀礼は重要だが、それが我々の立場を保証しなくなる。我々の存在意義を根底から問い直す時代がもう来ている。何度も言った」

「そういうことが、僕たちも実感としてわかるようになってきました。そこで、最初はボランティアに取り組みました。阪神淡路大震災以降、東日本大震災まで、大きな災害が度々ありました」

「うん。阪神大震災は日本のボランティア元年とも言われたが、我が宗門にとってもそうだったな。永平寺から修行僧の一隊が現地に行ったし」

「そうです。それに、東日本大震災の時は、我々に限らず、多くの宗派が被災地に入りました」

「そうだった。それに今に至るまで被災地に関わり続けている僧侶も少なくない」

「それはそれで、もちろん意義ある活動でした。ただ、次第に僕たちは思うようになったのです。確かに有意義な活動だが、これは僧侶でなくてもできる。個人でも組織でも、我々よりもっと高いスキルも持つ人たちがいる。それでも、ぼくたち僧侶がボランティアに関わるなら、まずは僧侶としての我々の在り方を考え直し、その上でやるべきだろうと」

「うん。そうだよ。ぼくが言い続けたのはそのこと。何かをするなら、なぜ曹洞宗僧侶がそれをするのか、自分と他人を納得させるべきだと、そう思うんだ」

「そうです。僕たちはこれまでも、これからも道元禅師門下なんだから、まずそこを自覚しないと。ならば、力及ばずとも『眼蔵』に挑戦するべきだろうと思うのです」

 歴史は、物事の大きな変わり目に、様々な領域で「初心に戻れ」や「原点回帰」のような運動が起こることを教えています。国の内外、何かと宗教が「問題」として迫り出してくる昨今、宗門にこのような若い僧侶が出てきたことに、必然性と頼もしさを感じた次第です。