恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

ニュータイプ!

2009年11月20日 | インポート

 恐山は今年も10月31日、無事閉山しました。お参り頂きました皆様、まことにお疲れ様でした。ありがとうございました。

 さて、今年、恐山で、もっとも強烈な印象を受けた参拝者との会話。21歳男子学生。

(院代さんに会いたいという宿泊者がいる、と言われて出て行くと)

学生「お忙しいのにすみません・・・・。あの、ちょっとご相談が」

私「どんなことでしょう?」

学生「あの、ぼく、大学やめて、引きこもりになろうと思うんですが・・・」

私「え?」

( おおっ! 引きこもりは、今や、将来の選択肢の一つになったのか!!)

私「ま、また、どうしたんです?」

学生「その、ぼくは前から人付き合いが苦手で・・・、大学でもそうで、それでやっと最近、友達ができたんですが・・・、その友達が冷たくなってきたんで、大学もやめようかと」

私「それで、いきなり引きこもるんですか?」

学生「いや・・・。やっぱり、別の大学、受け直した方がいいでしょうか?」

( そういう問題じゃないだろう!)

私「あのね、私は君のことをまだよく知らないから、そう思って聞いていてほしんだけどね。その、別に引きこもりが悪いと言いたいんじゃないんだ。君の家が大金持ちで、一生大丈夫なほどの遺産が君の手に入る予定だというなら、引きこもりも結構なライフスタイルだと思うよ。昔、『高等遊民』なんてのがいたらしいし。君の家、金持ち?」

学生「いえ」

私「父上のお仕事は?」

学生「大学の教授です」

私「じゃ、いくらんでも、遺産をアテにしてずっと引きこもりは無理だろう」

学生「そうですよね・・・。弟もいるし」

私「えっ! 弟って、弟さんも家にいるの!?」

学生「はい。中学の頃から引きこもりです」

( ど、どうしたんだ、この家は!)

私「だって、それじゃ、ご両親も困るだろう」

学生「と、思いますねえ・・・」

私「と、思いますって・・・。ご両親は何て言ってるの?」

学生「父は単身赴任で会うことがあまりないし・・・。母は、ぼくが学校やめて一人旅をしたいと言ったら、やめる前に恐山へ行って、南さんに会ってみたらって・・・。母は南さんの本を読んでるんです。赤い本・・・」

( ああ、なんてことだ・・・!)

 彼との一件は、この種の相談に関する、いままでの私の常識を一変させるものでした。これまで、私のところに相談に来る人は、少なくとも、自分の現状に何らかの問題があると思って、やってきていたのです。

 ところが、この若者は、どうやらそうではないのです。そうなのかもしれませんが、危機感は薄い。まるで、つまらない大学に行くかわりに、専門学校に行こうかという感じて、「引きこもりになろう」と言うのです。

 さらに、この家族が、彼の状態をどう思っているのか、見当がつきません。すでに弟が引きこもり生活をしている上、今度は兄だと言うなら、息子を私のところに送り込んでくる以前に、何かもっと両親は手を打たないといけないんではないでしょうか?

 私は本当に驚いてしまいました。そして、ある意味、実に深刻な問題をはらんでいると思いました。これはどう見ても、彼一人を相手にしていてもダメでしょう。この家族全体の人間関係の構造に、どこか決定的な問題があるはずです。それは、現代においては「家族」の中でさえ、と言うよりもむしろ、中だからこそ、人間関係を作り出す困難が、尋常でない程に深刻化しているのではないかということです。

 しかし、たとえ求められたとしても、私のような他人が、こういう状況にどう関わればよいのか。関わってよいのか。

 幸いにも(と言ってはいけないのですが)、その後、彼から連絡はないのです。


初体験

2009年11月09日 | インポート

 先日、修行時代の後輩のお寺に招かれて、『正法眼蔵』の講義をしてきました。僧侶の方だけでなく、一般の皆様にも多く参加していただき、ありがたかったです。

 今まで私は、『正法眼蔵』について何度か本や雑誌に書いてきましたが、一般の方々に講義するのは、これが初めての経験でした。

『正法眼蔵』の伝統的な講義形式は、『眼蔵会(げんぞうえ)』と呼ばれるもので、お袈裟を着けて威儀を正し、坐禅の姿勢で老師の講説を拝聴するというものです。聴講者が質問する時間は、ある場合とない場合があります。

 今回、私の講義スタイルは、後輩が考案した、従来とまったく違うものでした。服装と坐り方は自由。講義は、本文朗読、現代語訳、解説と続く方法で、頃合を見計らって、途中何度も質問時間と休憩が挟まります。

 このスタイルで行うとき、とても重要なのが、今回は後輩がつとめた、司会者というかコーディネーターです。講義する私ではなく、彼が講義の流れを仕切るわけです。話が肝どころに入ってきたり、面倒な論理展開になったと見るや、間髪いれず質問時間を設け、質問希望者がなくても、なかば強制的に質問させるのです。すると、苦し紛れの質問でも、「わからない部分」の摘出という意味では的を得ていて、これが結構、他の聴講者の便宜になったりしました。

 さらに、後輩は事前に別の協力者を仕込んでおいて、自分との掛け合いで、講義の要点を指摘して、急所を聴衆に示し、質問をしてきたりしました。彼は実は、東アジア思想の専門家で、『正法眼蔵』についても、某月刊誌にとても精緻で興味深い論文を連載中です。つまり、自分で講義する力を十分持っているわけです。

 私は、『正法眼蔵』を講義する方法として、聴衆のわかりやすさという点では、今のところ、これ以上のスタイルは思いつきません。問題は、この講義スタイルは、講師とコーディネーターの合作だということです。講師一人を調達しても成り立たず、少なくともある程度、『正法眼蔵』を読み込んでいる司会者が必要なのです。司会者との事前打ち合わせもあった方がよいでしょう。

 もう一つの難点は所要時間です。質問と休憩の時間を十分とるため、従来の方法の、少なくとも倍はかかるでしょう。今回「古仏心」の巻を取り上げたのですが、短い巻にもかかわらず、4時間以上かけて半分そこそこしか消化できませんでした。

 普通には読むのさえ困難な『正法眼蔵』です。ましてや講義、それも今日はじめて本文を見るという人もふくめて聴衆に語りかけるのに、従来の形式はどうみても不親切であり、時として講師の自己満足に陥りかねません(「眠っていても『眼蔵』は毛穴から入る」)。その代替スタイルとして、今回のいわば「ゼミナール」形式はかなり有効だと思います。

 今後このスタイルをどう改良展開したものか、思案中です。この他にもスタイルの提案があれば、是非お聞かせ下さい。いずれにしろ、今回貴重な経験をさせてくれた後輩には、感謝しています。