恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

番外:来年1月開始の講義「『正法眼蔵』私流」について

2023年12月18日 | 日記
 11月1日付けの当ブログにおいて、豊川稲荷東京別院様にて、1月16日午後6時より「『正法眼蔵』私流」を行う旨、お知らせしました。いくつかのお問い合わせをいただいたので、申し上げます。

一、『正法眼蔵』本体については、各自でご用意ください。どちらの出版社のものでも構いません。講義者は、本文をご用意しません。

一、参加料千円を頂戴します。入室の際、お納めください。

一、予約は無用です。

一、別院様にご迷惑をかけないため、午後5時以後の入場と致します。それ以前のご到着はお控えください。講義者も午後5時を目途に入場します。

一、会場の部屋には十分余裕がありますので、ご承知おきください。

以上、よろしくお願い申し上げます。

合掌


テーマは何か

2023年12月01日 | 日記
 先日、中国地方の二つの県を、2泊3日で訪れました。永平寺時代の後輩のお寺に招かれたのです。

 道元禅師門下の曹洞宗寺院でも、本山や宗門認定の専門道場ならともかく、一般寺院で独立した坐禅堂を持つところは多くありません。私が招かれた2つのお寺には、それぞれ立派な坐禅堂がありました。
 
 実際、住職が坐禅堂と鐘楼(いわゆる鐘撞き堂)を造ることには、覚悟が要ります。坐禅堂を造った以上は、少なくとも自分が住職である限り、そこで坐禅をし続けなければなりません。禅師門下なら当然だろうと言われるでしょうが、修行僧であり続ける志を立て直す所業とも言え、簡単な決意でありません。造ったは良いが、最後は物置になってしまった、では余りに情けないでしょう。

 鐘楼もそうです。これを建てたとなれば、これまた住職である限り、毎日撞き続けなければなりません。つまり、一度建てた以上は、生涯ここで住職し続けると檀信徒に宣言するに等しく、これも簡単ではありません。世間には、タイマー付きの「自動鐘撞き機」があるそうですが、これは余りに寂しいでしょう。

 私が招かれた2つのお寺の一方では、鐘撞き堂の落慶に因み、檀信徒への説教と若手僧侶への講義を依頼され、他方では坐禅堂での講話と法要の導師をさせてもらいました。有難いご縁でした。ご参拝いただいた皆様、ありがとうございました。

 このうち、久しぶりに狼狽したのは、坐禅堂での講話をした時です。私は、この寺の住職から、近隣の僧侶が集まるから、彼らに対して話をしてくれ、と頼まれていたのです。ですから、多少経典や禅籍に触れて、それなりの話をすれば良いだろうと、そう考えていました。

 ところが、前日の夜、突然住職から電話があって、「すみません、直哉さん。うちで坐禅をしている在家の何人かが、お話を聞きたいと言っているので、よろしく」と言うのです。

 私は完全に僧侶向けの話を考えていたので、いささか気になり、「それ、何人くらい?」と訊いてみると、「四、五人くらいでしょうね」とのこと。ならば、少し言い回しを工夫すれば大丈夫だろうと、安心してその日は寝てしまいました。

 ところが、翌日その寺に着いて、いよいよ講話の時間になり、早めに坐禅堂に入って待っていると、やって来る人のほとんどが在家の方なのです。

「お、おい、これどうなってるんだ!?」

 私は永平寺時代に戻ったような語気で住職を呼びました。

「いやあ、えへへ、どうなってるんでしょう。私もこんなになるとは思わなかったんですよ。直哉さんなら大丈夫でしょ、まあ、お願いしますよ」

 永平寺時代と少しも変わらぬ態度でごまかされ、もうどうしようもありません。すでに坐禅堂は満席にちかく、30人以上の在家の方が入りました。もはや、用意の話はできません。中には、今日初めて坐禅堂に入り、坐禅をする人もいるらしいのです。

 私は急遽話を完全に変え、文字通り急ごしらえで40分を押し通しました。それほど暖かくない日だったのに、背中に汗をかきました。

 私はまず、自分が坐禅を始めた頃から話を始めました。最初は、正式な坐禅である結跏趺坐などとても組めず、半跏趺坐がやっとであったこと、以後40年、どのように坐禅と付き合ってきたかを聞いていただきました。その最後に私は言いました。

「皆さん。私が修行してきた坐禅は、昨今、世間で多く『瞑想』と呼ばれ、宗教色を排除したある種の精神衛生法として、『マインドフルネス』などと称されることもあります。精神衛生版フィットネスジムのように瞑想講座は繁盛し、瞑想専用ルームや瞑想グッズなどまで売り出されています。つまり現代人は、かくも精神的に疲労している、ということでしょう。

 私は今、そのような『瞑想』や『マインドフルネス』を否定しようとしているのではありません。実際、私に『心が疲れているので、坐禅をしたい』と言う人には、それ相応の坐禅の仕方を紹介しています。

 ただそれは、道元禅師の教えの文脈にある『非思量』の坐禅とは違います。これを行うには、仏法に対する学びと、坐禅する身体をきちんと造った上で、心身を制御する方法を手間と時間をかけて会得しなければなりません。

 ということはつまり、坐禅をしようという時、自分は何をテーマに坐禅するのかを明確にしておくことが大事なのです。それがたとえば、精神衛生法なのか、仏法なのか、という選択なのです。

 指導される側も、指導する側も、このテーマを共有しなければ、坐禅は深まらず、活かされません。

 今日、幸いにもこの坐禅堂で、皆様と共に坐禅をするという有難いご縁をいただきました。できれば今後も、それぞれにテーマを持たれて、さらに坐禅に親しまれてることを、願ってやみません。」