概して宗教の持つ意味の一つは、超越的な存在との関係において人間を考えることです。この場合、「超越的な存在」とは、人間が経験可能なもの、理解可能なもの、換言すれば、言葉で定義できるもの、言葉で説明できるもの、では原理的にないものです。
ということは、そういうものとしての宗教は、超越的な存在と関係ない人間の在り方、すなわちただ単に「人間であること」を肯定しないわけで、決して「ヒューマニズム」ではあり得ません。旧約聖書で「原罪」を言い、仏典で「無明」を提示するのは、そういう意味です。
そうすると、宗教はまず、いわゆる「自分大好き」人間を肯定しないことになります。また同時に、「自分大好き」人間が本当に存在するなら、それは宗教をまったく必要としない人間であり、それはそれで結構なことでしょう。
しかし、ここで根本的な問題があります。それは、人間は何であるかわからないものを好きになることはできない、ということです。たとえば、「んヴぁおいcLZl」を好きになる、ということは誰にもできないでしょう。
ところが、人間は「自分が何であるか」を知ることが原理的にできません(このことは、過去に何度か著書等で言及したので、いまは詳述しません)。したがって、「自分であることそれ自体」を好きになるということは、起こりようがないのです。
もし起こるとすれば、ある錯覚を利用することです。つまり、自己は他者との区別でしか成り立たない以上、他者をひたすら嫌悪し排除することで、それを「自分大好き」の代償行為とするのです。
過去に何件か起こった「無差別殺人」などの犯罪の中には、この種の錯覚的、あるいは病的代償行為の果てに事件に至ったのではないかと思われるケースがあります。
幼児期の全能感が、適切に「他者」との関係を構成することを欠いたために解除されない場合(これはむしろ、「自分大好き」以前、「自分」が十分成立していない状態です)、未熟なままの「自己」は、己れの全能感を毀損する者としてしか「他者」を見られないようになるでしょう。ならば、「他者」の徹底的な排除を通じてしか、「自己」を確保できません。
しかし、普通、人間は理由もなく他人を憎んだり嫌うことはありません。ということは、同じように、何の根拠もなく自分を好きになることも難しいわけです。
つまり、実際の「自分大好き」人間とは、何らかの「経験可能なもの、理解可能なもの、換言すれば、言葉で定義できるもの、言葉で説明できるもの」との関係によって、それを根拠に自分を好きになる者のことなのです。
その根拠は、ときに容姿であり、才能であり、財産であり、家族(家柄)であり、人脈(人気)であり、郷土(出身地)であり、職業であり、地位(名声)であり、学校(学歴)であり、会社であり、国家などでしょう。
冒頭で持ち出した宗教の観点から言うなら、これらを根拠に「自分大好き」でいることは、そのまま大きな矛盾を招きます。
なぜなら、容姿から国家まで、例に出したすべての根拠は、自分以外の他人から欲望され羨望され評価されない限り、無意味だからです。我々は誰からも欲望されないもの、すなわち無価値なものを根拠にすることはできません。
ということは、「自分大好き」でいることは、根本的に「他者」を必要とし、「他者」に依存しているわけです。
にもかかわらず、ある根拠はその他の根拠との区別でしかありませんから、先にも述べたように、「自分大好き」は、潜在的あるいは原理的に、他の根拠で「自分大好き」な「他者」を否定していることになります。
すなわち、「自分大好き」は、「他者」に依存しながら「他者」を否定するという矛盾を抱え込んでいるのです。この矛盾が先鋭化すれば、「自分大好き」は最後には自己破壊的に作用するでしょう(たとえば、自分を誰よりも偉いと感じている人間は、「誰よりも」という意味で「他者」に依存しています。なのに、「偉い」が故に簡単に「他者」を否定することもできます。否定すれば「他者」は失われ、「偉い」根拠を失って、自己否定に至らざるを得ないことになります)。
宗教の「超越性」も、理解され言語化されるものになったとたん、「自分大好き」に取り込まれることになります。それは通常、何らかの「超越性」を解釈し語る人間、あるいは解釈それ自体、すなわち「教祖」や「教義」への依存となり、他の「教祖」「教義」を信奉する者に対する排除、攻撃という形で現れるでしょう。
けだし、「超越性」と関係するということは、それを「わかるようにする」ことではなく、我々の実存の根源において「わからなさ」を受容する営みなのであり、具体的には「敬虔」や「自省」「謙虚」などの態度として現象するものでしょう。
私は時に「死者は実在する」という言い方をします。すると中には、「それは私たちの心の中にいるということですね」と応ずる人がいます。ですが、私が言いたいことは聊か異なります。
「心の中にいる」と言うと、「死者」は自分たちの「心の持ちよう」でどうにでもなるように、私には聞こえます。しかし、「死者」は「生者」が「心」でどう思おうと、それとは別の仕方で厳然として実在します。時としては、我々が望まなくても、それどころか忘れたいと思っても、現前するのです。
だからといって、「死者」は「生者」と無関係に、それ自体として実在するとも立証できません。
ここにおいても、「死者」に対して敬虔であるためには、「わからなさ」をそのまま引き取ることが大切なのです。
仏教の「無記」の教えは、単に理屈の問題ではなく、「超越への敬虔」を意味するのだと、私は思っています。