恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

墓と霊場

2016年07月30日 | 日記
 今年も無事に夏の例大祭が終了しました。ご参拝いただいた皆様、お疲れ様でした。ありがとうございました。

 期間中、法要受付に坐っていると、様々な方が塔婆のご供養に来られます。大抵は、受付をすますと、そそくさと境内の参拝やイタコさんの口寄せの方に向かわれるのですが、中には、受付で話をしていく方がいらっしゃいます。

「2月に女房が亡くなってねえ・・・」

 申込書に書き込みながら、息を漏らすように話される方がいたりすると、「そうですか・・・」くらいしか、声のかけようがありません。短い言葉にこもる想いが、返事をするのをためらわせるのです。

 そんなことがあると、時に思い出すのが、以前、息子さんの供養に来られた女性の言葉です。

「お墓はちゃんとあるのに、どうしてこんなところに来たくなるのかしらねえ・・・」

 こういう時に私が思うに、亡くなった人に対して接するパターンは大きく3つでしょう。

 一つは、たとえば大きな事故があったときなどに報道される、「死者123名」というものです。これは、「死者」とは言うものの、実際は「死体」のことです。なぜなら、この報道の意味は、「123」という数字にあるからです(「大事故だなあ」)。この「123」は、どこの誰にとっても「123」であり、そうであれば、これは個数としてカウントできる物体と変わりません。

 ところが、これが「遺体」となると、話が全然違います。「遺体」とは「誰かが遺した死体」つまり、そこには人格が付与され、ということはすなわち、その「誰かの遺体」は、即「誰かにとっての遺体」にもなるわけです。たとえ「死者1名」であっても、それが自分の肉親なら大ごとですし、123体の「遺体」は、それぞれに、誰かにとっての「大切な人」です。

 さらに次があります。この「遺体」が火葬されるか埋葬されて、物体として消滅してしまえば、事はすべて片付くでしょうか?

 片付きません。なぜなら、物体として消滅しても、当事者の人間関係が遺るからです。生きていようが死んでいようが、親は親でしょう。大切な人は大切な人です。我々の生に意味を与えてくれる人(プラス・マイナス共に、です)は、物体としては失われても、生前とは別の様式で、リアルに存在し続けます。というよりも、「遺された」人が、彼を必要とし、存在させようとするのです。

 このとき立ち上がってくるのが、まさに「死者」なのです。つまり、「死者」は、誰かにとっての「大切な人」です。誰かにとって「大切な人」だけが、「死者」になり得るのです。

 葬儀や弔いが、人間の社会に広範に、ほぼ普遍的に存在するのは、この「死者」を成立させるためです。生前の彼をめぐる人間関係の中で、「他でもないこの人は、まさに死んだのだ」と確定して、「死者」としての実在を立ち上げ、「死者」と遺された人々との新たな関係を結び直すためです。

 ところが、このとき、儀礼としての葬式や弔いは、Aさんに対してもBさんに対してもCさんに対しても、原則同じです。ところが、遺された人にとって、死者への想いや屈託は様々です。たとえ同じ母親に対してでも、彼女への感情は、兄弟姉妹、それぞれでしょう。

 すると、作法の定まった儀式や弔いやお墓参りの中に納まりきれない想いが、必ず遺る。まさにこの溢れ出すものの納まりどころとして、霊場が欲望され続ける。

 私は今、そんなふうに思っています。

番外:告知と批判

2016年07月25日 | 日記
 すでに一部で報道されているようなので、あらためて申し上げます。

 恐山は近日中に告知の看板を製作し、スマートフォンのゲーム「ポケモンGo」を禁止します。

 理由の第一は、岩場に続く参道は細い上に、足場も必ずしも良くなく、高齢者の参拝も多いため、スマートフォンを見たままでの歩行は、不慮の事故など、危険が大きいからです。また、点在する硫黄ガスの噴出孔や70度以上もある温泉孔も、「ながら歩行」には極めて危ないでしょう。

 理由の第二は、供養や追悼の霊場での、ゲームに熱中する人の往来は、参拝者の妨げになるおそれが強いからです。何もここでしなくてもよいのではないでしょうか。端的にいうと、ゲームを行う場所としてふさわしくないということです。



 さて、ここからは、恐山院代としてではなく、私個人の批判です。


 このゲームの本質的な問題は、プレイしているときの危険ではない。このゲームを製作し販売している企業の根本的な無礼さである。

 自社の敷地でも所有地でも管理地でもない、いわば他人の土地を無断かつ一方的に利用して儲けるなどという行為は、それを行う企業のモラルに致命的な欠陥があることを示している。これがいかに無礼なことかは、中学生でもわかるであろうに。

 念のために言っておくが、私は人々がゲームを楽しむことを悪いと言っているのではない。また企業がすぐれたゲームを提供して儲けることを非難しているわけでもない。商売の態度が悪すぎると言っているのだ。

 ゲームをまったくやらない私にも、このゲームの危うさはすぐにわかる。そこで、まず任天堂に電話して、このゲームのソフトが作動する地域から恐山を除外してほしいと申し出てみた。

 するとこの会社は、自分たちはキャラクターを提供しているだけだという。そして、言いたいことは「株式会社ポケモン」に言え、とのたまった。

 それではと、「(株)ポケモン」に電話すると、自分たちは配信しているだけで何もわからない、製作と運営は「ナイアンティック」とかいう会社だと言う。そこで所在と電話番号を知りたいと言うと、自分たちは何も知らない、すべてその会社のホームページからメールで要望してくれと言う。

 わけのわからない会社にメールして、何も解決しなかったら、いったい誰が対応の責任を負うのだ?

 およそ信じがたい不誠実さである。これら三社は、お互いに組んで利益を上げているのだろう。ならば、立派な連帯責任である。今日知ったのだが、彼らは様々な問題が生じることを予想して、万一このゲームに関して訴訟を起こすなら、それは日本ではなく、アメリカの裁判所で行うことになるという「警告」をしているらしい。なんという姑息さだ!

 私は、三社は最低限次のような対応を直ちになすべきだと考える。

 一、当事者が希望するなら、ゲームが作動する地域からの除外を、なるべく簡便にできる方法を提供すること。

 一、ゲームを作動させたいなら、当該地域の所有者か管理者に許可を求めること。

 一、ゲームが作動できるように無断で設定した地域で、ゲームの利用の結果生じたトラブルに、一定の責任を負うこと。

 この三社が自らの無礼さに無自覚なまま今後も商売するということになると、私としては、今や栄華を極めるIT企業全体に、今後そのモラルを根本から疑わざるを得ないゆゆしき問題が続出することを、深く危惧せざるを得ない。

 

ある永訣、またはニルヴァーナ断想

2016年07月20日 | 日記
ニルヴァーナは安楽ではない。ニルヴァーナは消滅ではない。ニルヴァーナは拒絶である。

ニルヴァーナは意味を、自己を拒絶する。つまり、「私の」ニルヴァーナは、「私への」拒絶の甘受である。

ニルヴァーナは、修行の必然の結果ではない。修行の途上の偶然である。

ニルヴァーナのための「正しい」方法などない。偶然は偶然であり、必然にならない。

誰もが誰をも理解せず、すべてがすべてと一致せず、何もかもが一時に破断する。救済なき終極としてのニルヴァーナ。

ならば、「私」とは、ニルヴァーナへの異議である。まったく無意味な、しかし、ニルヴァーナがニルヴァーナであるための異議である。

戻っておいで

2016年07月10日 | 日記
思い付き禅問答シリーズ、梅雨のような、夏のような夜の一話。

高名な禅師が、ある大きな寺の住職をあなたの弟子にお願いしたいと依頼されて、門下の弟子の力量を試すことにしました。そこで、自分の前に水差しを一つ置いて、門下の弟子を呼び集めます。そして師匠は集まった弟子たちに問いかけました。

「諸君の前にあるこの物を水差しと呼んではいけない。ならば、君たちは何と呼ぶかね?」

まず師匠から指名されたのは、門下で最古参のリーダー役修行僧です。

「だからと言って、師匠、木っ端と呼ぶわけにもいかないでしょう」

次に答えるように促されたのは、台所係の後輩です。

「お前なら何と言う?」

問われるや否や、後輩は立ち上がると、水差しをいきなり蹴倒して出て行ってしまいました。

禅師は笑いながら、最古参を顧みて言いました。

「お前、後輩に出し抜かれたな」


この話の解釈も色々ですが、私は、仏教の言語観をよく表現している問答だと思っています。

禅師の「水差しと呼ばないで」と言うのは、言語の示す意味を実体視して、物の「本質」と誤解するような概念的思考を止めろという指示です。

その前提でさらに「何と呼ぶ」と問うのは、ただの思考停止ではダメで、通常の思考を初期化した上で、目の前のこの物に新たなアプローチをしなければならないことを教えるためです。

ところが、最古参は「木っ端とは呼べない」と、別の言い方を探るだけで、概念的思考から離れられません。

後輩が蹴とばしたのは、この概念的思考の習慣なのです。つまり、禅師が求めている議論とは土俵がまるで違うため、新しい水差しの呼び方など、出てくるはずが無いわけです。

したがって、実際、この話は新しい呼び方に言及していません。ただ、私は後輩に改めて問えば、「水差しです」と答えたと思います。しかし、その「水差し」は習慣化した概念的思考から出る答えではありません。

彼の台所係の修行において取り扱われるある物が、その取り扱われ方によって「水差し」になっていくのです。水差しとして扱う、使うという「縁」が水差しの存在を「起」こす。後輩はそうした実存の仕方を「水差し」と呼ぶわけです。

この話の続きを私が作るなら、後輩は台所から布巾を持って部屋に戻り、蹴倒した水差しを丁寧に拭き清め、禅師の目の前に戻し、厳かに合掌礼拝して、「これは水差しです」と言いました、というようなオチにするでしょう。