恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

あるキリスト者の肖像

2015年01月30日 | 日記
 彼はとてもキリスト教の信者には見えない人でした。そもそも、普段の話にキリストも神もまるで出てこないのです。

 地方に在住する普通の勤め人で、近所の教会に若いころ(具体的にいつなのかは知りません)から通っているようですが、特に教会の「布教」「勧誘」などの活動に熱心にかかわっているわけでもありません。「師」と仰ぐ人物もいないらしく、彼の口から特定の聖職者の名前が繰り返し出たこともありません。

 驚くべきはその読書量で、ナイーブな「キリスト教信者」からすれば「冒涜的」「背教的」、そうでなければ「無神論的」と思われるような書物まで読んでいて、話していると博覧強記ぶりに圧倒されることがあります。

 あるとき、私は尋ねてみました。

「正直なところ、君は神を信じているのか?」

「当たり前だろ」

「では、神は実在すると?」

「そんなことはどうでもいい」

「えっ?」

「私が信じているのは、神の実在ではない。神の実在を前提として組み立てられた思想と実践が、人間や世界を考えたり理解したりする上で、自分にとって最も有効な方法だ、ということだ」

「それは信仰と言えるのか?」

「つまらない質問だな。そんなことは言葉の定義の問題にすぎない」

「では質問を変える。君は神に祈っているか?」

「もちろんだ」

「何を祈っているんだ?」

「君は私に、神に何を祈っているのかを訊きたいのだろう。ところが私は神に対しては何も祈っていない。そうではなくて、祈ることで神を実在させているんだ」

 私には、彼を「キリスト教信者」と呼ぶには聊か違和感があります。しかし、彼はまぎれもなく「キリスト者」だろうと思います。私は彼の「在り方」に深く共感するものです。

追記:次回「仏教・私流」は2月23日(月)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。
 

自由と尊厳

2015年01月20日 | 日記
 最近思うところを、少々。

一、「表現の自由」を無条件・無制限に主張する根拠も、「宗教の尊厳」を絶対的に肯定する理由も、およそあり得ない。「自由」なんだから何を言ってもよいとか、「尊厳」を守るためには人を殺してもよいなどという幼稚なアイデアは、せいぜい思春期のうちに「卒業」すべきである。

一、「自由」は大切な道具である。とても大切だから、手入れを怠らず丁寧に扱わなければならない。が、所詮「道具」であれる以上、その正当性は使用目的と使用結果によって判断されるほかはない。

一、「尊厳」は大切な目標である。とても大切だから、それを守るべき手段が自ら「尊厳」を毀損しないよう、慎重に選択されなければならない。

一、宗教的であろうが政治的であろうが、イデオロギー(人間の実存を規定する言説・観念の体系)は、イデオロギーであるがゆえに、言葉によって主張されて他者に支持されるべきものである。もしイデオロギーが言葉以外のもの、すなわち暴力や金銭などを手段として強制されるなら、その時点ですでにイデオロギーとしては無意味である。それは単に支配体制を維持するためだけの装置か、あるいは暴力や支配への身勝手な欲望を実現するための武器にすぎない。

一、何らかの主張あるところ、かならず反対意見あり。反対意見の存在は、その主張に意味あるが故なり(全員賛成の意見は主張自体が不要)。よって反対意見の抹殺・封殺は主張の自己否定と心得るべし。

我々はナメられているのか?

2015年01月10日 | 日記
  もはや旧聞に属しますが、昨年末の選挙。私は棄権も癪なので、白票を入れにいきました。ありていに言うと、アタマにきたのです。

 今回の候補者は、私が知る限り全員が、「自分にまかせれば大丈夫だ!」と言っていました。有権者である「国民」には大して痛い思いもさせずに、万事よろしくやってみせるという、利益誘導一色。でなければ、「この道しかない」という脅迫まがいの断定です。彼らは我々がみな、こんな子供だましの言い草を頭から信じるほど愚かだとナメきっているのか?

 人口減・少子高齢化が急速に進む日本で、もはや経済成長など幻想にすぎません。今後は、よくて今の生活水準を維持できるだけの定常化社会で、それぞれがそれぞれの立場で応分の負担を引き受けつつ、「痛み」に耐えていくしかないのです。

 このとき政治の最大の役割は、負担の配分をどのように行うのか、いかに公平に、様々な利害関係を調整して我々に負担を納得させるのかという、面倒極まりない仕事を請け負うことです。

 このことに一言も触れずに、今後の国の在り様にについて「なんとかなるぜ」と言うがごとく語るなら、それはあまりにも不誠実でしょう。そうでないなら、ただの能天気な愚物です。私はそこに腹が立ったのです。

 若者の雇用状況が改善せず、子育てと看取りに大きな不安のある社会で、いったい誰が消費に金を回すでしょう。この先それほどの成長が見込めないのに、どうして企業がもうけ(内部留保)を気前よく使うでしょう。

 アタマにきたついでに独りよがりで言うなら、労働市場において、まずは同一労働・同一賃金の原則を貫徹し、保育園から高校までの授業料他教育費用を無償化し、高度成長期の小学校の数なみに公立の高齢者・介護施設をつくり、看護師・介護士の待遇を公務員程度に引き上げるべきです。そのために必要な費用を公表し、負担を国民に求め、公正な配分を主導するのが、いま必要な政治というものではないでしょうか。

 非正規労働者の生活不安、子供の理不尽な貧困、介護殺人や虐待が頻発するような現場の疲弊。これらを一刀両断に解決する方法などないでしょう。しかし、これらを解決する一歩を踏み出すことはできるはずであり、しかもこれは要するに金の問題です。

 金の問題なら、ある意味、最も簡単な問題です。出す覚悟をすればいいのですから。「オリンピツク」も「新幹線」も「地方創生」も、ぜんぶ後回しでかまわない。やらなくてもよいのです。いま大事なのは、経済政策や財政出動で、この国の人々の生活不安を取り除き、不安によって抑圧されているエネルギーを解放することでしょう。そのための負担を、真正面から堂々と国民に要求すればよいのです。これがあってこその「成長」というものです。

 そういう政治家の提案が国民から拒否されるなら、それはそれで我が国の選択です。ですが、この提案すらないなら、政治家の怠慢どころか、無能でしょう。私はそう思います。

 そうだ! 申し遅れました。
 皆様あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
  

番外:ネットでの発言について申し上げます。

2015年01月05日 | 日記
 急なご質問をいただいたので、申し上げます。

 インターネット上の私の発言は、このブログのみに限られています。

 私は、ツイッター、あるいはその他のソーシャルネットワークでは、一切発言しておりません。

 したがって、ネット上において、本ブログ以外に出てくる私のものと称される発言(拙著などの引用は除く)は、すべて別人のものということになり、私自身は一切関知致しませんし、いかなる文責も負いませんので、よろしくお願いいたします。

 なお、本記事のコメント欄は閉じさせていただきます。

                                                         南 直哉 合掌