いちおう今言っておきたいと思います。
第一。実際に誰が、何を、どのくらいの範囲で、いつまで秘密にするのかはっきりせず、なおかつ秘密にすることが適当かどうか当事者以外の誰も監査できないような行為は、政治的制度としてなすべきではありません。
この場合、秘密にする当人・当該機関はその権利に執着するでしょうが、秘密にしたことによって起きた事態に関して、決して責任を負いません。なぜなら、秘密にした当時は秘密である以上、誰が事実上の秘密指定者かわからず、結果が出たときには大抵、彼はその担当役職から移動しているからです。たとえその職にとどまろうとも、秘密が重大なら(重大だから秘密にするのでしょう)結果も重大で、その責任は当事者個々が負いきれるものではないでしょう。
第二。道徳を「学校」で「教科書」を使って「教科」として教え、かつ「評価」するなど、道徳と教育の関係の錯覚でしかありません。下手をすると人間の「偽善」を教えることになりかねません。
道徳を「教える」側が「教えられる」側より常にすぐれて「道徳的」であることは、決してありません。この一事をもってしても、おどろくべき愚策です(学校で数学を「教える」なら、教える者が教えられる者より「数学的」にすぐれていることが絶対条件です)。
思うに、いま「学校で道徳教育」を行うとするなら、最も大切なのは、学ぶ者がこの世に多様な価値観があることを知り、自らその一つを選択する意味を考え、他者による別の価値観の選択を尊重しつつ、彼らと折り合いをつけながら共通の問題に取り組むテクニックを身につけることでしょう。「教員」にできることは、そのための材料の提供と、方法の提案・助言くらいであり、それで十分です。ならば、「教科書」も「評価」も無用どころか有害です。
第三。大学入試で「人物評価」など、妄想にすぎません。だいたい、たかが入試で「人物」をまるごと評価することなど、無理で不要な上に僭越です。
試験とは、特定の目的で特定の能力を試す以上、必然的に一面的で不完全で不公平なものなのです。大学入試の要件は大学のカリキュラムに適応可能な学力を試すだけの話です。「人物」も「人格」も無関係です。「人物」を「評価」する「人物」は、いったい誰がどう「評価」するのでしょうか? 試験官は例外なく「優れた人物と決まっている」とでも言いたいのでしょうか?
無論、ペーパーテストも欠陥だらけの「評価」です。しかし、入学試験程度のことなら、そのほうがずっとマシです。そんなことより、一国の議員や指導者を、本当に今のような「選挙」で選んでよいのでしょうか? 「人物評価」のより強力な制度化が必要なのは、彼らの方です。
以上の三つを制度化しようとする側には、根本的な錯誤があります。つまり、秘密にする者、教える者、評価する者は、例外なく「正しい」と規定して、その「正しさ」を検証する方法も手続きも無視するのです。
この三つの評価、すなわち秘密の妥当性、道徳性、人間性の評価は、評価そのものの「正しさ」の判定が極めて難しい事例です。評価制度を検証するメカニズムを持たなければ、ただの「独善」に陥るほかなく、秘密にされる者、教えられる者、試験される者の災難にしかならないでしょう。