恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

ブッダの統治

2022年04月01日 | 日記
ブッダ在世当時の大国がヴァッジ族の国を滅ぼそうとしたとき、ブッダが語ったという言葉が、『大パリニッパーナ経』(『ブッダ最後の旅』岩波文庫 中村元訳)にあります。

 ブッダは、ヴァッジ族が以下のような七つの態度(七不衰法)を維持するなら、その衰亡は無いだろうと言います。

一、ヴァッジ人が、しばしば会議を開き、会議に多くの人々が参集する間は、ヴァッジ人には繁栄が期待され、衰亡は無いであろう。

二、ヴァッジ人が協同して集合し、協同で行動し、協同してヴァッジ族として為すべき事を為す間は、ヴァッジ人に繁栄が期待され衰亡はないであろう。

三、ヴァッジ人が未来の世にも未だ定められていない事を定めず、既に定められた事を破らず、往昔に定められたヴァッジ人の旧来の法に従って行動する間は、繁栄が期待され衰亡は無いであろう。

四、ヴァッジ人がヴァッジ族のうちの古老を敬い、尊び、崇め、もてなし、そうして彼らの言を聴くべきと思っている間は、繁栄が期待され衰亡は  
無いであろう。

五、ヴァッジ人が、良家の婦女・童女を暴力で連れ出し捕らえ留める事を為さない間は、繁栄が期待され衰亡は無いであろう。

六、ヴァッジ人が(都市)の内外のヴァッジ人のヴァッジ霊域を敬い、尊び、崇め、支持し、そうして以前に与えられ、以前に為されたる、法に適った、彼らの供物を廃する事がない間は、ヴァッジ人には、繁栄が期待され衰亡は無いであろう。

七、ヴァッジ人が真人たちに、正統の保護と防禦(防御)と支持とを与えて、よく備え、未だ、来らざる真人たちが、この領土に到来するであろう事を、又、既にやって来た真人たちが領土のうちに安らかに住まうであろう事を願う間は、ヴァッジ人には、繁栄が期待され衰亡は無いであろう。

 ここで、七にある「真人」は、ブッダの弟子たちに限らず、当時の出家修行者一般を意味しているそうでうす。

 以上の七項目を見ると、ヴァッジ族の人々が、今で言えば保守的で共和制的な統治システムを持っていたらしいことが、わかります。

 経典はこれに続けて、「ヴァッジ人」の文言を「修行僧達」に置き換えて、修行僧共同体の統治について語っています。すなわち、ブッダは自らの僧団が共和制的保守主義に基づいて運営されることを望んだわけです。

 ただ、三に関係してて、ブッも僧団の戒律を安易に変更することを望みませんでしたが、入滅直前、自分の没後に必要に応じて細部を変更することは認めているので、頑迷固陋な前例主義とは一線を画する考えを持っていたでしょう。

 このような、現代で言えば民主主義的統治システムに親和性の高い教団運営を志向していたことに、私は深く共感しています。なぜなら、民主主義的統治システムには、二つの決定的に重要な原則があるからです。

 一つは、民主主義は、それが言論で表現される限り、民主主義を否定する思想を許容することです。

 もう一つは、民主主義は、「人間は間違えることがある」と言う前提で、指導者の変更を必須とする方法を、原則的な制度として実装していることです。

 自己を否定する言論を許すという統治体制は、民主主義以外にありません。それは正に民主主義さえ絶対化することを拒否する態度であり、すなわち、民主主義は、自らも含めあらゆる政治体制が絶対に正しいなどということはあり得ないと、統治システム自体として宣言しているのです。

 となれば、指導者変更の原則的方法を最初からシステムに具えていることは、当然のことでしょう。誰であれ、どんなに「優秀な者」であれ、およそ「人間は間違えることがある」というリアリズムに徹している統治こそが、民主主義の本領です。

世の中に「掛け替えのない」人物などいません。そんな者がいたら、そもそも世代交代ができません。社会の持続を阻害します。実際にいるのは、限られた特定の誰かが「掛け替えがないと思い込んでいる」人だけです。仮にある組織を「掛け替えのない」人物が指揮しているなら、即ちその組織は根本的にダメなのです。

 この二つの原則は、まさに「諸行無常」の考えを前提にしていると言ってよいでしょう。「絶対に正しい何か」、それがシステムであれ人間であれ、そういう存在を認めない態度が統治に適用されれば、それは民主主義的体制になるはずです。

 ならば、専制主義、あるいは独裁体制が、いかに幻想的で危険な統治体制かわかろうと言うものです。異論を徹底的に封じ、自身や自身の体制の「無謬性」を前提に統治するなどという妄想的所業は、結局は巨大な厄災を共同体にもたらす他ありません。

 これを記している最中に、チェルノブイリ原発が電源喪失に陥っているという報道がありました。

 私は改めて思います。

 たとえ如何なる欠陥があろうとも、不断の改良を要件として、民主主義、あるいは共和制的な統治を擁護し続けるべきであると。

 原子力発電であろうと、核兵器であろうと、原子核を操作するエネルギー利用は、人類の手に余ると。

 発電所は、通常兵器を核爆弾に変えます。核兵器に依る「相互確証破壊」という、力の均衡に基づく平和論は、常に理性がまともに働いている指導者の存在を前提にする以上、所詮は幻想です。ならば、発電所だろうが兵器であろうが、原子力・核エネルギーを使う装置は、いずれも廃止・廃絶することを目標とすべきでしょう。

 それが今回の「侵略戦争」が教える「現実」だと思います。